見出し画像

ドーナツの穴を“残さず”食べる方法

ドーナツを穴だけ残して食べる方法』という本がある。
工学・数学・医学・心理学――など、さまざまなアプローチからとにかく「ドーナツの穴」を残すための方法を模索する内容である。

時と場合・気分によって多少変動するが、ドーナツは私の好きな食べ物ランキングTOP3のいずれかの位置に入る。
さくさくの食感・割れたお腹の形がかわいいオールドファッションや、ふわふわ・ふかふか・食べると粉糖がいつまでも唇に残るシュガードーナツ。
なぜか気取ったプードルを連想させるフレンチ・クルーラー。
どれも目の前にすると心が躍る。
もちろん、スーパーで100円足らずで買える駄菓子のようなドーナツだって。



マラサダのような形のものは別として、ドーナツをドーナツたらしめているのは紛れもなくあの「穴」だろう。
ドーナツを愛すればこそ、その「穴」を「穴」として残し、ドーナツのドーナツ性を守り続けたまま楽しみたいと思うのは当然のことだ。

ただ、私と同じように浅からぬ”ドーナツ愛”を持つ皆さまに、いま敢えて問いたい。


ドーナツの穴は、本当に残っていないのか?


というのも、私は熱烈な「ドーナツの穴は実は残っている」論者だからだ。

考えてもみてほしい。
ドーナツ生地が「ない」部分を指して「穴がある」というのならば、「穴がない」状態は穴がドーナツ生地で満たされた場合のことだ。それこそマラサダやサーターアンダギーのような。

「いやいや、“穴”の定義は“反対側まで突き抜ける空間”だから、反対側という概念がなくなった時点で穴も失われるだろう」
……と皆さまは言うかもしれない。それならば、ドーナツを食べ進めるにあたって「反対側」の概念がなくなるのはいつなのか?

一口かじってリングという形状が失われていても、まだドーナツの反対側はあるように思える。
半分くらい食べ進めて「C」のような形になっても、私にはまだあるように思える。オールドファッションのように、表と裏があって「反対側」の概念が明瞭なドーナツの場合はなおさらだ。
しかし、「最後の一口」というところまで来るとわからない。
そのときにはさすがの私も「もう反対側はないかもしれない」と思う。ただ、そう思うタイミングは人によって大きく異なると思われるので、「反対側」がなくなる瞬間、つまり「穴」が失われる瞬間は結局判然としないのだ。



人は、確信の持てない事柄を長く自分の内に抱えておけないと言われている。
「みんなに嫌われているのではないか」「彼は他の女性と仲良くしているのではないか」という疑念にとらわれて証拠集めに躍起になるのも、疑念を「確信」に変えたいからだ、と。

人々が「ドーナツを穴だけ残して食べたい」と願うのも同じで、「穴は(転じて、ドーナツは)いまここにある!」と確信を得たいだけなのだ。
人はドーナツと対峙するとき、きっと無意識に「これは穴があるといえるか? いや、もうないといえるのか? そして、これは果たしてドーナツなのか?」という疑念にとらわれているのだろう。

だから、もう「ドーナツの穴は残っている」と素直に認めてしまえば良いのだ。
確信の持てない穴の存在にもやもやする必要も、穴を残して食べる方法に頭を悩ませる必要もない。なぜなら、ドーナツの穴はちゃんと残っているから。
この世に初めて登場したリング状のドーナツの穴も、未だ誰の口に入ることもなく誕生の地に転がっているに違いない。

そして恐らく、この地上は残されたドーナツの穴で既に飽和状態になっているはずだ。
ドーナツは、ちびっこからお年寄りまで世界中の人々に愛されるアイドルである。これまでに天文学的な個数が消費されているだろう。

ゴミひとつないオフィス街にもドーナツの穴は累々と積み上がっているだろうし、緑あふれる開放的な公園ではドーナツの穴が風に乗ってそよいでいる。
猫が何もない空間をじっと見つめているのもドーナツ穴の数を数えているからだし、子どもが平坦な道で転ぶのもドーナツの穴に躓いているからである。

大変由々しい事態だ。

もしドーナツの穴の増加による弊害に気付かれた方がいるのなら、どうかドーナツを「穴まで残さず」食べる方法を一緒に見つけていただきたい。
さもなくば、やがて世界はドーナツの穴に埋め尽くされ、その穴たちが“反対側”を求めて地球に大穴を開けてしまうかもしれない。

こうしている間にも、1つ・2つとドーナツの穴はどんどん増えていく。
ほら、あなたの足元にも。また1つ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?