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専業主婦の未来予想図~昭和・平成・令和を経て

春の日差しが柔らかいキッチンで、から揚げと向き合う。鳥肉総重量の1%ほどの塩と、お気に入りの根こぶだしに1晩漬け込んだモモ肉に溶き卵、小麦粉、片栗粉をまぶし180度の油で揚げる。こんがりカラッと黄金色になるとジューシーから揚げの出来上がり。

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この日は、春から進学のため仙台で独り暮らしをしている長女のもとへ、母の料理の定期便を送るために、休日朝から台所に立っていた。このから揚げのほかに、煮込みハンバーグ、ロールキャベツ、ホイコーロー、牛肉と玉ねぎに焼肉のたれをからめて炒めるだけの状態にしたもの、そして長女のリクエストであるマルちゃんカップ焼きそば(道民のソウルフード、北海道限定バージョン)を3個つめる。ヤマト便80サイズで送るので、段ボールは近くのスーパーでそのサイズのものをゲット。すきまには少量のおやつを入れる。こういった作業と同時進行で、洗濯、キッチンの洗い物を終わらせる。(この間、おしゃべり好きな次女と夫とのおしゃべりもまた同時進行、困ったことにこの二人、同時にまったく別の内容を話すこともある)

我ながら手際がいい。


専業主婦の仕事はマルチタスクである。子どもがまだまだ手のかかっていた乳幼児期は、先ほどの家事のほかに、子どもと遊ぶ(かなり体力勝負)、遊び道具など片付ける(せっかく片付けたのにまた出して遊ぶ、のエンドレス)、夜寝かしつける(なかなかしぶとく、寝たと思って布団をそっと抜け出そうとすると、ぱっちり目を覚ます)、という人間の精神力を試されるような作業がある。小学校に上がると、それまでと違って体力消耗型タスクは減ってくるが、勉強指導・進路方針指導・友達とのかかわり方、などの教育系タスク、そして思春期&反抗期児童へのメンタルケアのタスクが置き換わる。また、夫の収入の範囲内で費用対効果を考えながら家計を回すタスクもこなす。こうして様々なタスクをこなせるようになったころ、長女の大学進学を機に私の母業というタスクはほぼ、終了した。

そんなベテラン専業主婦の私であるが、3年ほど前、子供の手が離れ始めたことをきっかけに、専業主婦歴19年で身に着けたマルチタスク機能を装備し、緑豊かな環境の大学のパート職員となった。

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職場である大学は、市内中心部に位置しながらも広大な自然に恵まれた場所にある。まるで宮崎駿のアニメにでてきそうな中央ローン、秋になると美しい黄色の絨毯を作り上げるイチョウ並木、樹齢100年を超える巨木、明治時代から現存する建造物などがあり、通勤するだけでも気持ちがリフレッシュされる。仕事をしていると、窓の外からは野鳥のきれいな鳴き声がよく聞こえてくる(鳥に関してはカラスやスズメ、カモメ程度しか認知できないのでかわいい鳥をみつけても一向に認識できない残念なベテラン専業主婦)。

大学での仕事内容は、教授のサポート業務がメインで、あとは学生の事務手続きなどである。日本語が通じなかった娘たちの乳幼児時代や、日本語は通じてるのに全く言うことを聞いてくれないJC・JK時代のことを思うと、教授や学生たちが書類の提出期限を遅れたり、メールを送っても無反応だったりしても全く気にならない(一度催促すれば、すみません忘れていました、と素直に行動してくれる)。また、実験室で使う備品(電子レンジなど)のスペック比較したり、航空券や宿泊施設の手配、汚れている共用スペースの掃除や不要になった書類の破棄など、今までずっと家事の一つとして当たり前にやってきたタスクがほとんどなのでストレスなくこなせる。

長い間、ある意味無報酬でやっていた専業主婦業だったが、同じようなタスクをこなしているのに、それに対し賃金がいただけるなんて、なんと幸せなことだろう。教授というある分野に関して深い知識をもった人や娘と同じくらいの歳の学生、提出書類を間違うたびに丁寧に教えてくれる事務職員、いろいろな人とかかわれるのが楽しくて仕方ない。仕事に向かう日の朝は、いつもシャキッと背筋が伸びるようで気分がいい。こうやって今の仕事を大切に思い、大好きという気持ちで向かい合えるのも、19年の専業主婦という時間を経たからだと思う。いつのまにかマルチタスクをこなすこと、誰かの世話をすることが得意になっていた。得意は好きにつながっている。

娘たちが幼稚園児のころ、大きくなったら何になりたいか尋ねると、”ママみたいにお母さんになって、おいしいごはんを作って赤ちゃんのお世話をしたい”とよく言っていた。実際、”幼稚園児に聞いてみました、将来なりたい職業は?”というアンケートでは上位に”お母さん(たぶん専業主婦)が入っているのをよく目にしたことがあるから、幼児にとってお母さんというのは人気の職業の一つなのだろう。ところが娘が小学生にあがったころ、同じ質問をすると、”お母さんになりたい”と将来なりたい職業に変わりはなかったが、”楽そうだから”と、その理由は大きく変わっていた。専業主婦といえば三食昼寝付き、クレヨンしんちゃんのみさえ的職業だと思われていたらしい。まったくもって心外である。

私が就職活動をしたのは1990年代で、バブルがはじけた、いわゆる超氷河期と呼ばれた時代であった。その当時はすでに、少し歳上の女性たち(バブル世代)の活躍により、バリバリの男女差別は表だってはなかったものの、就活をしてみてまず驚いたのは、企業からの求愛の温度差である。NTTの電話帳かと思うくらいの分厚い資料が男友だちのところにはどんどん送られてくるのだが、女子はといえば薄っぺらい資料ばかりで、さらに資料請求しないと送ってこないという状況。集団面接の時、昇進のない事務職ではなく昇進も転勤もありの総合職についての質問をすると、人事担当者は面倒くさそうに女性はちょっと、というお茶を濁したような説明をする企業もあった。また企業説明会の際、給与体系が男女で全く違うことに疑問を持ち質問してみると、”女性にはできない業務がたくさんあるので”と、さらっと言われ、納得できない場面もあった。某有名企業に面接に行った友人は、生活が乱れているかもしれないから一人暮らしの女子はあまりとらないんですとオブラートに包みながら言われた、と嘆いていた。そんな時代だもの、就職して数年たち、”結婚します”、と上司に報告した際、はっきりとした退職勧告はされないものの、ふんわりと”女性は結婚しちゃうから使えないんだよね”と聞こえるように言われるのは仕方のないことだったと思う。私のような女子は多かったので、周りの友人たちも自然と専業主婦になる割合は高かったように思う。

結婚≒専業主婦という考えがマジョリティだった団塊ジュニア世代の女性が、今もし、そのまま仕事をつづけていたとしたらどんな社会になっていただろう。思えば、子どもたちの小・中・高時代にママ友として出会った人たちの中にはマルチタスク能力はもちろん、人としての資質がものすごく高い専業主婦たちがたくさんいた。学級崩壊寸前の子どものクラスを何とかしてあげたいという思いで、ほかの保護者にも声をかけ日替わりで学校に出向き、先生のサポートをし、崩壊から救った専業主婦たち。学校の業務だけで手いっぱいの先生の代わりに、生徒が寄り付かない機能不全に陥っていた図書室を、みごと地域で図書利用率一番の学校にまで盛り上げた専業主婦たち。そこまでのつわものは少ないながらも、ボランティアでここまで楽しそうに学校をサポートできるものか、と感心するような熱量をもったたくさんの専業主婦たちと私は出会った。自ら考え行動し、社会に貢献できる資質を持ったこういった専業主婦たちがもし、結婚退職をせずにまだ仕事を続けていたならば、彼女たちはきっと頼もしい管理職となって若手の能力を引き出すサポートをうまくやっていたのではないだろうか。そして日本は柔軟性、多様性のある社会にいち早く変化を遂げることができていたのではないだろうか。

平成と令和を生きる娘たちが子育て世代になるころの日本は、ジェンダーギャップ153ヵ国中121位という汚名を晴らし、多様性のある社会になっているのだろうか。それとも、一億総活躍社会の名のもとに、会社人としても主婦としても馬車馬のように働かせられている社会になっているだろうか。










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