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番外編 「普通」って

5月に大学院を無事卒業した。大学院についてはもう1年以上書かずにサボってしまったので追々書いていこうかと思っている。

ようやく自由になったこの夏、ヨーロッパへ旅行をすることにした。最初はパリとサンセバスチャンで楽しい美味しい旅を予定していたのだけど、出発直前になって急遽アウシュヴィッツ訪問をいれた。

子どもの頃に「アンネの日記」を読んでからいつか行こうと思っていた。「夜と霧」もたくさん影響を受けた本だし、ハンナアーレントも尊敬する哲学者。

でも本当の理由は、最近「普通」って「常識」って何だろうと考えるから。
それには二つあって、一つは最近学校構想を真剣に考え始めて、ニューロダイバーシティについて向き合うことにしたから。もう一つは自分が自閉症スペクトラムと重めのADHDを特性として持っていることがわかったから。

ユダヤ人の大量虐殺という意味では、凡庸の悪も人類史上例を見ない規模の犯罪行為がなされた現場は極悪人や狂気の人が動かしていたのではなく、上からの命令に従い同調圧力の中で言われたことをしたアイヒマンをはじめとする「普通」の人々の行動の連鎖が引き起こしたのがユダヤ人の大量虐殺であったということをハンナアーレントについて読んた時に昔知って衝撃的だった。自分も凶悪な歴史に手を染めるかもしれないと他人事ではないのだと思った。

またナチスによって排除の対象と最初にされたのは、当時の「常識」の中で「普通」ではないとされた、いわゆる「障がい」を持った人々である。彼ら彼女らは強制収容所に連れていかれた時に「労働の役に立たない対象」として死の選別をされたし、その前から病院で人体実験をされて命を失った人も多数いたという。これは現代の「普通」の定義と大きく変わらない側面も感じるから、余計に気味が悪いのだけど。

きっと私がその時代に生まれていたら、ユダヤ人だった場合には「普通」ではないとされて死の方に選別された可能性がかなりあると思うし、ユダヤ人でなくても従順になれずに殺されていたか、凶悪な歴史の一部となったか、と思うと背筋が凍る。

そのようなことを思いながら「普通」や「常識」とは何か問いながら、30年以上行こうと心に決めて実現できていなかったアウシュヴィッツへまもなく訪問する。

パリとサンセバスチャンという華やかで食の宝庫でもある街から行くこともあって、気持ちがついていけるか少し不安ではあるけど。でも行こうと思った時が行く時なのだ。このチャンスが人生にまた訪れる保証なんてない。ドイツ人の同級生とは対面で、ウクライナ人の同級生とはオンラインで「普通とは」何か、ホロコーストについて、そしてニューロダイバースな学校構想について、話をする予定だ。これがどのような未来につながるかわからないけど、そんなことはどうでもいい。きっと、いい旅になる。

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