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春風吹く読書

ご無沙汰しております。
今回は3月に読んだ本の共有をさせていただきます。
では、どうぞ。


若島正『ロリータ、ロリータ、ロリータ』

ナボコフの『ロリータ』の表現、描写を論じている一冊。
『ロリータ』を読もうと思って、借りた本です。
何となくネタバレされたくなかったので流し読みでしか読んでいないのですが、文章表現の精緻さ、レトリックを学ぶことが出来ました。
『ロリータ』を読んでから、もう一度読み直したいです。


河野多惠子『小説の秘密をめぐる十二章』

河野多惠子さんは『一年の牧歌』や『みいら採り猟奇譚』などの小説を書かれた方。
小説を書いている者として、学びがたくさんありました。
谷崎潤一郎『鍵』は失敗作とされていて、そこだけは納得できなかったけど、大事なお話がいっぱい詰まっていることは確かです。
私の小説についてはまだまだだなあ、と思うけれど、書きたい気持ちはしっかりあるから、書き続けたいな、と思います。



山田詠美『ベッドタイムアイズ』

『ベッドタイムアイズ』は奇妙な小説である。ここに書かれているのはひどくナイーヴなひとつの愛のかたちにすぎないのだが、それについてなにかを言おうとすると、しかし簡単でないことがすぐに判る。

(竹田青嗣「解説」144頁より引用)

スプーンと呼ばれる黒人兵と「私」のかかわりを描くこの小説。思い出をつくらない「私」にスプーンが「特別」を与えた、その点で読者に苦しさや切なさ、うれしさを思わせる。
退廃的な空気を吸い込み、中毒になってゆく、「私」やスプーンといった人々。私はページをめくるたび、ストックホルム症候群にかかっていくかのごとく、突っぱねることができなくなった。そういう読者を引きこむ奇妙な力を、山田詠美は持っていると思う。


小川洋子『密やかな結晶』

偶然、『ベッドタイムアイズ』との共通のモノが登場していて、驚いてしまった。
それは例えば、比喩としてのチョコバーであったり、警察だったり、匿うことだったり、ねこだったりする。

もちろん、数人の文学研究者が指摘しているように、ブラッドベリ『華氏451℃』と重なる部分もいくらかある。『華氏451℃』は冬の間に読んでいたので共通点を自分でも、ちらほら見つけられてなかなか楽しかった。まるで冬眠から覚めたクマや、蛙のような気持ちになる。

これからはそういう比較文学、共通のモノが登場することにも積極的に触れたり、注目してみたいな、と思う。


多和田葉子『ふたくちおとこ』

ティルは口と肛門のふたつの口で、しゃべった!? 
ふたくちおとこ、かげおとこ、ふえふきおとこなど、ドイツの伝説にあらわれた無用で無意味な奇蹟の男たちの活躍を描く各紙誌大絶賛の話題作。

河出書房新社 https://www.kawade.co.jp/sp/isbn/9784309012445/
より引用

中編小説。
「ふえふきおとこ」は太宰治『葉』のように繋がりがないようである、不思議な構成になっている。
それでいて、「ハーメルンの笛吹き」だと分かる要素にひたされていて、口にふくむとハーメルンを知っている者たちはその味であると気づけるのだ。
繰り返し読むことで、つながりが見えてくる良い作品。

わかりやすい小説もいいけれど、たまには考える小説も読んでみてはいかがだろうか。


川端康成『眠れる美女』

波の音高い海辺の宿は、すでに男ではなくなった老人たちのための逸楽の館であった。
真紅のビロードのカーテンをめぐらせた一室に、前後不覚に眠らされた裸形の若い女――その傍らで一夜を過す老人の眼は、みずみずしい娘の肉体を透して、訪れつつある死の相を凝視している。
熟れすぎた果実の腐臭に似た芳香を放つデカダンス文学の名作「眠れる美女」のほか「片腕」「散りぬるを」。

新潮社サイトより引用 https://www.shinchosha.co.jp/book/100120/

表題作「眠れる美女」は、昨年の春に読んでいたのだけれど、「片腕」「散りぬるを」は、昨日読んだ。
特に「眠れる美女」の女の人の口に指を入れるシーンは(性的なメタファーを含んでいるにしろ)なんとも言えない描写であり、川端が描くと美しく見えるのが不思議だ。
私ではこうはいかないと思う。変態性と耽美、気持ち悪さが共存しているのが、凄い。
退廃的(デカダンス)な空気感にどっぷり陶酔する作品。
三島由紀夫が解説なのも、良い。


森茉莉『恋人たちの森』

頽廃と純真の綾なす官能的な恋の火を、言葉の贅を尽して描いた表題作、禁じられた恋の光輝と悲傷を綴る「枯葉の寝床」など4編。

新潮社より https://www.shinchosha.co.jp/book/117401/

森茉莉を春から1年間かけて研究することになり、手に取った作品。恋愛がテーマであることはタイトルから予測されるであろうが、その恋愛模様は予想しているよりも激しく、荒れていて、けれども美しさが漂う。

貴方は、「砂漠の薔薇」、またの名を「デザートローズ」という石をご存知だろうか。私は、鉱石や宝石類を写真や実物を見るのが好きで、「砂漠の薔薇」を14歳の時買った。ふと、その石を思い出した。本作の表紙が薔薇であったからだろうか。
この石の効果には、悪縁を断つ、良縁を呼び込む効果、持ち主に対して悪い影響を及ぼす人を寄せ付けないパワーがあるとされている。ならば、『恋人たちの森』の薔薇は、悪縁ともいえるような、悪い影響を及ぼす効果のある薔薇であろう。まさに、「砂漠の薔薇」とは真逆である。「湿地帯の薔薇」というものがあるならば、その石が似合うのではないかと思われるほどだ。

しかし、そう簡単に突っぱねるのも、間違いな気もする。「砂漠の薔薇」のいでたちは、繊細で脆く、本作品の登場人物っぽさというものがあるともいえる。さらに、「悪縁」と決めつけるのは私、つまり外側の人物であって、彼ら彼女らにとってこの縁は「良縁」であったかもしれないのだから。


多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』

ドイツの田舎町に千年以上も前からある尼僧修道院を訪れた「わたし」は、家庭を離れて第二の人生を送る女性たちの、あまり禁欲的ではないらしい共同生活に興味が尽きない。

そんな尼僧たちが噂するのは、わたしが滞在するのを許可してくれた尼僧院長の“駆け落ち”という事件だった――。

講談社より https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000206312

年齢、職歴もバラバラの修道院の女性たちをめぐるこの物語は、基督教と関わっていながら宗教じみているわけではなく、人間生活を送っている。2部構成になっており、一人の女性像が少しずつ明らかになっていく展開に引き込まれずにはいられなかった。

勝手に「わたし」は修道院のメンバーに名前をつけるのが、心地よさと優美な印象を与えた。特に好きなのは「透明美さん」だ。いや、「老桃さん」も「陰休さん」も「流壺さん」もいい。
風のように流れていくような、読みやすさがあった。

「透明美さんの発音する「サドー」の「サ」は砂糖のようにさらさら流れ、「ドー」は力強く流れた。」

多和田葉子『尼僧とキューピッドの弓』講談社文庫15頁より


円城塔『道化師の蝶』

無活用ラテン語で書かれた小説『猫の下で読むに限る』で道化師と名指された実業家のエイブラムス氏。
その作者である友幸友幸は、エイブラムス氏の潤沢な資金と人員を投入した追跡をよそに転居を繰り返し、現地の言葉で書かれた原稿を残してゆく。
幾重にも織り上げられた言語をめぐる物語。

読んだ。読んでみた人の中には分かる人もいるかもしれないのだけれど、螺旋階段を永遠に下って、何もなかった感覚がした。いや、正確には何かが「ある」のだけれど、それを「ある」ものと言って良いのか、逡巡してしまうのだ。タイトルの「道化師」そのものである。

話は逸れるが、私は「はね」が好きみたいだ。羽、羽根、翅、🪽。決して重くてはならない。軽く、舞い上がり、柔らかく、光を透く、それである。はねを生やしたいという欲求がある。いつからなのかもわからない。私は蝶や、鳥や、天使や、はねのあるものに、心を盗まれる。ここではないどこかに行きたいという、欲求なのかもしれない。


まだまだ読んだ本はたくさんあるのですが今日のところはこの辺で。
是非読んでみてほしいです。

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