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世界一大好きな、おばあちゃん

▶大好きなおばあちゃん
先ほど書いた通り、私にとっておばあちゃんは、とても大きな存在でした。いつもおばあちゃんと一緒にいて、ずっと後ろをついていっていたのを覚えています。
しかし高校2年の時、そんな大好きだったおばあちゃんが亡くなりました。
一つの布団で寝ていたぐらい、いつもおばあちゃんの横にいましたから、私にとって、とてもとても大きな出来事でした。
相当ショックだったからか、祖母のお葬式のときの記憶は飛んでしまっているのですが、その2年後に弟から、「姉貴、葬式のとき大変だったよね」と言われました。理由を尋ねてみたところ、滋賀の田舎では土葬の慣習が残っていたのですが、土の中に棺を入れて土を被せていこうとしていくときに、
「私も一緒に入る!!」
なんて言って、一緒に入ろうとしていたようです。それを周りが必死になって止めたんだとか…。土の中はきっと冷たいだろう、きっと寂しいだろう、と思ったんでしょうね。私は何も覚えていませんでしたので、それを聞いてとても驚きましたが、不思議には思いませんでした。
それぐらい私にとっておばあちゃんは大好きな存在だったんです。
●おばあちゃんの口癖から学んだこと
おばあちゃんにはたくさんの口癖がありました。今でもすらすらと思い浮かびます。
「ありがたい、もったいない、人様のため、自分を下に。親を大事に。」
「泥棒さんが入ったらお米を与えてあげなさい。」
「怒り、憎しみ、欲、傲慢は心のホコリやから心にホコリをためんようにね」
「自分の体っていうのは高々100年足らずのものだから肉体があるうちは人様の役に立つためだけに使わせてもらえ」
などなど。
おばあちゃんの言葉を反芻して、あるとき私は気づいたんです。
ありがたい=感謝、もったいない=倹約、人様のため=利他、自分を人に=謙虚、親を大切に=親孝行
「滋賀県の田舎に住んでいるおばあちゃんが言っていたこの口癖、これさえできたら、世界中の人が幸せになれるのでは…?」
この気づきが、今の事業に共通で根底にある思い、それにつながる原体験になっています。
おばあちゃんは私のことをすごく必要として大事にしてくれて、私に「お前がいてくれやこそ」と何度も言ってくれました。兄弟の中で私が一番おばあちゃん子だったので、その言葉が本当に嬉しかったんです。自分が必要とされてるということだけで、おばあちゃんの喜ぶ顔を見るために、どんなつらいこともできました。
この経験から、愛する家族や誰かに必要とされることによって、人は立って生きていけるのだと考えるようになりました。
日本の現状を考えると、誰にも必要とされておらず、誰の役にも立ってないと思い込んで、自分が存在する意味も価値も感じられなくなってしまう人がたくさんいます。
たった1人でいいから、「誰かに必要とされている」という感情を持つためのお手伝いがしたい。「お前がいてくれやこそ」という感情のプレゼントを届ける事業をしたい。
そう思って、今は様々な活動をしています。

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