意味のない話 pt.1-現実と虚構について-

 ここ3、4年くらい、現実と虚構ということについて、時々、考えてきた。そのことについて書こうと思う。私は哲学とか、そういう専門的なことは知らないので、本文で用いられている用語が誤用であるかもしれませんが、それはごめん、ということで。あと、文章がわかりにくいかもしれません。わからなかったら、何も考えずに御経だと思って読んでください。何かに目覚めるかもしれません(笑)

私の家族は現実主義、私は虚構主義


 私の家族は、漫画やアニメ、小説といったような「虚構」であると感じられるものに対して否定的で、それらを「(現実にとって)無意味なもの」というような価値観を持っている。だから、実家の本棚には、漫画や小説は全然なかったし、そういうものを親に「買いたい。」というと、「それって意味あるの?買わなくていいじゃん。」的なことをよく言われていた。
 それは確かに一理ある。確かにそういう創作物が直接的に現実に貢献するような何か、例えば、食料や人間関係を生み出すことなんてないし、そういう意味では、こういった創作物はただ時間をかけた分だけ無駄なのである。
 そんな親の教育もあってか、私の家族はとても真っ当な人生を歩んでいる。虚構にふれることに対して関心を持たない代わりに、現実での充実を目指しているからだ。ある時、家族の一人が私に「そんなこと(読書や創作)してないで、なんか始めたら?」と言った。これは私の家族の価値観を象徴するような一言であるように思える。
 だがしかし、かくいう私はといえば、現実から虚構に逃避している。いや、むしろ、「現実も虚構でしょ。」と、そんなふうに思っているのである。こんなこと言っても家族は理解しないだろうし、大抵の人は「何をいってるんだ?」と、思うだろう。
 そもそもなぜ、私が家族の価値観である現実主義(と言っておく)を持っていないのかというと、昔から性格的に、疑い深かったというのはあるのかもしれないが、それよりも、その現実主義を、私自身が実践してきた結果、現実でコケてしまった、というのが大きな要因なのではないかと思う。

なぜ現実でコケたのか

 私だって、昔は現実主義者であったわけだが、コケたから虚構主義者になった。具体的にどんなコケ方をしたのかということについては、触れないでおく。だって恥ずかしいじゃん。だから、なぜコケたのか、そのことについて考えてみようと思う。

分析1 思考力不足

 何かを考えるというのは、頭の中で行われることである。言ってしまえば、考えるというのは、虚構の一部であると言える。であるならば、考えるということをするためには、虚構に頼らざるを得ない。だから、漫画や小説を読んだり、何かを生み出そうと創作に励んだりすること等を通して虚構に触れていくことは、考える力につながっていくのではないだろうかと考えている。考える力が現実を生きていくうえで大切なのだとすれば、虚構を否定するというのは、その考える力を強くしていく妨げになると言えるのではないだろうか。
 そもそも何故、考える力が必要なのか、それは「予測」するためなのではないだろうか。「こう言ったら、相手は傷つくだろうな」とか、「今お金を貯めないと、将来困るだろうな」とか、こういった予測をすることによって、人はできるだけ損をしないように、また、得をするように、戦略を立て、実践しているのではないだろうか。だから、もし考える力がなかったら、予測ができないし、戦略も立てられない。そんな状態での実践は、失敗のリスクが高くなるに決まってる。要するに、考える力がないと、現実でコケやすくなってしまうと言える。

 (ここで少し脇道に寄る。この話の前提として、「考えるというのは、虚構の一部である」としているが、もし、この前提に対する反論があるのだとすれば、「考えるのは、現実の一部でもあるよね。」という主張だろう。人間関係に悩んだり、将来について考えたり、それらも現実の中で起きていることだよねと、そういう主張もあるだろう。私はこれに、反論することができない。「その通り。」としか言えない。なら、私の主張にある前提、つまり、「考えるというのは、虚構の一部である」というのは間違っているのか、いや、間違っていない。何故なのか、それは後から説明する。)

分析2 現実の予行練習不足

 虚構が生まれるのは、内的な世界からである。「内的」な世界があるなら、当然「外的」な世界がある。まっさらな白紙の上に円を描けば、そこに「内」と「外」が生じるのと同じようにして、「内的な世界(虚構)」と「外的な世界(現実)」がある。こういう喩えをして、何が言いたいのかというと、内的な世界と外的な世界は、相互作用の関係にあるということだ。どっちかを切り取ろうとしても、必ずどっちも残ってしまう。さっきの白紙の例えで言うならば、円の線に沿って、ハサミで切り取ったとしても、その切り取られたものにも「内側」と「外側」は存在する。つまり、切っても切り離すことのできない関係が、内的な世界(虚構)と外的な世界(現実)にはある。例え話がわかりにくくてすまない。兎にも角にも、そんな相互関係のある両者の、どちらかを軽視すれば、何かしらの問題が生じるということだけ、わかってもらいたい。
 そういうわけで、現実は虚構の反映、虚構は現実の反映と言えるが、虚構を無視したとき、具体的にどのような問題が生じるのかといえば、虚構に対する理解度が低くなるのと同時に、現実に対する理解度も低くなってしまうということだ。
 私も含め、人類の99.9%の人が、「現実は複雑だ」と感じているに違いない。その現実の一部を切り取ったのがありとあらゆる創作物になると言える。つまり、虚構は現実と比べ、圧倒的に理解しやすい。ここに虚構の利点がある。例えば、何かのゲームを初めてプレイするとして、いきなりボスに挑むことがしないだろう。負けるに決まってる。まずは、チュートリアルから初めて、簡単なステージからクリアしていく。そうやって少しづつ強くなっていって、ようやくボスに挑むことができる。現実の世界は、ボスのようなもので、それにいきなり挑むのは、厳しいのではないだろうか。小説や漫画などを通して、虚構の世界である程度、現実で生きていく力を身に着けてから、現実に挑む。そうすることが、現実でコケないために大切なのではないだろうか。

 まぁ、分析としてはこんなものだろうか。他に考えようとすれば、考えられるだろうが、疲れたから辞めにする。以上のことから言いたいのは、「現実でコケないためには、虚構も大切にするべし。」ということである。

現実は虚構なのか

 ここまで、私の現実主義の失敗による実践知から、思いの外役に立ちそうな話をしてしまったが、ここからは本当に意味のない話になる。役立ちそうに思えた今までのお話が、全て無に帰る。そんなお話をしようと思う。

一つの世界と、二つの世界

 白紙の紙の上に円を描けば、そこに「内側」と「外側」が生まれる。という例え話を先ほどしたのを覚えているだろうか。そのような「内側」と「外側」の関係性は、「内的な世界(虚構)」と「外的な世界(現実)」も同様である、という説明をした。これは言ってしまえば、「一つの世界」を「虚構」と「現実」に区切っているだけで、元は全部同じものだよね、という話しになる。現実と虚構は、個々人の恣意的な「線引」によってでしか分けることができない。だから、私は冒頭の方で、「現実も虚構でしょ」といったのである。私はそういう線引をしている。逆に「虚構も現実でしょ」という人がいるのであれば、それもまた正しい。その人はそういう線引をしているというだけのことである。(これが、分析1でした寄り道に対する回答である。)
 「虚構と現実の違いは、線引によるものだ。」と突然言われても、話があまりにも突飛しすぎて、納得してもらえないだろう。だからもう少しこのことについて説明しようと思う。

世界に線を引く


 人間にとって、最も意識する線引とはなんだろうか。それは「私」と「その他」だろう。多くの人が「私」は確実に存在していると実感しているし、その存在を疑わないはずだ。デカルトさんは「我思う、ゆえに我あり」と言っているし、私という存在は誰にとっても疑うことはできないような感じもする。(一応言っておくが、私はこの名言を、「意識がある、だから私がいる」という解釈をしている。)
 それと同時に、この「私」という存在があるからこそ、「現実」がここにある、と実感できるのではないだろうか。「自転車に乗れるようになった。」「アルバイトで給料をもらえた。」「体が衰えた。」等など、人生における様々な体験や記憶、そういう、「私」の体験が、この世界が現実であるという根拠を与えているのではないだろうか。
 しかし、しかしである。その体験をしている「私」って一体何なの?っていう話になる。これに対する一般的(?)な回答として、頭を指さし、「これ(脳)が私です。」というのがあるだろう。ただ、この回答には問題がある。現代の医学、科学によると、脳の中のどこで「私」が、つまり「意識」が生じているのか、わからないらしい。もっというと、それを見つけることは、無理らしい。(私は何一つ専門性を持っていないため、ここでそのソースやエビデンスを提示することができないが、もしこのことに興味を持った人がいたとしたら、調べてみると良い。)
 私というのが何なのか、科学では証明できない。だから、虚構を用いて説明しようと思う。以下の私の作り話は割とわかりやすいのではないかと、自信がある。早速始めよう。

私と身体とサイボーグ

 人の意識を完全に移植できるロボットが発明された。そのロボットは脳を移植する必要がない為、私自身を完全なサイボーグにすることができる。
 早速私は、意識をロボットに移植し、完全なサイボーグになった。
 サイボーグになった私は、隣りにある私の身体を見る。
 「この身体は私なのか?」
 ロボットに意識の宿った私にとって、その身体は、もはや私ではないことに気づく。私はその「身体」で考えることができないからだ。今の私はこの「ロボット」の中にある。ロボットの私には意識がある。それは確かに感じることができた。

、、、と以上が私が考えた話なのだが、実際書いてみると、なんだかわかりにくい感じがしてきた。(ちなみに、この話の発想元は、荘子の胡蝶の夢である。)それはともかくとして、まず、科学的根拠云々の話は考えなくて良い。話の核はそこではない。(SF好きの皆様、御免なさい。)
 まず考えて欲しいのは、「私」が存在する条件として、私を宿す「もの」が必要であり、それは身体でもロボットでも構わないということだ。私の身体こそが私だと思っているのは、(意識の)私がその身体に宿っているからだ。少なくとも、想像上において、ロボットに意識の宿った「私」も存在可能である。
 納得してもらえなそうだなぁと思いつつ話を進める。私を宿す「もの」が何であれ(身体であれ、ロボットであれ)、それを「私」とすることができるのであれば、なにを「私」とするのかを「私」が線引することが可能であるということが言える。
 ロボットの例えがわかりにくかったら、生の身体で考えてみても良い。身長が100cmでも、200cmでも、それを「私」とすることができる。肢体があっても、なくてもそれを「私」とすることができる。要は、身体の形状が違っても、それを「私」とすることが「私」にはできるのである。それってなんだか不思議なことじゃないですか?過去、現在、未来と時間が流れていく中で、物理的にいえば身体は同一では無いのに、私は変わらず私を同一の存在であるとしている。同一でないものを同一のものにするなんて、冷静に考えて変だと思いませんか?「私」は確かに「私」が何であるかを、恣意的に線引している。そういう説明をしないと、「私」についての説明がつかないと思います。
 今までの話の中で、この「私」の正体を理解できた人は、正直そんなにいないと思う。何故かというと、それほどまでに、「私」という生まれてからずっと続いている幻想を解くことは難しいからだ。(神様を信じている人が「神はいない。」と思うことができないのと似ている。)私にはこれ以上「私(意識)」についてのわかりやすい説明ができないので、今回はこれ以上説明することを諦める。またいつか、説明する気になったらすると思う。
 そういうわけで、「私」の線引について理解できたという体で話を進める。それを理解できた時点で、「私」という存在が線引によってでしか成り立っていないということに気づくはずである。しかも、その線は広げることも、縮めることも可能である。もはや「私は〇〇だ。」と言い切ることはできない。「私」をどう線引するかによって「私」は変わってしまうからだ。
 このことに(体験的に)気づくことを、仏教では悟りというらしい。いわゆる「無我」というやつです。私は何者でもないし、私は何者でもある。それは、「私」による恣意的な線引だから。(仏教に詳しくないので、違ってたら御免なさい。)

世界(現実)は在るのか?

 さて、ようやく現実と虚構の話に戻ります。現実にいる私は、とてもあやふやな存在である、ということがわかりました。極端な話をすると私を「無い」ものにも「在る」ものにもできます。それは「私」による恣意的な「線引」によるものだからです。そうなってしまうと、「私」がいるこの世界(現実)も、明確に「在る」というように言えなくなってしまいます。
 さて、ちょっとだけ話しが逸れます。何かを「在る」というためには、観測者と観測対象の2つが必要です。例えば、りんごが「在る」とわかるのは、それを見ている私と、見られているりんごが在るからです。では、もしりんごを見ている私の目が悪くて、その「りんご」が実は「梨」であったとすると、私が存在すると思っていたりんごは存在していないことになってしまいます。つまり、観測者がしっかりしていないと、観測対象がそこにあったとしても、それが「在る」かどうか定かではなくなってしまうということになります。
 話を戻します。世界を観測する「私」があやふやな存在だとすると、「世界(現実)」がそこに在るのかどうか、確かなことを言うことができません。「私」は、世界の観測者としては、不適格だからです。どうしましょう。どうにもなりません。

世界が無いとしても。

 しかしながら、私達は確かに現実が在ると思って生きています。なぜそう確信できるのか、それは、「私」が「現実」と「虚構」とを「線引」しているからです。というか、そうしないと生きていくのにものすごく苦労します。「私がいるかわからない。」「世界があるかわからない。」とか言い出すと、「あなたがいるかわからない。」「生きているのか死んでいるのかわからない」とか、そういうわけのわからない、全く持って生産性の無いことを言い出しかねません。逆に、線引をするとたくさんのいいことがあります。つまり、「私はここにいて、私がいる世界も在る。」と確信できる。そうすると、現実があると信じることができ、同時に現実ではない虚構もあるのだと信じることができる。何もない白紙に線を引き、それがあたかも「内側」と「外側」が「在る」ように感じられるのと同じように、世界に線を引くことによって、「現実」と「虚構」が在るように感じられる。それが現実と虚構の正体だと思います。

世界を作るのは虚構

 さて、ここまでくると、世界を更に細分化することが可能であるということ気づくのでは無いでしょうか。世界を現実と虚構の2つに線引することができるのであれば、それ以上の線引も可能なはずです。意外にも、その線引の痕跡は、探さずとも、どんなところにも発見することができます。例えば、「親と子」であったり、「動物と人間」であったり、「色と音」であったり、、、この世界にあるものは何でもかんでも「区別」されているということがわかります。何によって区別しているのか、それはつまり、「言葉」です。言葉は世界を区切るための道具です。今更言うまでもないかもしれませんが、「言葉」も虚構です。元々世界に無い区切りを「私」が「言葉」によってつけていくわけですから。
 この「言葉」をより広義に解釈するならば、絵や音楽等の創作物も、世界を区切るための道具である、ということができるのではないでしょうか。そこには「虚構」という名の無限の世界があります。だから私は、現実主義よりも虚構主義が好きなんです。私達が世界を作るためには、「虚構」を信じる他ない。この世界が無いとしても、虚構を信じて、現実を生きて行くのがいいんじゃないでしょうか。

終わり

 さて、何の意味も無い話がようやく終わりました。「時間の無駄だった。」「理由がわからないよ。」「そもそも何を言っているの?」等、思うことはあると思いますが、まぁ、読んだことに意味がなくてもいいじゃないですか。世界は無いんですから。私もあなたも無いんですから。(笑)
 次の投稿がいつになるかはわかりません。明日投稿するかもしれないし、二度と投稿することがないかもしれない。私の気まぐれと気分しだいですね。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?