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社会学史の入門に最適 奥村隆『社会学の歴史Ⅰ』を読んだ

社会学史の入門書としては良書と方々で評判の奥村隆『社会学の歴史Ⅰ』を読んだ。入門書にしてはレベルが高い感は否めないが、評判通りの良書である。

以下、各章の感想を備忘録として残しておきたい。


第1章 「社会学」のはじまり

フランス革命以降、社会は誰かの意図の結果としては説明できない混乱に見舞われ、「社会という謎」に見舞われた。その「意図せざる結果」のメカニズムを解明する「社会の科学」こそが社会学であり、そのために社会学者たちはdetached observerとして社会を観察すると同時に、何らかの社会の理想を実現しようとするinvolved participantsでもある、というノルベルト・エリアスの説明が引かれていて、なるほど筒井淳也の原点はここにあるのかと思った。

相対的な実証主義的研究を唱えたオーギュスト・コントの思想の変遷も概説されており、最後にコントが「人類教」の開祖となる点は否定的に論じられているが、社会学は最後倫理学に近づくという指摘は非常に示唆的なように思った。

第2章 カール・マルクス

読んだのが昔すぎて覚えていないので省略。価値と使用価値の違いはいろんな機会に適用できそうな概念だと思う。

第3章 エミール・デュルケーム

デュルケームといえば実証社会学の道を切り開いた存在であり、初期の社会学を学問として成立させるための理論化や、自殺論で展開した統計を用いた議論展開などは知っていて尊敬していたが、後期に「社会の理想」を掲げて理想主義に傾倒していたのは知らなかったので驚いた。連帯の謎を解き明かそうとしたという奥村の見解は面白く、デュルケームの著書をそういう視点で読みたいと思った。

第4章 マックス・ウェーバー

これまで自分は結構デュルケームにシンパシーを感じるところがあったのだが、読んでみると日常での関心はむしろウェーバーに近いと感じた。例えば『世界宗教の経済倫理』で語られる「神の容器」=「神秘論」=「beingに価値がある」と「神の道具」=禁欲=「doingに価値がある」との対比は自分の今の問題意識の中核の問いに近い。考えてみれば禁欲が生み出した資本主義が現在の社会の根底にある以上、現代社会の評価基準が根本的にdoingの価値観であるのは致し方ないことなのかもしれない。

『プロ倫』でウェーバーが述べるように「鉄の檻」と化した資本主義社会では、「われわれは天職人たらざるをえない」わけで、そこで「意味の喪失」「自由の喪失」が起き、「精神のない専門人、心情のない享楽人」が生まれるのは現代日本に生きる自分にとっては目の前で起きている光景そのものと言える。天職人たらざるをえないというウェーバーの分析は、ザッカーバーグが「全員が目的を得られる社会を実現しなければならない」と言うとき肯定的にリフレイムされて提示されていることと同じ内容を指していると思う。100年前にマルクスとは違う意味でこれほど的確に資本主義を批判できたのはすごい。

最後には「複数の意志の空間」での結果への責任の取り方として、議論と妥協を導く政治のあり方に希望を見出した点でウェーバーはリアリストなところがあり、その意味でも好感が持てる。

第5章 ゲオルグジンメル

某先生に「洞察社会学」と言われていたジンメル。確かにあまりエンピリカル(経験的)な学問を展開したわけではなさそうなのだが、ある意味ミクロ社会学の生みの親と言えそうな重要な業績を残していたことを知った。

「結合しつつ分離する」「分離するから結合する」という社会事象の両義性を表すのに「橋と扉」に比喩を持ち出すのはかっこいい。相互作用による社会化こそが社会学が解き明かすべき社会であるという定義は一面的だが的確な気がする。大都市の冷淡さは都市の結合を可能にするものであり、それによって自由が手に入るというのは興味深い考察で、本当にあらゆる物事は両義的だなと思った。

二者と三者では結合の形式が異なり、三者では超個人的な客観的構成体になる、だから冷え切った夫婦だけでなく情熱的に愛し合っている夫婦も子供を欲しがらない(関係が変節していしまうから)という指摘は実証したい命題だった。「子は鎹」ということわざに真っ向から反している命題だが、果たして日本ではどうなのだろうか。

距離は差異があるままに人々が自由であることを可能にする。「唯一性の個人主義」は一つ近代が掲げた理想のように思う。連帯の必要性がより可視化されている現代にあって、どうすれば適切な距離を設定できるのかは考えていきたいところだ。

第6章 シカゴ学派とミード

まず初期のアメリカの社会学がスペンサーの影響がこれほど大きかったこと、「適者生存」がそもそもダーウィンではなくスペンサーの用語でありのちに『進化論』に取り入れられた(ダーウィンはもともと「自然選択」と呼んでいた)ことなど、知らなかったことが多く衝撃だった。

エンピリカルな調査はシカゴ学派から始まり、当初、ウィリアム・アイザック・トマスの『ヨーロッパとアメリカにおけるポーランド農民』の頃は進歩への適合が問題意識の前提にあったのが、ロバート・エズラ・パークやアーネスト・ワトソン・バージェスを経て、パークの弟子アンダーソンあたりから優れた参与観察に基づくエスノグラフィーやライフヒストリー研究を生み出すようになる。社会学の質的研究の萌芽はシカゴ学派にあったのか、と納得した。

第7章 パーソンズマートン

率直に言ってパーソンズは頭がおかしいと思ったが、その理論的な展開は分からないながらにすごいと思った。特に行為の種類と目的の分類が彼のシステム論の根底にあると知れたのは良かった。共通の文化によりダブル・コンティンジェンシーは解決されるというのは「ほう」という感じだが、そもそもダブル・コンティンジェンシーが問題として提示されるのはどういう論理展開によるものなのかは読まないとわからないと思った。端的に言って直感的にはこんな命題は出てこないだろというのが僕の感想である。システムの中に究極的目的を位置付けてしまうパーソンズ自身がプロテスタントの倫理に拘束されているという指摘はなるほどと思った。

比較するとマートンはだいぶ好感を持てる。出自もそうだし、「顕在的機能」「潜在的機能」「顕在的逆機能」「潜在的逆機能」という分類が「意図せざる結果」を問うという社会学の目的を明確に示すツールになっていてすごいと思う。予言の自己成就が潜在的逆機能の一例だというのはなるほどだった。「文化的目標」は全員に強制されているが「制度的手段」の分配は不平等で、パーソンズのいう共通の文化が壮大な逆機能を生み出すかもしれないという指摘は、サンデルのメリトクラシー議論に通じる本質的なものだと思う。

第8章 亡命者たちの社会学

明確にラザースフェルドとフロム上げでアドルノ下げなのでアドルノがかわいそうだった。ただアドルノも実証性に乏しい議論を展開してるのはいただけない。権威主義的パーソナリティがFスケールなる指標で質問紙調査で実証されてたのは知らなかったが、頑健な実証ではなさそう。マンハイムとエリアスについては初めて詳細を知ったが、マンハイムの「相関主義」は抽象的だなと思い、まだエリアスの儀礼研究の方が面白いと思った。

とりあえずフロムは読みたいと思う。To Have or To Be? は自分が考えたいことに近い議論をしてそう。鈴木大拙を引いてるなんて絶対面白いでしょ。

まとめ:社会学の良質な入り口

各社会学者の思想について、コンパクトに知ることができ、学びの入り口となる、知的好奇心をくすぐられる本であることは間違いない。続編も先日ようやく発売されたので、早く読みたいと思う。

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