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#49「好む自由、好まぬ自由」

さとゆみさんの連載「今日もコレカラ」を読み、感じたことを書く。引用リプじゃおさまりきらない、グルグル余韻の言語化トレーニング。

答えを持っているのはだいたい「自分」ではなく「先方」で、
同じものを差し出しても「先方」が変われば、評価も変わる。

めちゃくちゃ当たり前のことなのだけれど、意外と忘れがちだなと思った。

答えは相手が持っている【さとゆみの今日もコレカラ/第239回】



他人からの評価にビクビクしたり、心を踊らせらたりするアホらしさ。

自分の軸がない生き方は、ほんましんどい。




小学生のころ。

当たり前のように、「みんなから好かれたい」と思っていた。だれからも愛される人を目指し、少々嫌なことを言われようが、グッと飲み込んで笑顔をつくる。

だから、「嫌われる」のが怖くて、クラスメイトがこっちを見て話していたら

「もしかして、私のことを噂しているんかな」

なんて思っていた。自意識過剰にもほどがある。


一方、30年ほど歳を重ねた私は、「好き・嫌いは仕方ないよね」と思う。みんなから好かれるなんて、そもそも無理な話。

だって、好き・嫌いなんて思いっきり主観よね。例えばコーヒーでも、毎日飲まないとダメなぐらい大好きな人がいれば、1滴も飲めないっていう人もいる。

だからって、コーヒーが悪いんではない。苦手な人に合わせて味を変えていくと、もはや最初のコーヒーではなくなるだろう。

合う人がいるんやから、合わない人だっている。ただそれだけの話。

✳︎

「人に好かれるのが良いことで、嫌われるのは悪いこと」

それ、だれが決めたん?

出どころ不明な「常識」にとらわれ、自分を縛りつけるなんてアホくさい。

そりゃ、人として尊敬していて、憧れるような人に嫌われたら、反省すべき点はあるだろう。

一方、あんまり関わりたくないって人から嫌われるのは、当然のことよなぁ。だって、「カラー」が違うんやもん。相容れなくて当たり前。哀しむ必要すらない。ステージが違うんよ。


ライターも同じよね。

一生懸命書いた文章だからこそ、ついつい自分を重ねてしまう。

けれど、文章が受け入れられなかったからといって、自分がダメなのではない。シンプルに「その相手には」合わなかっただけ。

人の数だけある評価に一喜一憂し、個性をそぐなんて本末転倒。


評価されるために書くの?
書きたいから、書くの?



私は後者。書きたいから、書いている。



読むも自由、読まぬも自由。されど、我は書き続けるのじゃ。


▼6月27日の午前7時ごろまで読めます!こちらもぜひ♪














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