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七転八倒、十年目の起業日記

小学校の頃、色んな仕事を調べて将来の目標を書くという授業があった。

折しも、ホリエモンがもてはやされていた。起業ブームである。アナウンサーとホリエモンが飯を食っているだけの番組がテレビに放映されていたのを覚えている。今考えれば何かがおかしかった。

小学生の僕は目標欄に「社長」と書いた。

同級生に理由を聞かれて答えたのは「人の下でやっていけそうにないから」。小学生にして、適切な自己分析が出来ていたと言える。


思い返すと、「将来の夢」が叶ったのはもう随分前のことになる。2014年10月にCMO株式会社(旧sparcc株式会社)を立ち上げて、もうすぐ10期目だ。

考えてみれば、これまでほとんど会社の振り返りを書いたことがない。

しかし、メンバーも増えたことだし、そもそもの成り立ちを知ってもらわないと困る。ということで、ここに、CMO株式会社の社史を書き記そうと思う。

言っておくけども、七転八倒、かっこいい話はない。できればブラウザを閉じてもらうと嬉しいのだが、書いてしまったからにはそうもいかない。

サイトもちゃんとしてきた


会社を作ることは難しくない。難しいのは続けることだ。もっと難しいのは、続けたいと思い続けられることだ。

これまでの9期、振り返ってみると、ほとんどの時期は「畳めるなら畳みたい」と思っていた。馬鹿みたいに聞こえるかもしれないが、起業はしんどいからだ。

ポール・グレアムのエッセイ(起業家の9割は読んだことがあるはずだ)にこんな一文が出てくる。

Y Combinatorの仕事をやってきて見つけた興味深いことは、創業者たちは何百万ドルも手に入るかもしれないという望みよりは、みっともなく見えることへの恐れにより強く動機づけられるということだ。

だから何百万ドルというお金を手にしたければ、失敗が公然として恥ずかしいものになるような位置に自分を置くことだ。

死なないために, Paul Graham / 青木靖 訳

その通りだ。みっともなく見えず、そこそこの金額で買収されたり、辞める方法があれば、多分もっと前にやめていたと思う。

幸か不幸か知らないが、今までそういう機会がなかった。続けるか、惨めに辞めて「就職します!」と宣言するか、2つの道しかなかったのだ。

だから、とにかくやめなかった。それで、この会社は続いている。


同時期に起業した人とは、「早く上がりたい」「疲れたから楽になりたい」とよくこぼしていた。上場とか金持ちになるとか、そんなことよりも、早く抜け出したいと思っていた。

みんなそうだった。不思議といえば不思議だが、考えてみれば当然だ。

起業しようという人間は、それなりに立派な経歴の人間が多い。それが、起業すると突如明日のご飯代もどうするか考えなくてはいけなくなる。それでいて、バラ色のように投資家や従業員を勧誘しなければいけない。

どんよりした会社にはヒトもカネも集まらない。スタートアップは夢と希望で成り立つ金融商品であり、CEOもまた商品だからだ。

因果な商売である。


全ての起業家はお金の苦労から逃れることが出来ない。僕自身も起業してからこの方、お金のことを考えなかった日はないと言っていい。

お金の苦労は人のメンタルを削っていく。

よっぽど潤沢に資金調達してない限り、多くの起業家はシード期や起業当初に「銀行口座が◯◯円になった話」を持っている。

最近はシード期にも随分潤沢に資金調達出来るようになっている気もするが、僕らが起業した時代はもっとシビアだったから、余計である。

翌月30万のカード払いがあるのに7万円になったことがある。親に金を借りたり、取引先に支払いを催促するなど頭を下げ倒して何とか資金を工面した。


苦労話はあまり表に出ない。出る時は結局、成功した人間からしか出ない。Airbnbがシリアルを売っていたかもしれないが、世の中にはシリアルすら売れずに消えていく人だっているはずだ。

「これは、神に祈って難破から助かった人たちの写真です。彼らは神に感謝しているのです」神父さんが重々しく言った。

「なるほど」見物客はうなずいた。
「じゃあ、難破して助からなかった人たちの写真はどこにありますか?」

出典不明のジョーク


創業期の話

創業当時の話をしよう。2014年のことである。僕はGoogleを退職した。辞めた理由は色々あるのだけれども、端的に言うと飽きてしまった。


人生唯一の公式な上司である伊田さんには大変な心労をかけた。先日久しぶりにお会いしたところ「Yumaさんは今のグーグルには絶対入れないでしょうね!」と満面の笑みで言われた。まあ、確かにこんなのが部下に居たら大変だろう。

とはいえ、伊田さんには随分良くしてもらった。退職時には「いつか戻ってきた時に不利にならないように」と高い評価をつけてもらった。色々心配していただいたのだと思う。もう戻ることもないだろうが、心の支えとしてありがたかった。


お金を使わない生活をしていたので、とりあえずお金はなんとかなるだろうと思っていた。今考えれば随分甘かった。しかし、グーグルの仕事は暇な割に給料がよく、更に朝昼晩飯も出るので、「福利厚生だけでは人は幸せになれない」と思っていた。

しかしそれは、金持ちの論理である。当然ながらお金は沢山あった方がいい。当たり前だ。


とりあえず、会社を作ることにした。色々選んだ英単語の中からsparkから文字を変えて、ドメインが取れそうなsparcc株式会社にした(あの頃はドメインが取れなければ最後に同じ文字を足したりするのが流行っていた)。

パワポで作った名刺。謎の星型はその名残

もっと読みやすく、わかりやすい社名にするべきだった。そもそも、.coも.comと間違われがちなので辞めておくべきだった。

後年に社名変更するのだが、反省してわかりやすい名前にしたところ、GMOさんとよく間違えられるようになった。一度、先方のスケジューラーに「GMO 社長来社」と書かれていて大変申し訳無い気持ちになった。社名とは難しいものである。


その後、面談を受け、アクセラレーターであるOpen Network Labに入れてもらえることになった。右も左もわからない20代前半の若造にチャンスをくれたOnlabには本当に感謝している。

サービスづくりをしてみたかったので、Wantedlyの創業者である仲さんにRailsの本を貸してもらってサービスを作ることにした。あの本には随分お世話になった。(ご無沙汰していますが、ありがとうございました)

この時はエンジニア向けのキュレーションサイトなどを作っており、一応審査員特別賞みたいなのも貰った。

その後、広告運用ツールにピボットしたりしてIncubate Campなどに出るなどしたが、相変わらずPMFせず、鳴かず飛ばずであった。

熱心に投資家に会ったりもしたし、一応投資の話もいくつか頂いたりしたが、結局、いまいち肌が合わず、進まなかった。


結局、今振り返って考えてみれば、スタートアップという世界にいまいち馴染まなかった、ということに尽きる。カルチャーも含めて。

人には向き不向きがある。起業も色々あり、スタートアップだけが選択肢ではない。


社名変更、一人法人期

このころ、ちょくちょく「マーケティングを手伝ってほしい」という話があり、その受諾で飯を食っていた。黒字ではあったが、既にスタートアップという感じではなかった。

ということで、調達を諦め、資本関係を解消するべくOnlabに頭を下げ、株を買い取らせてもらった。かっこよく言うとMBOだが、撤退に近い。

会社を閉じてもいいよと言ってもらったのだが、仁義としてとにかく株だけは買いたかったので、無理を言ってお願いした。未だに期待に答えられず、申し訳ないという気持ちがある。

担当してくれていた松田さん、有山さん、大竹さん含め、今も大変に感謝している。


そんなわけで、株を買い取ったsparcc株式会社は、社名をCMO株式会社に変え、マーケティング支援の会社となった。

名前を決めるに当たり、Communeの現CMOである杉山くんに相談した。「いいんじゃない」と太鼓判を押してもらったので自信を持って変えたのだが、後から聞いたら「まさか本気だとは思わなかった」と苦笑いされた。

そういうことは、早めに教えてほしい。


オフィスは当初自宅と代官山のOpen Network Labのシェアオフィスを使っていたが、このころ新宿のレンタルオフィス(BizCircle 新宿区役所前)に変わった。

家賃は恐ろしく安く、アクセスは最高なので、決して悪い物件ではないのだが、いかんせん個室なのに窓がないので1時間もいると人生のすべてがどん底に思えてきた。

歌舞伎町なので、2日に1日はどこかで喧嘩が起きていて、影響された僕はこの世の終わりのような顔をしてよくオフィスから徒歩30秒のHUBで黙ってビールを飲んでいた。

個室かつ駅近という意味では最高の物件だった。何事も長所と短所がある

そこから新宿二丁目のコワーキングを経て、今は新宿南口のWeWorkに登記している。

新宿は新宿でも、高島屋の隣は歌舞伎町と比べると天国だ。喧嘩もおきない。随分環境が良くなったものだ。16Fの眺望からは優しい日差しが差し込むようになっている。

窓があるのはすごいこと


大きな転機となったのは(OnlabつながりでZenport創業者の加世田さんに紹介してもらった)技術評論社さんから本を出させてもらったことで、「本を読みました」とご連絡を頂くことが増え、ようやくそこそこには食えるようになっていた。

本の帯には、案件でご一緒した元ニワンゴ杉本さんとシンクロの西井さんの名前を堂々と載せた。自分の名前より遥かにお二人の名前のほうが大きいが、そのお陰で売れ行きも伸びた(サムネイルでも自分の名前は読めない)

西井さんには間違いなく、うちの会社にとって一番の恩人である。足を向けて寝られない。

以前「足を向けて寝たくないので、どこに出張してもコンパスを持ち歩いて方角を確かめてから寝るようにしてます」と伝えたら「嘘じゃん」と言われた。

その話の真偽は胸にしまっておくとして、西井さんには感謝している。


一人法人が長かったが、QOLはそこそこ高かった。

SNSのアカウントが有名になって、いろんな新聞や雑誌寄稿させてもらったのもこの時期だ。普通では出来ない経験を色々とさせてもらったし、とても深い人脈をたくさん得ることが出来た。

良い時期だったと思う。


拡大基調へ

大きな転機は、現COOの吉岡が入社したことである。

吉岡はたまたま同じ案件に入っていた関係で仲良くなったが、「そろそろ子供が生まれるんですけど、フリーランスになろうと思うんです!」などと豪語していたので、必死に引き止めて一人目の社員として入社してもらうことになった。

起業の大変さはよく理解していたので、そんな大変な時期に起業したら大変なことになる……と、なぜか(会ったこともない)結婚相手の顔が脳裏に浮かび、ぜひウチに入社するべきだと必死に主張した。

吉岡はとにかくマーケティング周りなら何でも出来る人間だ。こんな人材はなかなかいない。案件を任せることが出来て、ようやく「経営」的なことが出来るようになった。

とはいえ、豪語したはいいが、その時点では売上よりも二人分の給料のほうが高かった。元々正社員も雇うつもりもなかったし、無駄な仕事を受けるよりは色々見て回ったり、やりたいことをやろうと思っていた。

入社をお願いした以上、前職の給与からは下げたくない。しかし、このまま給料を払っていたら大赤字だ。悪夢である。


頭を抱えて、とにかく四方手を尽くして色んなところで仕事を探すことにした。そうしたところ、奇跡的にタイミングが重なり、今も続く重要な仕事が増えてきた。

正社員が生まれ、なんとしても「給与」を払わなければならないということで、好むと好まざるとにかかわらず、腰を据えて経営をすることになった。再び余裕が消えたのだ。

結果、この数年はずっと売上・利益が毎年倍々成長になっている。本気になればなんとかなるものだ。

最初から本気でやってれば今頃上場していたかもしれないが、それは結果論というものだろう。


もう一つの転機は、メンバーズさんの新入社員を受け入れ、期間限定とはいえフルタイムのメンバーが増えたことだ。これで、ようやく会社らしくなってきた。忘年会も出来るようになった。


気合で受けいれを増やしていたら、オフィスも拡張し、10人を超えていた。もうこれは立派な中小企業である。

カメラに収まらなくなってきた

人が増えたり退職があったり、色々チャレンジもあったが、従業員も増え、少しずつ会社らしくなっていく過程を楽しんでいる。

良いクライアントに恵まれて、しっかり我々の強みを活かすプロジェクトが出来ていることは、この会社の誇りである。

若いメンバーのキャリアにとって重要な時期にできるだけチャンスを与えられるよう、汗をかいている。


かがり火をともして

今見直しても、七転八倒、かっこいい話や華々しい話はない。ここには書ききれないほどの多くの失敗をしてきたし、今考えれば穴に入りたくなるほど、恥ずかしくて辛い話もたくさんある。

鬱々としてベッドの上から起き上がれなかったことも、駅の片隅で涙が止まらなくなったこともある。


起業家を選んでから、ずっとモットーにしていた言葉がある。ウディ・アレンの「80 Percent of Success Is Showing Up(成功の8割はただそこにいることだ)」という言葉だ。

実際のところ、ただそこにいる、ということは、ものすごく難しい。

「起業仲間」だった人の中でも、買収されたり、辞めて会社員に戻っている人もいる。ひっそりとSNSが更新されなくなり、今何をやっているのかわからない人もいる。

みんな、どこかで上手くやっていて欲しいと思う。起業だけが人生ではないし、あえて言うなら人生の幸福とはあまり関係がない。

とにかく、起業家で居続けることはけっこう大変なことだ。


先日、大学のサークルの同期であり、同じブレークスルーキャンプ(学生向けのインキュベーション)のメンバーでもあった阿部くんが同じWeWorkに入居してきた。

やわらかなソファに腰掛けながら「とにかく、お互い潰れてないよね」としみじみ話し合った。

それが一番難しくて、大変なことを知っているからだ。例え成り行きだったとしても。


あの時起業したのは、結果的には正しかったのだろう。全ての情熱は、いつか消える。やりたいと思ったことだって、いつかはやりたくなくなる。今同じことをしろ、と言われてもきっと出来ない。

認めたくないけど、まだ若かったのだろう。

情熱には賞味期限がある。でも、一度燃えた情熱がたいまつに灯れば、かがり火となって先を照らし、温めてくれる。やがてその光に人が集まることもあるだろう。そうして会社というコミュニティも大きくなっていくのだ。

我々も、少しずつであるが、強く大きくなっている。まだ何か新しいものを作ろうと苦しんでいる。晴れの日もあり、雨の日もあるが、歩みを止めることはない。


火は、まだ消えてはいない。ともしたかがり火は燃え、うっすらと道なき道を照らしている。我々は、その道を進む。

僕らはまだ、ここにいるのだ。


最後に

たくさん迷惑をおかけした人もいるし、ここには書ききれないほどの多くの人にお世話になった。皆さんのおかげでなんとか存続しています。読んでいるかわからないが、この場を借りてお詫びとお礼を。


いくつか本も紹介しておきたい。このエントリを書く前に「不格好経営」を読み直した。

本文には書いていなかったけど、実は大学四年生の時に南場さんにお会いしたことは起業のきっかけの一つである。

早稲田には大和証券の寄附講座があり、その日、たまたま南場さんが社長を退任されることを発表した日にゲストスピーカーとして来ておられた。

創業の時からの話を聞かせてもらい、何か新しいものを作るということは本当に素晴らしいことだと感じて、タクシーに乗る南場さんを引き止めてご挨拶させていただいた。

大変な時期にも関わらず、爽やかに、「おう、いつか一緒に仕事しようね」と言っていただいたことを覚えている。

考えてみれば、世の中には色んな会社があり色んな経営者がいる。それぞれに成功も失敗もある。自分も一つ、書いてみるとするか。そう思ったのは、このときのことを思い出したからだ。

エラい人が「不格好」などと言っているのだから、こちらもカッコつけるわけにも行かない。ということで恥ずかしながらこのエントリを書いた。


もう一人、起業のモチベーションになった人がいる。ザッポスのCEOだったトニー・シェイだ。何度もこの本は読んで、元気をもらった。従業員ファーストの考え方には深く共感した。

残念ながら、トニー・シェイは後年、Amazonに自分の会社を売却した後、ドラッグに溺れ、人生を見失い、健康を害し、亡くなった。

人生最高の一日が来たように思っても、人生最悪のイベントが起こることもある。それが人生なのだ。人は何かを成し遂げたように見えても、そこに永久にとどまることは出来ない。ハッピーエンドは存在しない。

それから、やっぱり何のかんの言っても、お金じゃないのである。チャップリンも言っていたが、人生に必要なのは「愛と勇気とお金が少し」だ。「少し」というのが重要なのだ。

会社を売却することは悪いことではないが、お金だけで幸せになれるような幻想を持つのは、起業を志す人にとってはあまり適切ではない。それはやはり、長年コミュニティに属していて、分かったことだ。

トニーが安らかに眠っていることを信じたい。


ということで、十期目を迎えるCMO株式会社もよろしくお願いいたします。なんでも相談してください!


蛇足ながら一応、最近立ち上げたサービスサイトの宣伝も。


絶賛採用もしてます。


励みになります!これからも頑張ります。