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【劇団四季】『ライオン・キング』は四季版が最上級かも知れない・・・。

今回は3月9日、有明四季劇場にて『ライオン・キング』を鑑賞してきましので、その感想を書いていきたいと思います。


有明四季劇場

作品紹介

太陽煌めくアフリカの大地を舞台に、「サークル・オブ・ライフ(生命の連環)」をテーマとして繰り広げられる壮大なミュージカル『ライオンキング』。
その歴史は1997年、ニューヨーク・ブロードウェイで始まりました。開幕と共に『ライオンキング』は空前のブームを巻き起こし、1998年には演劇界最高の栄誉とうたわれる世界最大の演劇賞・トニー賞の中でも最も優秀な作品に贈られる最優秀ミュージカル賞を受賞。その他、最優秀演出賞、振付賞、装置デザイン賞、照明デザイン賞、衣裳デザイン賞の計6部門を受賞し、さらにトニー賞のみならずグラミー賞やドラマ・デスク賞など数々の賞を受賞しました。

公式サイトより引用


そもそもアニメ版・実写版『ライオン・キング』について思うこと

2度の映像化

『ライオン・キング』は、1994年6月24日に全米で公開されたディズニーによる長編アニメーション映画であり、32番目のディズニーアニメーション作品だ。
ディズニー・ルネサンスと呼ばれる時期に作られた成功作のうちの1本であり、しかも興行収入に関しては、現在のインフレを考慮し計算し直すと、歴史上最も観られたアニメ作品だ。

サバンナの王として君臨するライオン、ムファサに息子シンバが生まれる。ムファサの弟スカーは、王の座を狙い、ムファサ暗殺を企み、罠にはまったムファサは絶命。邪悪な叔父スカーに父王を謀殺されたシンバは国を追われ、イボイノシシ等サバンナのはぐれ者たちと暢気なその日暮らしを送っていたが、恋心を抱く幼なじみのナラに、故国の窮状を訴えられ、皆を引き連れ帰郷、スカーと一対一の決闘に臨む......。

2019年には、超実写版としてジョン・ファブローによるリメイクもされたことも記憶に新しい作品である。

この作品は上述したように、典型的な貴種流離譚だ。
「プライド・ランド」の偉大な王ムファサの息子で王子のシンバ。
彼はスカーの策略で父を殺され、自身も「プライド・ランド」から追われ、そしてそこから「自身の本当にやるべきこと」に気づき戻ってくる物語だ。

映画自体が非常にシンプルな構造であること、そしてやはりエルトン・ジョンの「愛を感じて」
そして「サークル・オブ・ライフ」といった名曲の数々の力。
これらが合わさり大ヒットしたことは間違いない。

ただ、この作品、後年の実写版とも合わせて一つのどうしても拭いきれない要素というのがある。

欺瞞に満ちたテーマ

この作品は先ほども述べたが、基本的なストーリーは貴種流離譚である。
だがそれと同時に語られるのは「サークル・オブ・ライフ」という言い方で隠されているが、実際は「食物連鎖」についてだ。

この作品の冒頭と、あえてそれと似せた形で描かれるラストシーン。
ここで草食動物が肉食動物の王であるライオンの王子に頭を垂れるのだが、まさにこれこそが違和感の正体だ。

つまりこの作品の根っこにはどうしても「食物連鎖」つまり「喰う・喰われる」ということがあるのだ。
しかもこの世界観では「コミュニケーション」を取れる動物同士が、「喰う・喰われる」関係性にある。
「喰われる」ものが「喰う」ものに頭を垂れる、それはいくら「サークル・オブ・ライフ」という綺麗事で隠しきれない「リアル」があるのだ。

この作品の持つ違和感をアニメ版では「とはいえ寓話」つまり「おとぎ話」として逃げることが可能だった(それでも違和感はあるが)。
しかし実写版は逆に「動物や世界をリアル」に描き過ぎたからこそ、この違和感がむしろ増長されて見えてしまうのだ。

そんな『ライオン・キング』という物語を劇団四季が演じればどうなるのか?
今回はそこを切り口に紐解いていきたい。

劇団四季『ライオン・キング』の凄さとは!?

この作品の「リアル」を揺るがす2度の「破壊」

当日のキャスティング

さて、この劇団四季による『ライオン・キング』
少なくとも自分が鑑賞してきた四季作品の中でも異質な作品だと言える。

端的にいえば「人間」が「動物」を演じるという、非常に飲み込み難い設定だともいえる。

例えば主人公にあたるシンバ。
彼は頭にライオンを模したマスクを頭に乗せて、上半身は半裸。
だが舞台の上で彼は「人間」ではなく「動物」であるという、そこに対して観客には想像力が求められるのだ。
これは、少なくともこれまで鑑賞してきた作品のどれよりも、観客の忖度がに依存していると言える。

そのためこの作品、実は冒頭から非常に力技で観客を世界観に引き摺り込んでくる。
開始から5分ほどで、客席を動物が大行進をしていくのだ。
この時点で創意工夫を凝らされた動物たちの動き、カラフルな世界観、様々なテクニックを使い一気に攻めてくるのだ。
この時点で、「想像力」はマックスに働き、我々の目の前にはサバンナが広がり、目の前には野生の動物がいるかのような錯覚に陥るのだ。

つまり我々はこの冒頭のたたみかけにより、何の違和感もなく「人間」が「動物」を演じているのではなく、そこにいるのは「動物である」として、物語に没入するのだ。

しかしこの作品は途中、観客との間に生じたいわゆる忖度を舞台の側から「破壊」するのだ。

まず一度目はシンバ、ナラがムファサの命令に背いて「ゾウの墓場」でハイエナに襲われた後だ。
このシーン、ムファサがシンバと2人きりにあり「今日、息子を失うかと思って怖かった」と独白するシーンで、その後「星」についてムファサがシンバに語りかける、原作でも屈指の名シーンだ。

ここを四季のアレンジでは、ムファサがなんと、頭頂部のマスクを外して地面に置くというアレンジになっている。

ここまで「マスクありき」で、演者はライオンムファサであると観客は見立てていたはずなのに、それをあえて外すことで、「人間」であることを見せたとも言える。
ただ、このシーンの意図としては、「マスク=王冠」を外し、「父」として息子と向き合う演出だったとも言える。

しかしこのシーンはこの作品自体の描きたいリアルを、あえて「破壊」しているとも言える。

そしてもう一つ、しかもこれとは比較にならない「破壊」が劇中にあり、ここは観劇中「唖然」とさせられた。

2度目の「破壊」の効果とは?

この作品の「リアルさ」を「破壊する」2度目のとある展開。
それはクライマックスにて描かれることになる。

ここまでシンバは「自分のせいで父が死んだ」という「心の傷」を抱いており、「傷」の象徴である「スカー」と対峙の中でも、その苦しみは癒えることはなかった。
崖っぷちに追い詰められるシンバにスカーは秘密を打ち明ける。

それはスカーがムファサを殺したという事実だ。
「俺がムファサを殺した」
その告白にシンバは「この、人殺し!」と叫びスカーに襲いかかるのだ。

「人殺し」

この瞬間、今目の前で起きている前提がガラガラと音を立てて崩れ去った。
明確にこの瞬間目の前の演者が「動物」を演じていたという「リアル」は失われたのだ。

ちなみに原作・超実写版ではこのシーン「卑怯者」というセリフなのだが、ここをあえて「人殺し」というセリフに変更している。
この意図はどこにあるのだろうか?

実はこれこそ『ライオン・キング』という物語の持つ「欺瞞」を消す最良の策だったのだ。

つまり、このセリフであえて「人間」が「動物」を演じていることを明確にすることによる、ここまでのリアリティを「破壊」する。

その後、作品のフィナーレで歌唱される「サークル・オブ・ライフ」そして、その象徴。
つまるところ支配者として世襲をして王になるシンバを描くことで、アニメ版や実写版が持っていた「とはいえこれは強者の理論」ではないのか?
という欺瞞を消すことになっている。

つまり目の前で起きていた出来事は「動物の世界」ではなく、あくまで「人間が動物を演じてみせていた世界」であるというものに、ここでシフトしてみせたのだ。

それによって、抽象度は上がり、よりおとぎ話的な世界として『ライオン・キング』が描く事が出来たのだ。

それによって、この作品が根っこに持っていた「欺瞞」というものを見事に打ち消していることに成功しているのではないか?

少なくともこの四季版を見て思ったことは、僕が観劇前に思っていたこととまさに一致をしたのだ。
つまりこのバランスこそが、『ライオン・キング』という物語の描き方として最も適切だったということだ。

少し整理すると、この『ライオン・キング』という物語。
「アニメ版」では擬人化強めに描かれた動物のドラマだったが、そこにで見え隠れした「弱肉強食」の世界を統べる側、つまりライオン側だが。
そちらの理論が正当化されているという点はどうしても考えずにはいられない要素として存在していた。

「実写版」では動物をリアルに描いたことで、いよいよその理論が、より強いものとして見過ごせないものとして描かれてしまった。

「四季版」では、あくまで「人間が動物を演じている」ということを、あえてチラつかせることで、少なくとも「おとぎ話」であることを強調した物語に見えるよう、バランスをチューニングしており、それがこの物語の根底にあったものを、限りなく薄めることに成功していたのだ。

だからこそ、僕は「これこそが、真の意味で『ライオン・キング』の完成形ではないか」と結論づけるに至ったのだ。

「工夫」が素晴らしい

と、ここまでストーリーやテーマについての話をしてきたが、ここからは「舞台」としての面白かった点を振り返りたい。

それはまさに「工夫」だ。
サバンナを生きる様々な野生動物。
それらを様々な「工夫」によって見せる、これらのアイデアの面白さこそ、最大の魅力ではないだろうか?

例えばライオン。
シンバは頭にライオンをもしたマスクを被ることで、ライオンであることを表現している。
だが、その父ムファサ、ヴィランであるスカー、彼らは違う。
彼らは、首の後ろから伸びたアームにマスクを付けており、頭の上から微妙にマスクが浮いているのだ。

このアームの角度が変わることで、演者が前傾姿勢をとると真正面からは少なくともライオンが四足歩行をしているかのように見えるなど、アイデアが凝縮されていたのに驚かされた。

また、前半のある意味で見せ場ともいえるムファサの死のシーン。
ヌーの大群が移動する表現を、一体どう見せるのか?
非常に注目していたが、これは舞台を三段に分け、上段は遠くからやってくるヌーを映像投影して表現。
車輪で回転するヌーの人形を中段に配置。
手前は人間が演じるヌーを配置。
そのことで遠くから近くにくる大群をうまく表現していた。

これまで僕が観劇してきた四季作品にももちろん、「工夫」は詰まっていたが、そこにプラスアルファ「最新技術」をふんだんに使用していた。
それこそ奥行きを演出するために使われていた映像投影、複雑な動きに対応する舞台装置などなど。
しかし今作は、もちろん舞台装置などで驚く仕掛けはあるが、それでも初演が1997年であり、ここまでリニューアルなどをしていないことを考えると、技術的には最新の作品には劣る部分も多くあると感じた。

だが、それを補って余りある「工夫」の数々。
僕のように四季の中では比較的新しく演じられるようになった演目から見始めた立場からみても、それらと比較して全く見劣りしない作品の世界観が構築されているのには、ただ驚かされた。

アニメ版などを鑑賞してから、この「四季版」を見ると「あのシーンをこう表現するのか?」など驚きが増すので、個人的には映画を見てからの鑑賞もお勧めしたいところだ。

まとめ

ということで、やはり今回も「劇団四季」の見事すぎる世界観構築に完全にノックアウトされてしまった。

「一生に一度は四季で”ライオン・キング”を」なんてキャッチコピーをぶち上げているが、そのカマシがフロックではないことをまざまざと見せつけられてしまった。

僕はストーリー面を原作と比較してしまいがちだが、この作品はそこよりも目の前で繰り広げられる光景の、違和感を楽しむべきだ。

人間が動物を演じて、観客はそれを本物の動物と認識する。

こんな特殊な設定を、まさに「工夫」でやりきってしまう「劇団四季」の演劇クオリティの高さ。
遅ればせながら、本当に素晴らしいと感じた。

ちなみにこの『ライオン・キング』
地方公演ではそれぞれの地域でティモン、プンバァの言葉使いが、それぞれの地域で方言を織り交ぜられるなど、地方公演では地方公演の魅力もあるし、舞台によっては演出などが異なるなど、実は場所を変えてみる面白さがあるのだ。

ということで今度はどこかで地方公演がないかな?
とか、別の場所で見た人と話すと、微妙な違いが楽しめる作品だと思うので、今更ですが『ライオン・キング』

めちゃくちゃ楽しい作品でしたので、お勧めです!!



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