『ファンタジア』を見て思ったこと・・・【ディズニー長編アニメ総チェック#3】

さて「ディズニー総チェック」をお届けしたいと思います。

と、いうことで今日は長編アニメ3作品目となる『ファンタジア』についてです。


『ファンタジア』について

基本データ/あらすじ

  • 公開 1940年

  • 監督 ベン・シャープスティーン

  • 脚本 ジョー・グラント/ディック・ヒューマー

  • 製作 ウォルト・ディズニー

  • ナレーター ディームズ・テイラー

  • 出演者 ディームズ・テイラー/レオポルド・ストコフスキー

ウォルト・ディズニーが世に贈った数々の長編アニメーション映画の中でも、特に傑作として語り継がれている『ファンタジア』

クラシック・ミュージックの華麗な旋律とめくるめく色彩、そしてダイナミックで時として繊細、優美なモーションの融合は、アニメーション史のみならず映画史上、類を見ない作品として、公開以来つねに人々を魅了し続けてきました。

組曲「くるみ割り人形」にのせて繰り広げられる愛らしいマッシュルームのチャイニーズ・ダンス、軽やかに舞うカバのバレリーナとワニたち、
「魔法使いの弟子」に扮した人気者ミッキーマウスも夜空の星たちを指揮して大熱演…。画面いっぱいにあふれる夢とファンタジーは、時代を超え色褪せることなく輝き続ける宝石。

最新のテクノロジーにより甦った色彩とサウンドが、いま新たなる感動とセンセーションを呼び起こします。

公式サイトより引用

音楽の解釈をアニメに仕立てることに意味があったのか?

特殊な作品である

今作品は8曲のクラシック音楽の演奏に合わせてアニメーションが進行していく。

「音楽を映像化した作品・顕在化した作品」つまり「音楽をアニメーション化」した作品だと言える。
そういう意味で「特殊な作品」だと言える。ミュージッククリップ的な作品と言ってもいいかも

この作中で演奏されるクラッシック音楽、そしてそれらを表現したアニメについて語るのはあまりにも難しいので、今回はそこには触れないで話を進めたいと思う。

ただ僕は作品を見ていて、ぶっちゃけた話、この作劇ってそもそもどうなの?
という疑問が湧いてきてしまった。

それこそ、クラッシックを聴いて、観客それぞれが、それぞれに「想像する景色」「色」「物語性」に正解はない。
作曲者自身にはもしかしたら明確な正解はあるかもしれないが、その作曲者の手元を離れた音楽の解釈は、それを聴くそれぞれの観客に委ねられる。

それを、アニメーターのイメージ。
もっというとウォルト・ディズニーや選曲に尽力したレオポルド・ストコフスキーのイメージを具現化して見せることに、どれほどの意味・意義があったのか。

その疑問が作品を見ている最中、脳裏から剥がれなかった。

もちろん、音楽に合わせて繰り広げられる映像には驚く部分も多い。
やはり第三幕目の「魔法使いの弟子」でミッキーマウスが登場し、コミカルに動きまわる姿には心踊ったのも事実だ。

ちなみに僕は『ファンタジア』をBlu-rayなどのパッケージを見て「魔法使いの弟子」のように「クラッシック音楽」と「ディズニーキャラ」の共演し続ける作品かと思っていて「えっ、なにこれ!?」と気持ち的にはなった。

ただこれは、後述するが、そもそもこの作品の成り立ちは「魔法使いの弟子」の企画からスタートした。
それが少し変な方向に流れたのが、今作の興行的失敗につながったのではないだろうか。

興行面での失敗

この作品は『ピノキオ』と同じ1940年に公開された。
奇しくもこの1940年に公開された両作品は、どちらも興行面で大きく失敗をした。

その結果『白雪姫』で築いた莫大な利益を、この2作品の失敗で吹き飛ばし、そればかりか会社の存続を危ぶまれる程の、赤字にまでなってしまった。

どうしてこのようなことが起きたのか?
理由は二つある。

一つは青天井に肥大した製作費だ。
これは「ピノキオ」と同じだが「技術的面での予算」が莫大になったことが原因だ。
それはウォルトが音響面へこだわったからだ。
彼は、この映画は「音楽」が主役だからこそ、オーケストラの演奏を立体的に収録することにこだわり、さらには映画を上映する映画館にもスピーカーを増設させるなど、上映館への設備投資をした。

確かにこの映画は「音楽」が主役なのだから、そこにこだわるのは間違いではない。

ただ、このこだわりが予算をどんどん肥大化させ、結果製作費は莫大なものになってしまったのだ。

そして、もう一つは一般層・クラシック通にもそっぽをむかれたこと、つまり集客面での失敗だ。

1940年になると一般客にとって、クラシックはすでに身近なものではなかった、そのため彼らは今作を「インテリ向け映画」だと感じたのだ。
つまり「俺たちのみたいものじゃない」と受け入れられなかったのだ。

一方でクラシックを聴く通の間で、この作品はどう映ったのか?
当たり前だが、そんな彼らには「アニメ」が不要なのは言うに及ばずだ。

つまり結果として、この作品は、クラシック界隈のファンからもソッポ向かれ、さらに一般層からは「インテリ向け」と見向きもされなかった。
つまり「どっちつかずな作品」になってしまった。

そうなれば結果は散々なものになるのは、火を見るよりも明らかだ。

そもそもウォルトは”こんな作品”を作る気がなかったのでは?

さて、話を少し変えよう。
「ディズニーを象徴するキャラクター」と聞かれると、おそらくみんなが「ミッキーマウス」を思い浮かべるだろう。

これは有名な話だがミッキーの元々の声の主は、その生みの親であるウォルト・ディズニー本人だ。

そんなウォルトはミッキーを生み出してから、彼の使い方に苦心していた節がある。

というのも、当時はドナルド、グーフィーがそれぞれの作品でコミカルな役目を担っており、ミッキー以上に人気があったのだ。

そんなミッキーの将来についてウォルトは悩んでいたのだ。
「どうにかミッキーに活躍の場を与えたい」と。

それはミッキーがウォルトの分身だったからだ。
そこで彼は全編パントマイムで、「魔法使いの弟子」の演奏にのせてミッキーを活躍させようと、そうした作品を作ろうとしたのだ。

つまり元々、このような「長編クラシックをアニメーションで表現する」作品を作るつもりなどなかったのだ。

では、この作品を「クラシックをアニメで表現する」という方向性を打ち出したのは誰か?
それは今作でも指揮者を務める、レオポルト・ストコフスキーだ。
彼はディズニー作品のファンだったのだ。
そして彼はウォルトと会うと、アニメーションにできそうな楽曲を演奏をした。
そしてウォルトはその楽曲にインスピレーションを受けて、「クラシックをアニメで表現する」という作品を思いついたのだ。

ただ、ウォルトはクラシックを題材にしたからと言って「インテリ向け」と思われる作品を作ろうとはしていなかった。

例えば1幕目「トッカータとフーガ/ニ短調」
ここではいろいろな色や絵の動き、振動で音楽を表現しようとしているが、当のウォルトは「ここはパスタを茹でるイメージだな」と割と適当なイメージをアニメで表現していたりもする。

だがそれを映画評論家が「深遠を感じる」などと評論した際には苦笑したそうだ。

つまり、当の本人は「インテリ向け」な作品は作ったつもりはないが、周囲がこの作品を「インテリ向け」もっというと「アート映画」だと評した。
その結果、より一般層には浸透しにくくなってしまったのだ。

もしも当初の予定通り「ミッキー」と「魔法使いの弟子」というアイデアを膨らませれば、もしかしたら「アート映画」と思われることなく、集客をできたのかも知れない。

後年に残した影響

ただ、この「アート映画的」と呼ばれる表現の作品を仕上げたこと、それには意味があったのではないか?

例えば「時の踊り」の動物たちのあまりにも目を疑うバレーを踊る一連の流れ。
これは後年の『くまのプーさん(1977年)』でプーが見る「悪夢」である「ズオウとヒイタチ」を彷彿とさせられた。

さらに「くるみ割り人形」でキノコのダンスなど、ファンシーな可愛げのあるものが、悪夢的な動きをするという、奇妙な魅力に満ちている映像表現も、この作品の魅力であると思っている。

このように、後年のディズニー作品で描かれる片鱗のような要素を感じ取ることができる、そういう意味ではこの挑戦も無駄ではなかったと言える。

「進化論」と「宗教」の同居する世界観

ということで最後に僕が好きな短編を紹介しよう。
それは第4幕の「春の祭典」と最終幕の「アヴェ・マリア」だ。
僕はここで描かれていることが興味深いと感じた。

まず「春の祭典」は「単細胞生物から恐竜の滅亡」までの進化の流れを描いている。
つまり「進化論」を映像化しているのだ。

しかし「アヴェ・マリア」では聖者の行進を描いている。
「アヴェ・マリア」はラテン語で「こんにちは、マリア」を意味する言葉、つまりキリスト教的な宗教音楽の側面が強い楽曲だと言える。

さて「進化論」というのは「キリスト教」の教えでは否定されるべき価値観なのだ。
「人類は神が作った」そう信じているキリスト教徒が、今でもアメリカでは多い。

つまりこの作品内で「科学」と「宗教」という決して相容れない価値観を描いていること、それが今作品の特徴だと言える。

ちなみにウォルト・ディズニーの名前「ウォルト」は牧師の名前をいただいており、彼はしばし熱心なクリスチャンだと言われているが、実際は違ったそうだ。
彼自身はそう言った宗教的な思想よりも、インスピレーションを優先して生きていたのではないだろうか?

現代よりもまだ「宗教的な思想」が社会の根底にある時代。
「アニメは悪魔的だと批判される」時代。
そんな時に彼は、新しいアイデアで世界を変えようとしていたのだ。

そんな彼だからこそ「進化論」と「アヴェ・マリア」という相反する価値観を同時に描くことができたのではないだろうか?

ある意味で「タブー」のない姿勢。
そしてビジョンがあったからこそ、ウォルト・ディズニーは歴史に名を残す「稀代のエンターテイナー」になることができたのだ。

その姿勢を今作から窺い知ることができるのである。

まとめ

総評として僕は、非常に癖のある作品だという印象を受けた。

おそらく当時の観客も『白雪姫』『ピノキオ』という流れで(それこそ『シリー・シンフォニー』『蒸気船ウィリー』などを知っていれば)今作を鑑賞したならば、驚いたに違いない。

「ディズニーの今までの作品と一味違うぞ」と。

だからこそ当初のウォルトの目指したように「魔法使いの弟子」をミッキーマウスが演じるというアイデアを膨らませればおそらくこの、観客と作り手のギャップは埋められたのかもしれない。
つまり興行的成功を収められただろう。
しかし結果は前述した通り、思ったような反応を得ることはできなかったのだ。

ただ出来上がった作品の要素の一つ一つは、後年のディズニー作品でも活かされている。
だからこそ、この挑戦も無駄ではなかったのだ。

そして作中の短編で、相容れない二つの価値観を同時に描く姿勢。
この「タブー」のない姿勢は、後にディズニーが「稀代のエンターテイナー」として君臨する一つの大きな要因でもあると言える。

その片鱗が垣間見える作品だった。

そういう意味では非常に勉強になった作品でもあった。

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