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忘れちゃいけないものを忘れない為に


「旅行しなくても、スポーツを観なくても、ライブに行かなくても、生きていける。」

自分自身に何度も突き付けた問いです。

私の好きなものは平和産業である。
けれど、贅沢という言葉ではどうしても片づけられなかった。自分はそれらに娯楽以上の価値を感じて、旅やスポーツに自分が形成されてきたから。命を最優先にしなくてはいけない有事になった時削られるのは明白で、しかし日常にまた戻った時には以前より増して、「あったら嬉しい娯楽」ではなく「なくてはならない非日常」だときっと感じられる。そう思うからこそ、今言語化したいことがありました。

大阪府観光局の方はこう言っていました。

「皆観光をレジャーと思ってるから、必要ないと思うんです。違う、どんな時にも必要な産業になれる。そうでなければ観光立国など目指せない。」

これに通じるかもしれない、今はっきりと自分の言葉で伝えられるものがあります。旅をすること・スポーツに心奪われること・アーティストの息吹を肌で感じること、このすべてが「生きるのに必要である理由」です。


生活の中に、何かが足りない。

そう感じたのは、家にコロナで閉じこもるようになって1ヶ月くらいの事でした。

自由に時間が使えて、お金にも有難いことに困らずに、やりたい事もやれることもある。こんな恵まれた在宅期間を過ごしつつ「何かが足りない」と思ってきました。それは感情を揺さぶられるような感覚であり、心が根こそぎ持っていかれて体の芯からのぼせてくる、マグマのような衝撃でした。


共感してもらえるかは、分かりませんが、私はこの動画を見たときに自然と泣けてきました。涙が出るしくみは、神経の興奮を抑える副交感神経がはたらいたときに、刺激されて出るそうです。悲しみも喜びも共感も、感じた度合いが大きいと神経が過剰に興奮してそれを抑えようと涙が出るんだそうです。

この神経が過剰に興奮する状態。これこそが、人の原動力なのだと思います。違う環境で、違う価値観で生きる人に出会った時、プロフェッショナルな舞台を見たとき、憧れや好きという感情やが大きく揺れ動き、「こうなりたい」と思ったり、一喜一憂したり、何かに対して感情を大きく動かすという訓練を自然とするようになります。小さいころから様々な経験をしたほうがいい、と言われる理由はここにあると思います。感情が揺れ動かなければ「こうなりたい」や「○○がしたい」も出てきません。大人になるにつれてあまり夢を語らなくなるのは、生活への慣れから様々なことに感情が動かなくなるからだと思います。感情が大きく動くきっかけは、こうした”非日常”にあると思うのです。逆に言えば、普段の生活、という感情の起伏が一直線であまりない状態とは異なり、想像以上の衝撃に出会った時感情が大きく動くことを”非日常”と呼ぶのだと思います。非日常に触れ、感性を動かすという事を日々していかなければ、私たちは出会うもの1つ1つに感情を動かすという感覚もなくなっていき、自分を突き動かす意思を持てなくなっていきます。

この感情を大きく揺れ動かす衝撃、それを一言で表すと
感動です。

明日生きていくのに衣食住があれば事足りる。
しかし現代に日本で生きる私たちには、有難いことにもうそれは事足りていて。幸福を感じるのは、何かやらされるではなくやりたいことがあって、ロボットのようにただ息をして過ごすのではなく感情を動かして生き生きとしている状態なのだと思います。

だから、命をつなげるのに必要のないように見える非日常は、

生きていくのに必要な感動を与えてくれるのです。

感動は、五感に訴えられることで最大化されます。だからこそその感動は、画面越しでなく生である必要があります。

江戸時代と今を比べると、その情報量の差は比率にして「1日と一生」に例えられるそうです。そのくらい、IT分野は発達している。しかし、1900年代に比べて253%の人がアーティストのライブに参加しています。手軽に音楽は聴くことができるのに、私たちはわざわざ高いお金と時間をかけてライブを生で見たいと思う。チケットはものすごい倍率になります。ここから分かる私たちが求めているものは、ファンと同じ空間で近くでアーティストを見て音楽を生で聴いて五感を働かせてその熱狂を感じることなのです。この「五感に訴える刺激」が感動を最大化させるものなのです。生で観戦した試合の記憶やライブの記憶はその後も強く脳裏に焼き付く。そこで感じた感情が、VRには勝る興奮をもたらしてくれる理由です。

”感動のある生活”**

思えば私の生活の軸として、いつも存在していました。

幼少期、長野のど田舎で過ごしたこと。
観光施設と呼べるようなところは何もなくても親戚みたいに接してくれる人たちの家に遊びに行くだけで楽しくて、満点の星空があって、野生のクマと遭遇するぐらいありのままの自然に囲まれていて、そういうところでの暮らしにある1つ1つの感動が忘れられません。この原体験が、地方にある知られていない魅力を発掘したいと思うきっかけです。

中学生の時、なでしこジャパンのW杯優勝にくぎ付けになったこと。
あの時、今からでも自分もスポーツでてっぺんを目指したいと思うようになりました。それが大学でラクロス日本一を目指す環境に飛び込んだ、原点です。

体感したことがある人にしか分からない、感動が夢の原点になるという事。そしてその感動は、五感をフルに使って感じられる直接の現場にあるという事を分かっているからこそ。私は、感情が大きく揺さぶられる体験を人に届けていきたいのだとこの期間に確信することができました。

無観客試合や無観客ライブは斬新さという意味では新たな感動をもたらしてくれるかもしれません。しかし、生で見るからこそ、そのものがくれる産物を最大化して人は感じることができるのです。その熱狂をVRで再現する日々が続いても、生が与えてくれる感動は何にも代われないということはきっと変わりません。

「人の日常に感動を生み出していく」
そんな人に、なりたいです。





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