【看脚下】己を灯として燃やせ
日常
久しぶりに文章を書く。
最近、無気力なのかなんなのかはよくわからないが、寝ること食べること以外に大した楽しみもなく、1日が終わっていく。
あ、あ、こうやって人生が終わっていくのかと自分の人生に絶望しそうになる。周りは毎日遅くまで仕事をし己を磨き上げ、よきキャリアを築き、そして休日は楽しく仲間や自分の趣味に没頭する。隣の芝は青く見えるとはこのことかと、今日も空は青い。
他人との比較
SNSやネットの発展によって、とにかく【他人との比較】が容易になった。旅行、ブランド物、仲間との楽しそうな時空間を目にすることで、他人と比較し、自分との差異に絶望し、もっともっとと欲が止まらなくなる。うつ病とは、現状の自分と理想の自分との乖離で起こる精神病と何かで聞いたことがあるが、まさしくその通りだと思う。それをSNSやYoutubeがその理想とのギャップにダイレクトに攻撃する。
そんなことを思いながら、今日も新宿の外が見えるスタバで文章を書いている。カップル、子連れ、外国人、これから旅行か実家にでも帰るのかキャリーケースを持った人など、目的は違えど皆、マスクをつけた人々が通り過ぎる。そういえば、いつまでいつになったらマスクは外せるのかと、マスク卒業の日が待ち遠しい。
看脚下
まあ、前置きはこの辺りにして、今回は【看脚下】について書いていこうと思う。皆さんは「看脚下」という言葉を聞いたことがあるだろうか。「脚下照顧」という言葉なら馴染み深いか。なかなか聞きなれない言葉かと思うが、看脚下とは禅の言葉である。
この言葉が生まれた背景は、昔、中国の法演(ほうえん)という禅僧が3人の弟子を連れて歩いていて寺に帰宅していた時のことである。暗い夜道を変えるため、灯を灯さなければならなかった。しかし、一陣の風が吹き、火が消えてしまった。その時、法演は弟子に以下の質問をした。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。そうすると、弟子の1人、圜悟克勤(えんごこくごん)が「看脚下」と答えた。つまり、「暗い夜道で危ないから、足元をよく見て歩きましょう」ということだ。
仕事、事業、受験等、誰しもが「頼る人が誰もいない」という経験があるのではないか。過去になかったとしても、いずれ人一番努力をする機会があれば誰しもが感じることだろう。努力をすればするだけ比例した孤独を感じることになるだろう。挑戦し、幾度との壁にぶち当たりその壁を乗り越えていくことになる。しかし、この世の中には努力してもびくともしない壁が無数に存在し、その壁にぶつかる度に自分の無力感に苛まれ、その時「理屈じゃなくて辛い」という感情が込み上げてくる。そして、夜な夜な天井を見ながら涙が込み上げてくることになるだろう。つまずいた時、無能な自分に絶望し、苦しみや不安で夜も眠れない時、まずするべきことは、自分の足元をよく見る、つまり「今の自分自身の未熟さを素直に受け止め、猛省し、できないことを一つずづできるようになっていくこと」ではないのか。
人生という夜道に、困難という夜風が降り注ぐ。そんな何も頼ることがない時こそ、己という灯を燃やしていこうではないか。
「看脚下」
また、こうやって少しずつ文章を書いていこうかなと思う。
ここまで見てくれたから、心より感謝申し上げます。
下手糞の上級者への道のりは、己が下手さを知りて一歩目。
邪魔なプライドは捨て、己を見失いことなく、今の自分自分自身を素直に受け入れ、やるべきことを一つずつこなしていこうではないか。
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