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どうして知識を得たいのか

昔、分類学の意義についての文章を読んだ。日本語で読んだのか、英語で読んだのかも忘れてしまったのだが、主旨は、分類をすることで対象を認識できるようになる、というものだった。

分類し、対象に定義を与えることによって、枠組みに当てはめる。これによってどこからどこまでが対象なのか、範囲が明確になる。こうすることで、やっと研究すべき対象がはっきりする。このような話だったと思う。

私は、人間についても同じことが言えると思うのだ。

例えば、山道を歩いていたとする。そこで大きな虫を見たとする。私は気持ち悪いなあと思って通り過ぎるが、一緒にいた友達は目を輝かせてその虫を眺めている。聞いてみると、その地域にしかいない珍しい虫なのだという。

つまり珍しい虫とそうでない虫の違いを知っていた友達にとって、その虫との出会いは価値のあるものだったが、どの虫も同じに見える私にとっては、なんでもない瞬間だったのである。

人は知っていることしか認識できない。まさにこれだと思う。ソクラテスの「無知の知」に通じるものがある。紀元前から二千年たっても同じなのだ。人は自分の持っている情報の範囲内でしか物事を判別できないのだ。

今年の4月くらいから、私は自分の教養を深めることに躍起になっていた。教養の定義はいまだに自分でも上手に説明できないのだが、私は幅広い知識を身につけることは教養の一部であると考え、自分に欠けている知識の補強に奔走していた。

効果はあったと感じている。夏に、ニューヨークではメトロポリタン美術館、ヨーロッパではヴァチカン美術館を訪ね、存分に展示作品を楽しむことができた。

幼い頃、親に連れ回されて、フィレンツェのウフィッツィ美術館やニューヨークのMoMA、パリのルーブル美術館など世界の名だたる美術館を訪ねたが、足が疲れるだけで楽しさが分からなかったことを思い出す(なんてもったいないことをしたんだろうか)。知識があれば、価値を認識できるものの幅が広がる。知識があれば、楽しみが増える。それを実感した夏だった。

知識とは、虫や芸術といったジャンルごとの情報だけにとどまらない。感情や、経験、言葉についても同じことが言える。

怒りや悲しみのような激しい感情の高ぶりを知らないと本当に苦しんでいる人の気持ちを理解することはできないのではと思う。また、多様な経験をすることで知り得る世界があると思う。そして、新しい言葉を学ぶことで、それまでにはできなかった手法で、世界を解釈したり、自分の見た世界を表現できるようになると思う。

自分の生きるこの世界を最大限に楽しみたい。自分にはまだ認識できていない、でも価値のあるものがきっといっぱいある。だから、私は知識を得ることに貪欲でい続けたいと思う。

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