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【連載小説】日本の花嫁Ⅰやがて社長⑤三角関係

里田陽太郎は半年前に念願かなって地元の警察署に配属になった。国立の九州大学を出て隣県の福岡県警に所属していた。周りからの期待は大きかったが、その分妬みも大きかった。

「ああ、剣道の神様じゃないか」

などの揶揄からかいの言葉を聞くのもしょっちゅうだった。小学校の頃から続けた剣道で新卒1年目の時に全国大会で優勝した。警察だけの大会ではない。正真正銘の成人の全国大会である。本人も周りもよく分からない運が向いたと思っているが、誰もそうとは口にしなかった。
何せ、当日彼が対戦するはずだった3人までが棄権を申し出たのだ。おそらく集団食中毒でも発生して、それを公にすると外聞が悪いからもみ消したのではないかと、里田自身は考えている。しかし、その優勝が本人には迷惑だった。

翌年の剣道大会は欠席。その翌年も欠席。旧帝国大学卒業で、剣道の実力はトップクラス。おまけに大学生の頃には柔道3段と英検1級の資格も取っていた。その年の剣道大会の優勝でそういう釣り書きも出回り、俄かに周囲の期待が高まった。
配属についてもずいぶんと希望を聞かれたが、里田は頑なに県警所属にこだわった。なぜなら、警視庁のトップエリートと競うことも国際交流の剣道大会に参加するのも嫌だったからだ。どちらも死ぬかと思うほど荒っぽい世界であって、剣道もそれほど好きで続けてきたわけではなかった。出身の熊本県は剣道の強豪であって、子どもの頃から強かったので周囲には何かとちやほやされてはきた。しかし、高校生の時は受験勉強を言い訳に、大会前の時だけ練習に参加する助っ人部員だった。大学生になって”突き”を対戦相手が多用してくるようになると、剣道が心底怖くなった。

里田は身長は190センチを超え、体格通りに力は強かった。しかし、内面は小心者であった。出向を打診された警視庁警備課で政府要人のSPとして誰かの盾になるなど到底考えられなかった。

ちやほやされたら図に乗る程度にはお調子者で、期待されれば役割はこなす。しかし、剣道の練習中に激昂して後輩を突き飛ばしたとき、国際交流大会で白人剣士を叩き伏せて気絶させたときは、二度とも相手を殺したのではないかと肝が冷えた。

田舎者のせいかそこそこの学歴を有しながら、警察の人間がその筋のような言葉遣いや隠語を使うのが理解できず、馴染めなかった。付き合い酒の多さにも辟易した。田舎者の家呑みの酒と違って、酒に弱い都会人の酒会は品がないように思えた。

たった数年で地元に帰りたくなり、辞表を毎年出し続け、辞められるよりはと故郷の人吉警察署の配属が決まったのは半年前だ。その代わり、警察の柔剣道の大会に出場することを命じられたが、そのくらいはおやすい御用だ。出るだけ出て適当に負ければ良いのだから。地元の警察署に剣道ができる人間など数えるほどだ。夏季大会前に母校の高校の剣道部の練習に参加したら、先生方から大歓迎を受けた。「大人」から見れば、29歳になっても都会の水が合わず、出世の道を拒んで地元に帰ってきた里田は社会に傷つけられた悲劇の「少年」であった。

地元の秀才で剣道の天才。繊細な彼はうまいこと都会で周囲の人に才能を伸ばしてもらうことができなかった。彼を壊れやすい宝物のように扱う人たちは限りなく優しく、地元の温泉のようにいつまでも浸かっていたい温かさがあった。

何度目かの練習に参加した日、そのぬるま湯に心地よさに油断して、里田はつい誘われるまま教師たちの酒の席に参加した。それは公務員特有の普段とはうってかわってだらしのない里田がこれまでもっとも嫌っていた都会の酒席と変わらなかった。しかし、周囲の気遣いのためか、里田もこれまでほど不快には感じなかった。30歳を数か月前にして、少し世慣れた部分が出てきたのかもしれない。

「里田くんは、結婚はまだね」

「そろそろしようと思っていますよ」

久々に酔って、里田はつい口を滑らせた。彼は署内の1つ年上の女性と異動直後から付き合っていた。それまで面識はなかったが、歓迎会で話した初日に互いの感性が合うのがすぐ分かった。里田は地元に帰ってくる時に、警察を続けるかは自信がなかったが、すぐにでも結婚はしたいと思っていた。交際経験はなかったが、とにかく30歳で結婚しようと決めていた。付き合って1か月で結婚の話をしたら、相手は及び腰だったが、それで交際をやめるというほど嫌がられはしなかった。警察を辞めたらどうなるか分からないが、学歴を含めた経歴はこの田舎ではトップクラスに良い。それほどの美人でもなく、真面目だが内向的で物慣れない彼女が自分以上に優良物件を捕まえられるとは思えない。自信を持って、とにかく押せ押せで彼女に結婚すると言わせるまでにこぎつけた。

「ほう、それはめでたいね。もうずっと地元にいるのかい」

「そういうわけには、行かないでしょう」

「いや、よそには行きませんよ。ここに落ち着くつもりです。異動を言われたら辞めてやります」

里田は高校の時には目立った役職にはつかずおとなしかったので、特に教師陣の覚えがめでたいわけではなかった。しかし、人目につく体格でテストの成績がよく剣道や柔道や環境作文や英語暗唱大会など多芸を好んで表彰される機会が多く、当時いた教師陣に名前の記憶が残る生徒だった。

冗談で流すには真面目な彼があまりに決然と警察を辞める言い放ったので、周囲は返答に窮した。しかし、酒の席に誘った同級生の黒田いつきだけは素面でからからと機嫌よく笑った。

「辞めるというなら、こっちに戻ってくるときに辞めていそうなものだけどな。英検1級を持っているんだろう。辞めたら英語の教師になればいいじゃないか」

「実は、そうしようかと思って、学校に顔を売りに来たんだ。しかし、留学したこともなければ、海外には一度も行ったことがないから、発音に自信がないんだけどな」

里田は悪びれず、正直に答えた。英語教師は年齢制限がないので、里田としても警察を辞めたら就職先の第一候補ではあった。なれなければ、英語塾を開いても良いが、やはり本場を知らない発音と実用性に自信がない。最近はプログラミングを勉強しているので、学校教育のプログラミングと英語とを両方売りにした塾をしてもいいと思っている。里田は知の勝る人間をさんざん警察で見たとこだけは、有意義だった。彼らほど才能がなくても、彼は社会人になってから勉強が好きだった。

「はっはっは。英語の暗唱を休み時間にぶつぶつとさんざんやっていたから、発音なんかは心配ないだろう。俺だって適当だよ。しかし、剣道日本一で体育教師でも武道場を開くでもなく、海外に一度も行ったことがないのに、真っ先に出てくる選択肢が英語教師か。そうだろうと思ったけど、相変わらず面白いやつだ」

酒を一滴も飲まずに宴会を盛り上げられる黒田も十分稀有な存在だ。黒田はもしかしたら、自分の後輩になるかもしれないと里田を酌に連れまわして、さんざん教師たちに顔を売ってくれた後、飲まないくせに飲み直そうと運動公園に連れだって、30分ほど健全にグラウンドを一緒に走った。

「はあ、これですっかり酔いが回った。里田はどうだ」

「お前は飲んでないじゃないか。それに俺はすっかり冷めたよ」

心臓は破れそうなほど早鐘を打っていた。汗をじっとりと滴らせて、里田は夏の夜気と虫刺されに塗れていた。慣れない酒を自分だけ飲まされて散々な目に合わされたというのに、黒田と二人で昼間の雨で星のない夜空を眺めているのは悪くはなかった。

黒田は他人を巻き込むのがうまい。高校の時も剣道の大会の2週間前になると決まって練習に誘いに来るのは黒田だった。それで、体力の化け物みたいな黒田の相手を毎度のことさせられて、やはり散々な目に合わされた。

『俺より強いくせにへばるなよ。いつも練習相手に困っているんだ。大会前くらい同情して稽古をつけてくれ』

謙遜なしの自信家で、周囲には反感を買うこともあったから、確かに自分が行かなければ剣道部は黒田も周囲も大会前に不穏な空気になるに違いないと、言われた通りの同情心で練習に律儀に付き合っていた。

「しかし、黒田が英語教師になるとは思わなかった。高校の時には英語が好きなイメージがなかったな」

「いや、高校の時も英語が一番得意だった。ただ、里田に及ばなかったから目立たなかっただけだ。ほかにもう一人英語のできる女子がいたかな。それでも3番手だ。総合成績では勝っていると思っていたのに、3年になって急にやる気になったお前に遥かに抜かれてしまったよ。悔しいと思うには、あまりに差が開いて感心しかなかった」

黒田の言葉に、里田は記憶を呼び起こされた。里田は子どもの頃、学校の宿題などほとんど真面目にやったことがなかった。高校では赤点にならない程度に配慮した。学校の授業は分からないことも多かったが、模試を受けたらそんなに悪くもなかった。確かに里田も黒田のことをいつも、俺の次点だなと思っていた。英語までとは思わなかったが、二人は好きなものや得意分野の傾向がかぶっていた。黒田も剣道も勉強もそこそこ以上にできたが、塾に行って毎日部活に行って、努力家で才能もありそうなのに、一度も自分に勝てないんだなと見下すというより、不思議に感じてはいたのだ。
しかし、一度目標を見定めると集中力は誰にも負けないという自負もあったので、いつも何事も黒田に負ける気もしていなかった。

「そうか。俺はいつも運がいいからな。俺に勝つのは大変だよ。特に剣道は負けないな」

顧問の黒田と突然やってきた里田の手合わせを生徒たちは、毎回迷惑そうに見ていた。場所が占領されて、その間休憩を強いられる上にあまりに二人が真剣で場がピリピリ緊張するからだ。しかし、いつも幕切れはあっけなく、1本決められると、黒田はすぐ「参った!」と白旗を上げる。

「うん。しかし、世の中には負けて得するということもあるんだよ。里田、結婚するんだろう」

「そうか、結婚も俺が先か」

「それはそうだが、まあ、聞けよ。結婚する相手は誰だ?」

「署内の赤肘史奈さんという人だ。一つ年上だ」

「同じ高校の先輩だ。知っているよ。里田の前に俺が付き合っていたから」

「え?なんだって?」

里田はゴムのグラウンドに預けていた半身を起こした。

「高校の時に付き合ってたのか?」

「いや、半年前までだ。お前と付き合うからってふられた」

寝っ転がったまま、里田は淡々としていた。常夜灯に照らされた顔は無表情で、黒々とした目は黒々とした空を見ていた。

「知らなかった。俺たち気が合いすぎだろ・・・?」

呆然として出た里田の言葉に、黒田も起き上がって呆然と見返した。しばし、無言。そして、一緒に噴き出した。二人して笑いがこみあげてきたのだ。

「すまん。付き合っている人がいるなんて、思いもつかなかった。婚活サイトマッチングアプリに登録しているって言ってたから、いないものだと思っていた」

里田は謝りつつも笑いを抑えることができなかった。高校の時は黒田とはほぼ便宜的な付き合いだったが、想像以上に自分たちの趣味が合うことがツボに入ったのだ。しかし、黒田は高校の時には学校でも評判の美人と付き合っていたから、彼女が黒田と付き合っているなんて天地がひっくり返っても想像がつかなかっただろう。

「それが手なんだよ。彼女はしたたかだよ。気を付けた方がいい。お前、彼女に金を預けてはいないか」

藪から棒に聞かれて、里田はひゅっと息を吸い込んで笑いを引っ込めた。

「結婚資金をあずけたよ」

式場を申し込む300万円だ。里田が率先して彼女に式場巡りを勧めた。

「そうか。実はお前に忠告する義理はないと思っていたんだ。しかし、お前は久しぶりに会ったら、警察辞めるとか思い詰めているし、可哀そうになってな。だが、一足遅かったかもしれん。すまん」

「なんだ。彼女が金をむしり取るとでもいうのか」

「彼女は金の亡者だよ。実はそのことで、最近まで彼女と連絡を取り合っていたんだ。しかし、彼女も金も戻ってこないし、お前の事が心配になった。これが友情ってやつかな。里田は警察官だし、まだ間に合って取り戻せるかもしれんな」

「ー本当に、彼女が金をとるのか?預けたのは、一部の金だよ。全財産じゃない」

里田はすっかり酒が冷めて、これが尻すぼみになっていた。付き合った相手がかぶっていたことは笑えたが、結婚詐欺というのは笑い事ではない。

「俺は1千万円やられたよ」

黒田が言った金額に息が止まった。貼りついて鬱陶しかったシャツの下に冷や汗が流れた。

ー俺は300万円。それなら、被害額は黒田より下になる。そして、彼女が本当に黒田から金をむしり取るとは限らない。

ふいに訪れた沈黙の中で、耳につく虫の声を振り払いながら、里田は己に言い聞かせた。

しかし、その願いもむなしく、彼女はいつの間にか里田の預金をすべて引き出していた。親から結婚資金にもらった金とこれまで貯めた金と合わせて31,215,000円。それと、黒田の1千万円。
二人の公務員から金を盗んで、赤肘史奈は消えた。
彼女の捜索願を両親が出すと言い出した時、ことの経緯を話す里田は生まれて初めての恥辱にうめいた。しかし、その気持ちは黒田も同じだと思い出すと、説明する口が滑らかになった。


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