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我が家の庭の風景 part.80

ザバザバと水桶で茗荷ミョウガを洗っていると、苛立ちを覚える。ざわざわとした胸騒ぎを覚える。自分の感情のセーブが効かなくなって、誰かにあたり散らしてしまうのではないかと心配になる。
そうなるくらいなら、いっそもっともっと孤独に沈んでしまいたいと思うのだ。水にぷかぷか浮かんだ茗荷の下に隠れてしまいたい。

しかし、今は誰と関わりを持たないかったとしても、自分に向けられた言葉でなかったとしても、不意に飛び込んできたSNSの言葉に胸を抉られてしまうことがある。

他人にSNSをやめたほうがいいと言う人は、自分がやめてしまえばいい。向いていないから、やめた方がいい。そんな言葉が何よりSNSをしている人たち世界を傷つけてしまうことに気づいていないか、気づいていて歪んだ正義感で他人を切って捨ててしまっているのではないか。

そういった人たちは、他人とのつながりを求めているのだろうか。ただ茗荷を洗っている私のように、意味のないことをしている気持ちで、ひたすら苛立って当たり散らしてしまうのだろうか。

開いた茗荷の中には、ヒルが潜んでいる。生き物の血を吸うそれは、ちっちゃなミミズのようにも見える。しかし、土壌を柔らかくしてくれるわけではなく、捕食するものを探しているのだ。
茗荷を半分に割って切って、よく洗って、土のかけら1粒すら残らないように頑張る。けれど、ふとピタリと張り付いたヒルの感触というものを試してみたくなる。あるいは、ヒルは勝手にこちらが気づかないうちに血を吸うかもしれないが、それもきっと茗荷を洗い終えた後に、手のひらだけでなく、肘まで腕を洗えばきっと落ちてしまうだろう。

ピリッと肌を刺す痛み。
チカッと何かが光って見える。
庭に出れば、それは日光の仕業だ。
ネットの世界に身を投じれば、それは剣のような言葉だ。

ある人にとっては、正義の鉄剣だ。
しかし、そのある人たちに一度取り囲まれてしまえば、無数の剣を突きつけられているようなものだ。そのストレスは相当なものだ。針の筵である。

一度、戦場の中に身を投じれば、そういった過酷な環境に慣れなければいけないのかもしれない。そういった逆境をくぐり抜けなければ、生き残れないのかもしれない。

しかし、生きる世界が、戦場になるなどと言うことを誰が予測できるだろうか。冒険者のつもりで、SNSの世界に旅に出て、恐ろしい敵と対峙することになるなど、思いもよらなかったかもしれない。旅人は、常に騙されることに警戒していなければならない。
しかし、なるべく平穏な旅を願う事は許されないのか。

災難は突然降りかかってくる。その災難を当たり前のものとして武装していなければならないのか。
まるで損をしない投資家のように、リスクヘッジを徹底した旅をしなければならないのか。それが人生でそれがネット社会であるのだろうか。

他人を攻撃し、戦争を仕掛けた方が生き残り、それにへこたれた人がSNSや現実の生まれ育った土地から去っていく。新しい表現も新しい発明も、そうした攻撃してくる人たちの目をくぐり抜け、理解者だけを自分で探さなければならないのか。

ブログなど、限定的な世界に閉じこもって、避難していても、平然と暮らせる私のような図太い人間もいるだろう。

8畳の和室から庭を眺め、世界を思い、呆れ悲しみ、これ以上自分の心が傷つけられないことを願う。そして、殻に閉じこもる。私はSNSを辞められる。人生もこの苦難もいつか終わってしまうものだ。しかし、そうした無関心な人間ばかりで、社会は作られない。むしろ私のような人間は珍しく、多くの人は物事にもっと興味関心を持っている。

酒や賭博、ゲームやSNSや食べ物など多く依存症が心配されるものがあるだろう。確かに依存しすぎて破滅する事は心配だ。
しかし、皆が恐れて、へこたれて暴力的な人たちにばかり道を譲って、あるいは歪んだ正義感を誰も正さずに歪んだ正義ばかりがまかり通って、酒もコスプレもゲームも、SNSも芸能もこの世から廃れてなくなってしまったら?無数の文化を終わらせた後に新たな娯楽が登場しなければ、世界は色をなくしてしまうだろう。

向いてない。やめろ。
何を辞めるのか人生か。SNSが仕事の人はその仕事を辞めなければいけないということか。どんな権限があって、その人たちはその人にそのことを言うのか。美しい花を見たら、摘み取った後飾らずに踏み潰してしまう人たちのようだ。あるいは、無意識に、雑草の上を歩いてしまっているかのように、踏みつけているだけなのかもしれない。例えば、オオバコだったら踏まれてもへこたれない。タイムも強く香る。

踏まれる以上に辛いのは、根っこから抜き取られて終わらせられてしまうことだ。

日本語大丈夫ですか?という日本語は日本語になっていない。

私の日本語は大丈夫ですか?通じますか?という意味ならわかる。しかし、あなたの日本語は大丈夫ですか?は、おかしい。一体何を聞いているのか。その人の文意を読み取れないのは、読む人自身の語彙力が追いついていないのかもしれない。あるいは、まるで感性が違うのかもしれない。

他人に理解してもらうことを期待するな。SNSをやめろと言いながら、なぜ相手の言葉を自分が理解できないことを受け止められないのか。その人たちの言い分によれば、世界にはほとんど相互理解などありえないのではないか。

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