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【全話】本当に怖くない猫の話

はじめに


noteでこれまで書いた同じタイトルのものをまとめようと思い立ちました。この「本当に怖くない猫の話」を一つにしています。
正直、誰か読んでくださったかわからないですが、9万字以上も書いたんですね。
noteでは、ほとんど日記や読書感想文を書いています。たまにこうした小説を性懲りもなく書いていますが、あまり気にせずお付き合いいください。
誤字脱字など校正に手を出すと、話がすっかり変わってしまったり、いつまでもどうにもならず削除したくなってしまいそうな気がします。
何度も自分で読み返して校正できる人は、それだけで才能ですね。

あらすじ


失業して何でも屋をはじめた人物が、猫の見合いを依頼されます。しかし、見合いは難航。一方で猫と暮らす人たちの生活を知ります。何でも屋も次第に猫のいる生活に慣れていきます。

目次

第1話 饅頭コワクナイ
第2話 猫との暮らしはコワクナイ
第3話 猫カフェはコワクナイ
第4話 新婚生活はコワクナイ
第5話 猫を飼うのはコワクナイ
第6話 猫と旅行はコワクナイ
第7話 一人暮らしはコワクナイ

第8話 猫探しはコワクナイ
第9話 何もしないのはコワクナイ
第10話 珍しい猫はコワクナイ

第11話 猫1匹暮らしはコワクナイ
第12話 老猫はコワクナイ
第13話 開業はコワイが、お見合いはコワクナイ
第14話 独身主義者はコワクナイ
第15話 退会はコワクナイ
第16話 転職はコワクナイ

第1話 饅頭コワクナイ

小雪の降る公園。黒いコートを着た男が一人立っていた。
すると、待ち合わせた依頼人がやってきた。
「何でも屋さんですか」
こぎれいな身なりをしながらキャリーにも入れず素のままの猫を懐に抱いた奇妙な女に尋ねられ、男は頷いた。男はこの不況の最中、怒りに任せて仕事を辞め、失業手当の給付も切れ、1週間前からネットに何でも屋の看板を出していた。これまでネットで数件依頼を受けたが、まさか本当に依頼人が現れたのは今日が初めてで男は戸惑い自然固い表情でうつむきがちになっていた。
「依頼は猫探しでしたよね?」
女が抱えた猫に少し首を傾げながら何でも屋たずねる。
「ええ。けど、もうちょっと詳しく言うと、この子のお婿さんとしてふさわしい猫を探してほしいんです。品種は問いません。血統書なんてついてなくても、優しくて頼りがいがあって誠実でこの子だけを愛してくれて、何よりこの子に見合うだけの賢さがあって、一緒にいていつも楽しい遊び心のある猫が良いわ。とりあえずは、1万円お渡しします。成功報酬は20倍でいかがでしょうか」
「ちょっと、メモを取りますから待ってください」
何でも屋は女から一万円をもらうと、笑いそうになったのを空咳で誤魔化してスマホを取り出した。とりあえず、頭の良い猫とだけ指で打つ。スマホが冷たくて、男は思わずコートの襟を立てる。そんな男には構わず、女は少しも寒そうなそぶりも見せず、猫を可愛がって撫でながら話を続ける。
「本当にうちの子は賢いんです。この子の子供がみたいんだけど、そんじょそこらの猫はだめなんですよ。どのくらい賢いかっていえば、『饅頭怖い』くらい賢いんです」
「『饅頭怖い』ってあの落語の」
男は落語に詳しくないがそれでも聞いたことがあるくらい『饅頭怖い』は有名な演目だ。
「いえ、リアル饅頭怖いなんですよ」
女の話は続く。女の家には洋間が3つのほかに2間続きの座敷があるという。どうやら、身なりの通り女は金持ちだ。飼い猫は賢く、絶対に屋敷で迷ったりも脱走して帰ってこないこともないのだという。呼べば必ず来るのだから、飼い猫がいなくなった時は死ぬときだろうと女は薄く笑う。その猫は食い意地もはっていないが、唯一饅頭にだけは、興味を示していた。女の家には客用の饅頭がいつも出されているのだが、毎日のように飼い猫は手を出そうとする。それを厳しくしかりつけているうちに、飼い猫は饅頭の置かれる客間には、恐れて近づかなくなった。それどころか、飼い主が饅頭を食べだすと離れるようにまでなったらしい。まさに、猫版『饅頭怖い』である。ところがある日、台所から饅頭がなくなった。飼い主の女性は猫のせいなはずがないと思うが、その家のお手伝いさんがいうにはこれまでもたびたび饅頭が台所からなくなっていたので、きっと猫のせいだという。まだ、近くにいるはずだとお手伝いさんがいうので、釈然としないながらも、猫を探したら、冷蔵庫の下に怪しく光る二つの金色の目玉があった。女性は優しく呼びかけたが、怒られる気配を感じ取ったのか猫は飛び出してきて、その足元から饅頭が一つ、二つと転がり出た。冷蔵庫の下に手を伸ばすと、まだ、いくつもまんまるいそば饅頭がおちていた。どうやら、飼い猫が饅頭に興味を示していたのは、食べたかったためではなく、転がして遊びたかっただけのようだ。とはいえ、いくら猫でも食べ物を粗末にさせてはいけない。女性は心を鬼にして猫を叱ろうと立ち上がった。猫はちょうど、台所のテーブルの上に立っていて、お手伝いさんと対峙していた。お手伝いさんと飼い主ににらまれた飼い猫は、賢いから普通の猫のように縮こまったり、逃げ出したりはしなかった。すっと饅頭が乗せてあった皿に乗ると自分が饅頭の代わりと言わんばかりに丸くなって薄目を開けてにゃあと鳴いたのである。それは、まるで饅頭の代わりに自分を客に差し出してくださいと言っているようだったという。
「ね、とってもお茶目で賢い猫でしょう」
「―とってもいじらしい猫ですね」
男は女の話に途中まで聞き入って損したと思って肩を竦めた。本家の『饅頭怖い』のようなオチはない。ただ、猫が猫であるがゆえに己の悪行に気づかず、最終的に遊び疲れて皿に入って寝ただけではないか。大体賢いかどうかは知らないが、よく見れば女性の猫はサビ猫に近いくらい模様が縞々ではっきりせず、極めつけに鼻筋もあまり通っておらず顔半分が眼帯をつけたような半分黒色で目つきが悪く見えた。可愛らしいというよりふてぶてしそうな猫である。
「うちの子に似合う猫なんて本当にいるのかしらって思うんだけど」
「幸い、私の知り合いには猫好きも多くいましてね。去勢していない猫がいるかどうかあたってみますよ」
「ハンサムさんならそこは問いません」
女がきっぱり言い切った。どうやら女性は本当に猫のパートナーを探したいというメルヘン思考の持ち主のようだ。とはいえ、ペットショップにいるような猫ではなく、その辺に捨てられていそうな三毛猫を可愛がっているのだから、口でいうほど猫の理想は高くないかもしれない。男は愛想笑いを浮かべてうなずくと、小雪降る極寒の公園から早々に立ち去った。

第2話 猫との暮らしはコワクナイ


何でも屋は、ある女性に猫のお見合いを頼まれた。成功報酬20万円の仕事だ。他人様から見ればずいぶんとバカバカしいような話かもしれないが、彼は少し張り切っていた。子どもの頃に飼っていたオス猫が近所のボス猫になるくらい強く、それでいて捨てられた子猫を見つけて助けて育ててやるくらいに優しかったのだ。生きていれば、女性の賢い飼い猫の良い伴侶になったに違いないと思った。
「この子を、お見合いさせたいという話でしたよね?私も猫友ができるのは願ってもないことですよ」
とはいえ、生きていない猫のことを思っても仕方がない。何でも屋の話を聞き終えた男性は、非常に乗り気になった。しかし、何でも屋はなるべく出されたお茶に目を落とすようにしながらも、部屋の中の様子を無意識に観察して失敗したなと考えていた。まるでゴミ屋敷だ。猫部屋にしているという一室だけが立派なキャットタワーがそびえたって小綺麗にされているが。2LDKのリビングはいろいろな布切れでごった返していた。なんでも大学を卒業した後趣味が高じて現在は服飾の専門学校に通っているのだという。それはブログで書いていた自己紹介の通りなのだが、猫部屋ばかりの写真をあげていたのか、もっと部屋を可愛らしく飾っている女性のイメージだった。依頼人と歳は近そうだが、無精ひげにピアス、腕に入れ墨ではなかなか友達として紹介しづらい。
ともあれ、猫は写真の通り身ぎれいにされていて、男性の手作りの首輪は可愛らしい。賢いかどうかはソファでずっと寝ているので分からなかったが、体格は普通より大きめだ。
「猫友と言いますか。パートナー探しですよ」
「ん?それって、繁殖じゃなくて猫を譲ってくれって話ですか?この子まだ生後半年くらいで去勢もしてないし、ちょうどよいと思ったけど、猫を譲れっていうなら話が違うな」
男性の顔色が変わり胡乱気な目で見られると、何でも屋の目は自然と泳いだ。男性の目力が怖かったせいもあるが、女性が猫のパートナーを探しているというのは、もしかしてもう1匹猫を飼いたいという話だったのかと今更ながら気づいたからだ。品種は問わないとは言っていたが、もう少しどんな猫が好みだとかも聞けばよかったと後悔した。成猫でなくともよいのだろうか。あるいは、あまり歳がいっているとお迎えが早いからだめかもしれない。そもそも女性の飼い猫は今何歳くらいなのだろう。気にはなったが、とりあえず、この男性との交渉を終わらせなければ、女性に連絡することもできない。
「それはお話次第ということになるかと思います。まずは、依頼人は飼い猫と相性の良い猫をお探しということなのです。賢くて優しい器量の大きい猫をね。ブログで拝見してお宅の猫であれば、女性のお眼鏡にかなうのではないかと思ったんですよ」
何でも屋が真面目くさっていうと、渋るかと思っていた男性は悩んだ素振りでうつむいた。
「・・・実際のところ、こいつが幸せになるのなら、俺なんかよりずっと裕福なところに婿に行った方がよいかとも思うんですよねえ」
男性はそう話を切り出すと、とつとつと話し始めた。
男性は大学を卒業してのち、半年前までアプリの開発やHPの作成などを請け負うプログラミングの会社に勤務していた。忙しい仕事の合間を縫って資格講座にも通いいくつかの資格を取り、PCやデザインのスキルアップもして将来は独立してフリーで仕事をしようと考えていた。だが、資格を取り終えると、子供の頃はまっていた人形収集に再度はまってしまった。人形の服というのはなかなか売っていないので、それを自分で繕ったり作ったりしているうちにネットフリマでちょこちょこ販売できるまでになった。身に着けた仕事のスキルの方がずっとお金は稼げるのに、人形の服飾にはまって徹夜して身体を壊すようにまで。心配した職場の同僚から猫を飼うことをすすめられた。保護猫の譲渡会で一目ぼれした白猫は服を着せてもそんなに嫌がらなかった。もらったのが冬だったせいかもしれない。これまで作った人形の服でサイズが合うものを着せてネットにサイトを作ってアップしてみたら、予想通りの反響が得られた。アフィリエイトと猫服の販売の内職で収入が得られることを確信すると上司の遺留を振り切って、服飾の専門学校に入り、自分の望むような生活ができるようになった。今年で卒業も決まっており、何なら学校から就職先まで世話をすると言われている。だが、自分磨きと趣味に没頭したあげく、猫と狭い世界で自分は生きているのではないかと時折不安になるようになったのだという。販売目的の服を着せ替えらレンジて、猫は果たして幸せなのか。食べるものもおもちゃも病院代も人間の自分よりずっと金をかけてやっているのに、幸せにしてやっている自信がない。今後就職してもしばらくは都心で生活して、一戸建ての広い家に引っ越してやる見込みもないのだ。結婚もできずに30歳を超えて、自分とだけ暮らすのは猫に寂しい思いをさせてやしないかと不安にもなる。だが、たとえまたフリーで独立できたとしても、これ以上動物を飼っても十分な世話をしてやれる自信がない。それでなくても、学校に行く間やたまの仕事の商談で出かける間は猫に留守番を強いている。
男性の悩みを聞きながら、最初は親身に聞いていた何でも屋は馬鹿馬鹿しくなった。彼の人生はいたって順調だ。服飾の仕事の才能がある割に自分の身だしなみには気を遣っていないらしいが、見た目もそこそこ少し太り気味ではあるが中肉中背で、背は何でも屋がうらやましくなるほど高い。婚活をすれば収入も才能もあるのだから、すぐに相手は見つかりそうである。多少内向的かもしれないが、猫を可愛がってやるだけの優しさもマメさもある。仕事と家庭の両立もできそうだ。婚活ももう1匹猫を飼うことも、ただ男性の勇気が足りないだけという気がした。猫に服を着せるのが可哀想になったら、人形の服作りに戻れば良いだけだ。何より男性のそばで当の飼い猫は来客に少しの警戒もなく幸せそうに着せられた服を抱きしめて眠っていた。心配のしすぎである。猫なんてたいていこっちが寂しがるよりずっと留守番が得意な生き物なのだ。ある程度家でできる仕事ならなおのこと、猫を寂しがらせているという心配などほぼ杞憂というものだ。
大体、何でも屋なんて何にも取り柄がないのだ。仕事を辞めても特に趣味も特技もなくて何にもできない。特に何をするという目的もないから日銭稼ぎに何でも屋を名乗っただけだった。俺に対する嫌みか?と男性に対して何度も口を衝きそうになったが、男性が彼の境遇など知る由もないことは分かっていた。
「と、いうわけなんですよ」
暗澹たる気持ちでアパートに帰った何でも屋は、男性の長い話を文章に起こすのが面倒だったので、事の次第を女性に電話で説明した。女性は動画の見合い相手候補の猫を見ながら時折相槌を打って淡々と聞いていたが、最後は「否」と答えた。
「男性が猫をお譲りするか、わからないからでしょうか。それとも、子猫だから?」
猫の見合いの話なのに、男性の話をしすぎたせいで早急に結論を出されてしまったのだろうかと何でも屋は慌てた。猫自体は手入れの行き届いて聞き分けの良さそうなおりこうな猫だった。
「別に年下がダメというわけじゃないですし、猫友でも良いんです。それで将来的にはどちらかにお譲りするというのでも、本人たちが望むならそれで良いでしょう。でも、その飼い主がそんな風なら猫も頼りなさすぎます」
「と、いうのは?」
「うちの猫は、人間なんかに幸せにしてもらわなくても十分に幸せになれるくらい賢いんです。私が突然死んでしまっても、その辺の虫や鳥を狩って生き延びるでしょう。私、猫を幸せにできているかなんて心配したこともございませんわ。服だっていやなら着せないし、面白がるようだったら、着せます。自分で正しい判断のできる猫ですもの。まあ、でもその飼い主さんが乗り気ならキープということではダメでしょうか。その猫がもう少し大きくなって、その男性が学校を卒業して生活が安定したら、一度お会いしたいです。けどねえ、ぶっちゃけていえば私今無職なんです。親の財産で暮らしていますから、その男性の価値観からすれば、私みたいな暇な女の道楽に付き合ってはいられないんじゃないでしょうか。忙しいのが好きみたいですし、もしよろしければ、お忙しいときには猫をお預かりしますから、一度環境を見に来てほしいと言ってみてください」
女性の話で、何でも屋は女性が現在無職であることを知った。何でも屋からすれば、その女性の方が考え方全てに共感できたのだが、果たして、男性は何回かやり取りをしたものの、猫を連れてくることはなく、1年後には結婚して郊外に一軒家を買って移り住み猫と幸せにくらしたということだ。

第3話 猫カフェはコワクナイ


半年前に仕事を辞め、失業保険が切れてから何でも屋を始めた男の一日は暇だ。数年前に亡くなった祖父の家で一人暮らし。庭の手入れをするのが、両親と約束したその家に住む条件だったので、毎朝少しずつ庭木を切ったり手入れをしている。朝ごはんを食べたら、毎日ネットフリマに古物を一つ出品してわずかな収入の糧としていた。今月は臨時収入があったので、朝食が豪華になった。ベーコンエッグ、コーンポタージュ、蜂蜜トースト、フルーツヨーグルト、深煎りコーヒー。男の理想の朝食だ。
余ったコーヒーをカフェオレにして男・・・何でも屋がネット検索をしていたら、可愛い猫の画像に行きあたった。たくさんの猫の画像が載っていた。しかもいろいろな種類がいる。何でも屋は現在、猫の見合いの依頼を受けていた。今まで思いつかなかったが、ここなら依頼者のお眼鏡にかなう猫が見つかるかもしれないと何でも屋は考えた。前もってもらった1万円は経費として使用すべきだろう。何でも屋は、1万円を握りしめ、少し遠出することを決意した。
ガタンゴトン、ガタンドドン。キキ―。
電車が駅に到着した。潮風の匂いが辺りに漂っている。何でも屋は都心の店にいくのは気が向かなかった。
「ようこそお越しくださいました!」
エプロンをつけた薄化粧の女性が受付に立っていた。そこで1000円を支払うと、何でも屋は入り口の水道で手を洗い除菌スプレーを手につけた。
ミャーミャー、ニャー。
さっそく、子猫がすり寄ってくる。部屋には獣の匂いが充満していた。
男はしばらく寄ってくる子猫たちと戯れた。猫じゃらしやおもちゃ、猫のおやつは別料金だった。猫カフェとは案外お金がかかるものだと驚きつつも金を払って、猫たちの反応を見た。
ミャーミャー。
しばらく待っても子猫しかよってこない。大きい猫は寝ているか、棚の上で警戒したように見下ろしている。子猫は可愛いが、用があるのは成猫だ。何でも屋は店員に声をかけた。
「すみません。こちらは、猫の譲渡もされているとネットで見たんですけど、ケージの中の猫とか見せていただけませんか」
客が人懐っこい猫と触れ合えるスペースのほかに、透明の巨大なアクリルパーテンションで仕切られた場所があり、そこで猫たちが自由気ままに過ごしている。
何でも屋は知人が猫を一匹飼っており、その猫と相性の良さそうなオス猫を探していると話した。
「すべて避妊去勢済みですか・・・」
何でも屋は保護猫譲渡の説明書きを読みながら、その条件の多さに思わず渋面を作った。
「ええ。成猫ということなら、そうですね。こちらで、すべて避妊去勢しておりますので、そちらの費用はかかりません。しかし、猫を飼うのは、とってもお金がかかるんです。年間50万円以上かかると覚悟してください」
「えーと、ネットで調べたところ、年間15万円くらいが平均だと読んだんですが・・・」
依頼人は金持ちだから猫を飼う費用の問題はないが、ネットで調べたものと違った情報に男は戸惑った。何でも屋自身、子供の頃に実家で猫を飼っていたが、それほど金がかかるという話を家でされたことがなかった。
「ご家庭で猫を1匹飼っていらっしゃるということなので、あらかた猫グッズがそろっていらっしゃると思います。でも2匹飼うということは倍以上お金がかかると思っていただきたいですね。たとえば、この猫ちゃん」
「糖尿病なんです。インスリンとか治療費がかかります。今推定10歳くらいですかね。漁村にいたので、オスにしては性格は穏やかで人なれしてます」
いきなり現実をつきつけられて、探偵は黙り込んだ。なるほど、保護猫というのはそういうことが多いわけだ。
「もし、この子をお引き取りなら、毎日餌を作ってあげて、仕事をせず、一日家にいる方が必要ですね。それが難しいというなら、たとえばこの子」
今度は店員の女性は茶トラの猫を持ち上げた。
「綺麗な縞模様でしょう。じつはこの子スコティッシュフォールドという品種なんです。ただ、人気の垂れ耳ではなかったのと、足が悪いので捨てられたみたいで、うちにきました。甘えん坊で可愛いんですが、いろいろと注意が必要です」
「注意とは?」
「噛み癖がひどいんです。ですから、噛み癖を治すトレーニングにお引き取り後も通っていただきます。家の中もこの子が傷つかないように家具がきずつかないようにしていただく必要があります。たいていの安い爪とぎは破壊しますから、頑丈なものが必要ですね」
「なるほど、他の猫は?健康な猫はいませんか」
強い猫が良いという依頼人の希望だが、いささか強すぎるようである。健康な猫を求めたにも拘わらず、店員は白血病の猫やエイズの猫、猫風邪が治ってない猫、足の悪い猫などを次々と紹介した。もう1匹猫がいると説明しているのに、移る病気は困る。足の悪い猫は候補にいれたが、海外の品種の猫であまりに大きく優美でかえって依頼人の希望に合いそうにないと探偵は考えた。また、引き取った後の説明も長すぎた。身分証の提示や定期的な報告はまだしも、住んでいる環境をアポなしで突撃で見に行くとか、餌は毎日作らなければならないとか、あるいは一人暮らしはダメとあった。依頼人は独身だ。一人暮らしかはわからないが、そこそこ金持ちだとはわかっている。目の前の店員の素性もわからないのに、もし一人暮らしの女性だったら、高級な調度品のある部屋に素性のわからない人間を入れるのは危険である。
「ええと、ワクチンとか打たないといけないのはわかりました。普通の猫はいませんか」
「こちらの猫ちゃんは穏やかで優しいですよ。ただ、食事のこだわりが強いので、毎日違う食事を作ってあげてくださいね」
「はははは」
何でも屋は店員の言うことをもはや適当に聞き流した。食べなければ考えなければいけないが、毎日の食事チェックでもなければ適当に報告をすれば良いことである。大体、半年間も毎日報告なんてありえないではないか。渡された綺麗なキジ白の猫をよしよしと撫でながら、何でも屋はふと気が付いた。
「この子雌ですか?」
「女の子ですよ!」
店員は何だかムッとしたように答えた。どうやら、目の前の店員は話が通じないようだ。聞けば1匹1匹の猫の説明はインターネットのサイトに書いてあるそうだ。壮大な徒労を感じながら、とりあえず、すべての猫を1匹1匹見せてもらうと、何でも屋は帰路についた。そして、依頼人に保護猫のサイトを教え、各猫たちの紹介をしていったが、引き取った後のいろいろな条件を聞いた後で、却下となった。

第4話 新婚生活はコワクナイ


30歳を超えて何でも屋を開業した?と言ってよいかもしれないと最近思い始めた。買い物代行をネットに出したら、思いのほか依頼が舞い込んだ。1日1件は必ず仕事がくる。コロナ禍で失業者が溢れ、男もその一例ではあるが、これが通常時であれば、こんな商売は成り立たなかったかもしれない。外出自粛が叫ばれる昨今にあって、ネットを見ている時間もみな増えているのだろう。
何でも屋が初めて受けた依頼に、その日、一筋の光明が差した。猫を譲りたいという連絡が来たのだ。しかも、場所は都内近郊で、探偵の住む川口市からそう遠くない。すでに窓から夕日がさしかかっているが、連絡をくれた方は今日にでも会えるという。何でも屋は小銭を握りしめて、意気揚々と家を出た。
「サプライズですか?」
「そう、結婚1ヶ月の記念日に猫を飼ったんです。でも、聞いてないって夫が怒って喧嘩になっちゃって。だから、手放そうかなって」
女性はそう言ってうなだれた。20代前半くらいの髪の長い女性である。部屋は新婚らしく華やかに整えられていた。彼女の言う旦那と言えば、すでに仕事から帰ってきていたが、猫を手放す話をすると逆切れして出ていってしまったらしい。
「結婚したら、猫を飼いたいってずっと言っていたんです。コロナで結婚式も新婚旅行もできなかったし、時間もあったから、保護猫のシェルターに行ったら、この子がいたんです。本当は夫に相談すべきだったかもしれないんですけど、真っ白でふわふわで可愛くて一目ぼれしちゃって」
可愛いの概念はひとそれぞれだ。自分の膝の上でひっくりかえって舌を出している猫を見ながら、何でも屋は内心あまりの無警戒ぶりに心配になってしまった。確かに白くて毛が長いが、左右対称のオッドアイが何でも屋には不気味に映った。
「絶対可愛いって賛成すると思ったのに、ペット可のマンションに住んだのは私に話を合わせただけだったんでしょうか。成猫で手もかからないし、自分で水も出せるし、ドアも開けられるんですよ?トイレが汚れたら教えてくれるし、こんな賢い猫いませんよ」
(それは賢い。だが、旦那はただ話を合わせただけだったんだろうな)
それだけ手がかからなくて面白い猫を手放そうとする気持ちは探偵にもわからない。オッドアイが不気味だとは思ったが、依頼人がいらないと言えば自分で飼おうかと思ってしまった。何分一軒家住まいなので、猫を飼うのに支障はなかった。
「依頼人の方の猫もずいぶん賢いんですよ。きっと気が合うと思いますよ」
何でも屋はスマホで依頼人の三毛猫の写真を見せた。眼帯をつけて迷彩服を着ているようないかつい三毛猫だが、この家の白猫も貫禄があるのでなかなか似合いではないかと思われた。
「三毛かあ。女の子なんですよね。うちは男の子だし、いいのかも活発そうな猫ちゃんだし。この子はおっとりしているから。うちにいても私と夫が毎日喧嘩して怒鳴ってばっかりだし、猫にとって環境がよくないんじゃないかなって」
「環境がよくなかったら、こんなに人懐っこくリラックスしないと思いますがね」
何でも屋はつい本心を述べてしまった。女性が猫を手放してくれた方が都合が良いので、何も励ます必要などないのだ。
「甘えん坊なんですよ。でも、うちは共働きだから、その分寂しい思いをさせているんじゃないかなって」
「稼ぎがない方が不幸では?私なんて、今、無職同然ですよ。大体人間の子どもだって親が共働きだから不幸ってことはないでしょう」
だから、励ます必要などないのだ!しかし、女性は誰かに愚痴を聞いてほしかったのだろうと思うと、何でも屋は自分が思うことを言わずにはいられなかった。
「・・・そうですよね。でも、夫が言うように猫とか子どもができてからでよかったのかも。でも、子どもなんてできるかまだ分からないし、それなら、猫一匹くらい幸せにしてあげてもいいのかも?」
女性は結局悩みのループに入ってしまったようである。それから小一時間ほど話したが、ほぼ女性は猫を手放すことで気持ちが固まっているようだった。猫を手放してくれることを望んでいたはずなのに、たったひと月でこれほど家に馴染んでいる猫をまたよそへやるのはかわいそうな気がしてしまう何でも屋だった。
それにしても、何でも屋がこの前いった保護猫カフェはあまりに条件が厳しすぎたが、女性が引き取ったところは毎日の報告もいらず、家族の了承も得ているか確認せずに猫を渡すとはずいぶんと条件が緩いらしい。いや、サプライズのプレゼントに生き物を渡すのは、彼が考えるよりもずっと一般的なことなのか。しかし、もし自分が誕生日にいきなり、犬とか猫とかはたまた蛇とかもらったら、自分で選んで飼うことになったわけではないので、不満が残るかもしれない。とすると、旦那の不機嫌は当然なのだろうか。
女性の話を聞くうちに、何でも屋もなんだか悩みに陥ってしまった。もちろん、彼は生き物をプレゼントされるような相手もする相手もいない。
ほとんど話はまとまるだろうという気持ちで、何でも屋は依頼人に連絡をした。
「まあ、こんなに可愛い猫ちゃんを良いのかしら?」
依頼人も少し戸惑っていたようだが、事前に女性から連絡先としてアドレスをもらっていたので、依頼人にそれをメールして知らせた。女性は飼った猫を紹介するブログをやっていて、動画も載せていたので、どんな猫かは何でも屋が写真を撮ってくるまでもなく、それを見ればわかったのだった。
しかし、何でも屋の予想に反して話はまとまらなかった。いや、まとまる直前まで行ったのだ。依頼人の家に件の猫がとりあえずお試しということで、やってきたらしい。猫たちはすぐに意気投合した。
「あの猫右利きだったのよね」
依頼人に呼び出されて家に行ってみると、何だか落ち込んだ様子で彼女はそう言った。
「右利き?」
何でも屋が首をかしげると、依頼人が詳しく説明してくれた。
来てすぐに意気投合した猫たちは、それはもう家にある玩具の何でじゃらしてもよく遊んだらしい。
「すごく気が合うみたいですね」
猫を連れてきた女性はほっとした様子だったそうだ。しかし、その隣で夫の方はほとんど話さず不機嫌が顔に出ていた。
依頼人が手製の麻ひもの猫じゃらしを右に振れば猫たちは飛び上がって右に傾き、左に振れば左に手を伸ばした。そこで、依頼人はあることに気が付いた。
「あら、この猫ちゃん。オスで右利きなんですね」
「え?」
女性が聞き返したので、依頼人は以前にテレビで、雌猫は右利き雄猫はほとんど左利きだと番組でやっていたのを見たと説明した。利き手が同じだから雄と雌にも拘わらず動きが綺麗にシンクロしたというわけである。
「赤目と青目のオッドアイに右利きなんて本当に珍しい猫ちゃんなんですね」
依頼人が心から感心して言うと、女性もうんうんと嬉しそうに頷いていたらしい。ところが。
「運命なんだよ・・・」
それまで黙っていた女性の夫が突然声を発した。
「この子はリリーの化身なんだ!僕のところに来る運命だったんだよ!すみません。この話はなかったことにしてください」
女性の夫がそう叫んで土下座してきたので、依頼人も反応に困ってしまったそうだ。
どうやら、夫は初めは猫選びを一緒にさせてくれなかったことについて拗ねていただけだったらしい。とはいえ拳を下ろすきっかけもなく、見れば見るほどかわいい猫を構いたくてうずうずしているのに、奥さんが自分の部屋に猫を連れていってほとんど触れないものだから、いらいらが募ってしまったということだった。ちなみにリリーはアニメのキャラクターであるらしく、まだついていなかった猫の名前はそのリリーになったそうだ。
「その登場人物は女性では?」
「可愛いなら何でもよいのでしょう。奥さんとは気が合ったから、子供ができたりして大変な時は、うちで預かることにしたので、お陰様で猫友ができました」
依頼人が渇いた笑顔を浮かべたので、何でも屋も愛想笑いをしたが、ふと気になって聞いた。
「では、リリー君はミケさんのパートナーになるんですか?」
依頼人の猫の見合いを頼まれていたが、必ずしも猫を引き取るとは聞いていなかった。それだけ気の合う猫同士なら通い婚というのもあるのではないかと何でも屋は考えたのだ。
「いいえ、年に数回も会えるかわからないなんて織姫と彦星ではないんですから、ダメですよ。とはいえ、きちんとうちの猫のパートナー探しの仕事をしてくださっている上、延長になるんですから、お約束の20万円はお支払いいたします。それで、今後も探していただくというのは可能でしょうか?良い相手が見つかったら、また、再度20万円お支払いいたしますから」
「私は構いませんけれども、いささかお金をもらいすぎな気がしますね」
口ではそう言いつつ、何でも屋は差し出された茶封筒を突き返すことなく鞄にしまった。
「いいえ、あなたの労力に対する当然の報酬ですわ。今後とも、よろしくお願いします、親切な何でも屋さん」
「猫探しの他、何かお困りのことがあれば、ぜひご相談ください」
何でも屋は依頼人に対してにっこり笑うと、作ったばかりの名刺を差し出した。

第5話 猫を飼うのはコワクナイ


彼女は、猫を撫でながらかつてのことを思い出していた。
仕事を辞め、実家で一人暮らしを始めて1年目にその猫はやってきた。
「あっちへ行きなさいよ!しっ、しっ」
桜の花も散り切った4月の中頃のことだ。生後2か月ちょっとくらいだった。庭先に現れた三毛猫は鼻水を垂らしてやせぎすでいかにも病気持ちといった感じだった。
(かわいそうだけど、拾ったら病院に連れていかなければならないものね)
猫は治らない難病持ちも多い。生き物の一生の面倒を見れるほど女は心に余裕のある生活をしていなかった。洗濯物を干す間、まとわりついてくるのを払うが、玄関をぴしゃりとしめても玄関先でしばらく猫は鳴いていた。
昼ご飯を食べ、テレビを見て、猫がもう鳴いていないのを確かめて、女は洗濯物を取り込みに外に出た。
「痛いわよ。ちょっと!」
ところが、玄関を出たところで、にゃあと猫が飛び掛かってきた。背中に飛び乗られ、おろした髪をひっぱられて痛かった。どうやら、庭のベンチで横になって待ち構えていたらしい。
彼女はなんとか猫を背中から引きはがすと、洗濯物を取り込んで、部屋に入った。だが、今度も猫がいつまでも玄関先で鳴いている。
「ほら、飲みなさい。これだけよ。あと、これで寝ればいいわ」
彼女はたまらなくなって、玄関に出た。腹をくだすのはわかっていたが、それしかなかったので、人間の牛乳を子猫にあげると、猫は喜んで飲み始めた。ベンチが汚れないように、段ボールの箱を置き、その中に猫と牛乳の入った皿を入れた。
その日から、猫がいつくようになるのは当然のことだった。彼女は翌日は猫を無視したが、その翌々日からは毎日通っているコンビニで猫のご飯を買い込んで帰る日が続いた。
(避妊手術をした後に放せば、近所に迷惑はかからないわよ)
自分の心に言い訳する日々が2週間ほど続いた頃、猫が怪我をした。おそらく、他の猫と縄張りを争って噛まれたのだ。足を引きずっているのを朝に見つけてびっくりして病院につれていったが、どこを怪我しているかよくわからず、鎮痛剤だけ処方された。だが3日経つと噛まれたところの毛が抜けだして、2本の牙がささった痕が見えるようになった。左足から胸にかけては真っ黒だから、血がにじんでもわからなかったのだ。三毛猫だから、多分雌。身体も小さい。彼女はそれでも飼ってやる決心がつかず、夜になると庭の温室に猫を匿うようになった。不思議なことに、その猫は温室の鉢植えの木にはいたずらはしなかった。100均で猫の玩具をいくつか買い与え、温室から出すたびにいなくならないかと心配して過ごしながら、1ヶ月。
ある日、夜に大雨が降った。雷もドンドン鳴り響く。女は心配になって、温室を見に行った。すると、猫がいない。女は胸が引き絞られるような思いがした。縁の下までくまなく探して、名無しの猫をおーいおーいと呼んでみた。すると、かすかに声が聞こえたが、どこにいるかはわからない。女は焦って、もしやと思い、縋る思いで、庭の使っていない蔵の鍵を開けた。
ギギ―。錠前を回して重い扉を押して、懐中電灯でホコリ臭い中を照らした。すると、すぴーすぴーとかすかに寝息が聞こえてきた。女が古いソファに近づいていくと、ドーンという雷の音にも無反応で猫がすやすや眠っていた。彼女がそっと猫を抱きかかえると、猫は半目を開けたものの、すぐに閉じた。しかし、それが狸寝入りであることは、前足の爪をしっかり服にかけたことで分かった。
彼女が猫を和室の自分の部屋に連れていくと、猫はしばらく物珍しそうに部屋の中を歩き回った。しかし、眠気が勝ったのか、すぐに女の布団の上に丸くなった。外猫だから、身体は真っ黒だ。ノミもダニもいるだろう。女はぬれタオルを温めてきて猫の身体を拭いてやった。その間猫は薄目を開けてたまに見たものの、やっぱり起き上がろうとはしなかった。なんとなく綺麗になったところで、女は自分も布団に入ったが、朝までなかなかねつけず、やっと寝入った時には明け方になっていた。
そして、やっと雨音がしなくなった昼過ぎにうつらうつらしながら女が起き上がると、猫の姿がない。8畳一間のそんなに広すぎない部屋だ。障子も襖もしめきり、出ていけるところはないはずだ。半開きの箪笥や折り畳みベッドの下もくまなく探したが、猫が見つからない。
(まさか障子戸から出て行って自分で閉めた?)
たかだか生後3・4ヶ月の猫にそんな力はないと思うが、妙に人間にこびるのがうまい、物分かりのよい猫だったからもしかしてと思う。女は部屋を出て、屋敷中を探したが、やっぱり猫は見つからなかった。
(猫は死期を悟ると自分で姿を消すっていうわよね)
餌をいくらやってもいつまでもやせぎすで、くしゃみばかりしていかにも病気持ちの猫だった。温めてやったつもりだったが、雨で身体が冷えて死んでしまったのかもしれないと思うと、女の心臓もまた冷たくなっていくようだった。
結局日暮れ近くまで探したが、猫の姿は見つからず、お腹が空いたので、夕方、彼女はやっと食事を摂り、早めの睡眠をとろうと自室に戻った。
ところが。
にゃあ。
猫の声が寝室の部屋の中から聞こえてきた。
「にゃあ」
何となく彼女が猫の声まねで返事を返すとがざごそ音がした。彼女が音の方に近づくと、目の前の革製の手提げバッグの中から茶色と黒の山がぐーんと現れた。
それは、しっかり昼寝してうんと伸びをした猫の背中だった。なんのことはない。布団の上で一緒に寝ていたはずの猫はいつの間にか彼女のバッグの中に寝床を移していたのである。
にゃあ。
起きたばかりの猫は腹が減ったとばかりに彼女の足元をぐるぐると歩きまわった。
「仕方がないわね」
彼女はなんとなく部屋がかゆくなった気がして、腕や足をかきながら、今まで猫が入っていたバッグを取り、まとわりつく猫を部屋に残して、猫のご飯をコンビニで買ってくるべく、部屋を後にしたのだった。

第6話 猫と旅行はコワクナイ


無職になると何もかもが嫌になる瞬間が必ずくる。何でも屋は今がそういうタイミングだった。「何でも屋」なんて名乗ったところで、家賃のいらない祖父母の家でその日暮らしをしていれば、定職につかないフリーター扱いされても仕方がない。いい年をして・・・と親が言ってきたわけでもなかったが、ささいなことで言い争いをしてしまい、親が差し入れに持ってきた大量のパックのおかずを食卓の上で見た時に何でも屋は何とも気まずい思いがした。
メンタルがやられていたから正常な判断ができなくなっていたというわけで、何でも屋は今、依頼人と猫のたくさんいる『猫旅館』に来ていた。
古びた古民家を改装したのか、通りに面した透明な窓から流木で作ったようなキャットタワーで戯れる猫たちが楽しめる、ノスタルジーと目新しさが両方楽しめる旅館だ。
依頼人が予約していた離れの部屋は二人と1匹にはもったいないほどひろびろとしており、寝室も二つあった。洋室が2間ある気遣いもうれしい。これが和モダンというやつなのかと生まれて初めての豪華旅館に何でも屋は感慨に耽った。
「では、トイレと猫砂と猫ちゃんのおやつとごはんはここに置いておきますから、ご自由にお使いください。もし猫ちゃんを部屋からお出しになるときはキャリーに入れられるか、ハーネスをつけて抱っこしてお連れになってください。万が一、うちの猫と喧嘩してしまうといけませんから」
「わかりました。ありがとうございます」
依頼人の女性が丁寧に礼を述べると、中居さんは、食事の時間などはすべて机の上のタッチパネル式のタブレットで説明が読めると言い添えて部屋を出ていった。人間の風呂や食事の説明はタブレットで済ませ、猫については詳しく説明してくれるあたりさすがペット旅館である。
二人ともとりあえず、夕食の前に部屋に荷物を置きに行くと、それぞれ風呂に入りに行くことにした。部屋付きの風呂があるが、多分、この1泊の間に使うことはない。なんなら、猫でも洗おうか?などと風呂に入りながら何でも屋は思う。
「一緒にペット旅館に行きませんか?そこに保護猫がいるみたいなんです」
依頼人にそんな風に誘われた時は驚いたが、聞いてみれば彼女は遠距離の運転に自信がないので足が欲しいのだという。部屋の中に鍵のかかる部屋もある・・・ということなので、何でも屋は引き受けることにした。ただ飯でただで旅行できるのだ。誰かに見られたら、「何もなかったなんて信じられない!付き合っているんでしょー」と言われる状況かもしれないが、お互いろくに仕事もしてないきままな未婚の独身同志で、見とがめられる人もいなければ、別に言い訳する必要もない気ままな身分である。深く考える必要もないかと思ったのだ。
猫の見合いを頼まれて以来、何でも屋と依頼人はらいんで頻繁に連絡を取り合うメル友に近い間柄になっていた。
「気に入った猫がいたら、猫を飼ってみたらどうですか?私が身元保証しますよ!何かあったら、お互いが猫を預かればいいんですから」
少し酒の入った赤ら顔で依頼人にそう言われると、何でも屋も夕食をとりながらその気になってきた。食べている間、膝の上で丸くなっている三毛猫も以前は模様も鼻の低さも好みではないように思えたが、素直で甘えたな性格は可愛らしくて、懐かれるとまんざらでもなかった。
明日は旅館に併設された猫カフェで保護猫について話を聞いて、時間があったら近くの観光スポットでドライブで青葉を見て帰る予定である。このご時世観光地をうろつくわけにもいかないので、夕食後にフロントで土産と缶ビールを物色して、何でも屋は部屋に戻って眠りについた。布団が妙に温かく安眠できたのだ。
その分、翌朝の目覚めは早かった。カーテンの隙間から朝日が差し込まない時点で薄めでもまだ外が真っ黒であることがわかった。何でも屋が瞼をこすりながらスマホの電源を入れると、まだ午前3時50分だった。ずいぶん早く目覚めたものだと思うと同時にスマホのある方と反対側に寝がえりを打った。
みぎゃ。
手の甲が毛皮を叩いた感触と鳴き声に驚いて何でも屋は飛び起きた。部屋の鍵は閉めたのだが、入るときにに足元を侵入して依頼人の三毛猫が部屋に杯込みでもしたのだろうか。そんな風に思いながら、眠気で重たい頭を振って部屋の明かりをつけた。
黒かった。
視界が黒い。見下ろした布団の枕元にいたのは、三毛猫ではなく赤い首輪をつけた黒猫だ。
ーどこからきた?
猫は、甘えるように這いつくばって移動して足にすりすりしてくるまだ小さい黒猫を見て途方に暮れた。
依頼人は8時過ぎに身なりを整えて起きてきた。黒猫と三毛猫に挟まれている何でも屋を見て少し眉を上げたものの、落ち着いた様子でお茶を淹れると何でも屋にもすすめた。
「今日はどうしましょうか」
「とりあえず、その子猫のことを聞いてみないといけませんね」
「そうですね。お願いします」
何でも屋は何となく一人で旅館の人に子猫のことを聞きにいく気がしなかったので、ひたすら依頼人が起きてくるのを待っていたのだ。明け方の午前4時からずっと。長い長い朝だった。
「うちの子じゃありませんねえ。お客様の猫”かも”しれませんから、調べます。こちらのカフェで少々お待ちいただけますか。紅茶サービスさせていただきますね」
無料で紅茶飲み放題というのは朝からありがたい。朝食のバイキングを食べそびれたのは気の毒だということで、フルーツの盛り合わせまでサービスしてもらった。
カフェといっても保護猫カフェ。獣臭も相当したが、何でも屋も依頼人も嫌な顔一つせずフルーツ盛りを平らげた。昨日夕食時にお互いが甘党であまり酒を飲まないことが判明していた。
「習慣を変えたのは人間の方だったんですね。うちの猫、いつもご飯を食べた後にお座りしてにゃあと鳴いてごちそうさまを言いに来るんです。子猫の頃はそれに感動して、毎回撫でてあげていたんですけど、朝5時とか眠くて。いつの間にかおざなりで、ここ1ヶ月撫でてあげなくなってたのかな?数日前に、撫でないからご飯あげても最近いつまでも朝鳴くんだと気づいたわけですよ」
依頼人の三毛猫はずいぶんと律儀な性格であるようだ。他に他にトイレをした後、必ずスコップに入れておく、皿からこぼれたごはんは食べないなどとても神経質な猫であることもうかがえた。その件の三毛猫は、未だ客室の中である。三毛猫の見合い相手を探しに来たのではあるが、いきなり鉢合わせて喧嘩しても困る。そもそも何でも屋の膝の上でくつろいでいる黒猫をまずどうにかしなければならない。あちこちいる保護猫たちと遊ぶ気はないようで、膝の上を自分の居場所とでも決めているような態度に何でも屋は居心地の悪さを感じていたが、無理やり下ろすこともしなかった。
「お泊りのお客様の中に、黒い子猫を連れたお客様はいらっしゃらないみたいですね。もっとも、子猫は小さいですからそっと持ち込まれて置いて行かれてもきづきませんけどね」
フロントから出てきた女将らしき着物姿の女性が困ったように顎に手を当てて説明した。
「そういうことがあるんですか」
依頼人が尋ねると、女将はそっと苦笑した。
「さてねえ。近所の野良猫が迷い込んだのか、あるいは捨て猫をお客様が見かけて連れ込んだのか、元々うちに置いていくつもりで持ち込んだのか、調べようがありませんから。去っていったお客様に口無しです」
なるほとそういうことがあるのだと納得しながら、何でも屋は依頼人と顔を見合わせた。
「そういえば、ここの猫はずいぶん綺麗な猫が多いですね」
何でも屋はこの際だと気になっていたことを聞いてみた。依頼人の猫の見合い相手探しのためにずいぶんと保護猫施設を回った何でも屋であるが、この旅館ほど血筋正しそうな綺麗な猫ばかりのところはなかった。
「ペットショップで売れ残った子を引き取っているんです。ちょっと足の悪い子もいますけどね。病気の子は少ないし、綺麗なもんですよ。うちは商売をやってますから、とっても子猫の面倒なんか見られません。大人の猫が病気になってもてんやわんやなんですから」
そう言うと女将常備しているらしい猫の譲渡用件を書いた紙を前掛けから取り出した。猫種について詳しく説明が書いてあるのは、なるほどペットショップから譲り受けた猫らしい。古い旅館は数年前に改装したらしく、二人が座っている猫カフェスペースは和モダンともいうべき洒落た雰囲気だ。女将が30代から40代と年若いので、きっと猫といい店の様子といい趣味が高尚なのだろう。聞けば旅館預かりの猫は30匹までと決めていて、引き取り手が出て空きが出なければ次の猫を預かることはしていないということだ。確かにそうしなければ、次から次に捨てられる猫がやってきて収拾がつかなくなりそうだ。
「うちはいまちょうどエイズキャリアも白血病の子もいないので、みんな元気なものですよ。このご時世でお客様が減っていなければきっとみんな貰い手がついているんですけどね」
女将は熱心にすすめてくるが、依頼人はなぜか気が乗らないようだった。ただ、ほとんとどの子か引き取るつもりで来て断るのも悪いと思ったのか、この旅館に元々来る予定だったオッドアイの白猫を飼っている知人の方にオンライン通話で連絡を取っていた。画面越しに猫を見ている相手の方は非常に乗り気で、可愛い可愛いと騒いでいる。というか、夫婦で今日家にいるなら何も依頼人にここの旅行券を譲らなくてもよかったようなものだがなどと考えながら何でも屋は膝の上の子猫を撫でていた。
外国種の猫たちは確かにしつけも行き届いて広い旅館で飼われているだけあってストレスもなく元気そうで可愛いが、人懐っこいノーマルな黒猫も悪くはない。
「ちょっと女将さん。また玄関先に段ボールで猫が・・・」
旅館のスタッフらしき人が持ってきた段ボールはずいぶんと大きく、好奇心に駆られて二人がのぞき込んでみれば生後1ヶ月は過ぎていそうな白い猫が一匹段ボールの深い底でにゃあにゃあ鳴いていた。
「困ったなあ。田中さんは、もう猫預かれないわよね?」
「うちは狭いアパートにもう猫3匹いますよ。他のスタッフさんも同じです。本当に困りますよ。勝手に捨てて行って・・・」
「いっそ、捨て猫お断りってでかでか看板出そうかな・・・。でもねえ。猫旅館だしなあ。実は今朝黒猫も1匹来たのよ」
女将が視線をやった先には何でも屋の膝の上でくつろいでいる子猫がいた。困ったなあと女将と旅館のスタッフの若い女性、それに心なしかフロントのスタッフもこちらに視線を向けて成り行きを見守っている気がした。
困ったなあ・・・困ったなあ・・・。その言葉の先は保健所?
「困ったなあ」
依頼人は苦笑しながらキャリーケースの中で行きと違ってにゃあにゃあ騒いでいる猫と膝の上の2匹の子猫に囲まれてちんまりと座っていた。
困ったなあと言われると何でも屋も困ってしまう。ミラー越しに依頼人を見るとあの旅館の女将と依頼人の表情がかぶってしまう。
「僕も暇ですから、仕事がない時には猫を預かりましょうか。その代わり、日中猫をたまに預かってもらえたら・・・別に。子猫2匹は大変でしょう」
依頼人の視線に耐えかねて、何でも屋は車を運転しながらつい言ってしまった。
「良いんですか?助かります。何なら、里親探しも頼んで良いですか?いきなり3匹飼う気はないので」
「わかりました」
金払いの良い依頼人だ。否やはない。しばらく依頼人は車窓を眺めていた。春の終わりしかも高速道路で見る雨の日の景色にたいして面白みはない。
「いっそ何でも屋さんがうちに住み込みで来て下さったら・・・」
ぽつりと依頼人が呟いた。
「え?」
「いえ、うちは男手がないから。ヘルパーさんも週通いだし。古い家だから、いろいろ不便なんですよ。なんというか今回の旅行で何でも屋さんなら気楽だなあと勝手に思ってしまって」
依頼人の言葉に何でも屋は苦笑を浮かべた。確かに二人で旅行に来ていて何もないのにいきなり同棲を想像したのは行き過ぎていたようだ。部屋が別れてさえいれば案外気楽なもんだと何でも屋も思ったのだ。しかし、いいですよと簡単に頷けるほど何でも屋は柔軟な思考の持ち主ではなかった。
「暇ですから手が必要ならいつでも行きますよ」
雨の道行をまっすぐ見ながら何でも屋は答えをはぐらかした。とりあえず、今回も猫の見合いは空振りに終わったようなので、依頼人との付き合いはまだ続きそうだ。

第7話 一人暮らしはコワクナイ


何でも屋は憤っていた。
今朝、久々に母に電話をした。近況報告でもと思っていたら、いつの間にか愚痴になった。
『気のせいよ』
は?
何でも屋の愚痴を母は切って捨てた。
『猫も飼って悠々自適の暮らしなんでしょ。疲れているなんて気のせいよ。じゃ、このご時世だから絶対帰って来ないでね』
母はすげなく言って電話を切った。
何でも屋は膝の上の子猫を撫でながら天井を仰いだ。身体がだるい。熱はないのだから、母の言う通り気のせいかもしれない。気圧の変化で頭痛がするのだろう。日雇いの駅前のチラシ配りの仕事など入れなければよかった。何でも屋の仕事は気が乗らない日は受けなければ良いが、事前に入れていた日雇いの仕事は当日キャンセルは面倒くさい。
飼い始めたばかりの子猫にとっては初めての留守番である。
(クロいのが寝ている間に帰って来られるだろうか)
心許ないが出かけないわけにはいかない。何でも屋は仕方なく膝の上の猫を下ろすと出かける準備を始めた。
「いやあ。ひどい雨だった。冗談じゃないよ」
滴を払いながら何でも屋は玄関先でぶつくさ文句を言っていた。黒いちび猫が来てから、何でも屋は無意識のうちに独り言が増えた。
雨もあるがチラシ配りの学生につい宣伝のつもりで何でも屋のことを話したことが尾をひいていた。
『買い物代行?それならUberEatesの配達の方が儲からなくないすか?』
日本語の怪しい学生風情に意見されたのが気に入らないが、考えてみればそうだった。だが、買い物代行のメリットもある。時間に追い立てられずに自分のペースで仕事ができるのだ。同じ出前や荷物運びなら、直接客の顔が見える方が安心だと思う自分の頭は前時代に染まってしまっているのだろうか。
にゃあ。
「はいはい。ちょっと、待ってくださいよ」
何でも屋は濡れた服を着替え終えると、玄関先に置きざりにしていたキャリーから依頼人の猫を取り出して抱え上げた。
そのとき。
にゃ。
ガーン。
という擬音が聞こえた気がしたのは、飼い主の欲目だろうか。黒い子猫は固まって何でも屋を見ていた。そっと三毛猫を下ろすと黒猫は緊張したままだったものの、威嚇したり怯えて隠れたりはしなかった。しかし、三毛猫も黒子猫もお互いには近づかず、ふんふんと鼻を引くつかせているばかりだ。
睨み合い状態の二匹を見て何でも屋はほくそ笑んだ。ポケットから透明のビニール袋を取り出してその中からガサゴソとおもむろに猫の手を取りだした・・・。
偽物の。
カチッとしたがつかなかったので付属の電池を入れて、何でも屋は仕切りなおした。
レーザーポインター?何でも屋にはよくわからないが、テレビで猫がこれを追いかけているのを見た時からちょっとやってみたいと思っていたのだ。
思惑通り、猫たちは初対面であることも忘れてドタバタと赤い光を追いかけ始めた。最近の玩具はよくできているもので、手元近くでは赤い二重丸に見えるが、少し離れた方へ向けると赤いネズミの形が浮かび上がってくる。猫は視力が悪いというから、ねずみの形まで認識できるかはわからないが、熱狂というにふさわしいほどの運動量である。人間の方が予想外に早くくたびれてしまった。
考えてみれば赤いねずみは生きていないのだから、それを動かすのは人間だ。猫たちが遊ぶ間人間はずっと片手を振り回し続けねばならない。
黒子猫はすぐに気分を変えたようにご飯を催促し始めたが、哀れ目つき鋭い三毛猫の方は狩猟者の気分が抜けず食事もそこそこに赤い光が消えたあたりにじっと居座っていた。それは人間の方が食事を終えても続き、可哀そうになってまたしばらく遊んでやったが、光が消えるとまたそこでじっと待っている。飽きて三毛猫の尻尾にじゃれつき始めた黒いやつとは対照的な忍耐力と執着心である。
その玩具のおかげで何でも屋の意図した通り猫たちが初対面で牽制し合うことはなかったが、黒子猫と一緒に何でも屋の布団の上に乗りこんできた三毛猫は豆電球だけのうすぼんやりオレンジ色をした部屋の中でまだあの赤いネズミを探すように虚空をじっと見つめていた。
果たして三毛猫がそれほど赤いネズミに執着し追い続けるのはそれが楽しいからだろうか。あるいは、獲物を仕留めるまではどうしても生きた心地のしない悲しい狩猟生物の性なのではないだろうか。それを成し遂げなければ自分の生命が脅かされるというような本能的恐怖によって赤いねずみを命がけで追い続けるのだとすれば本当に気の毒なことをしたと面白がって人工のねずみを与えた自分を何でも屋は芯から反省したのだった。

第8話 猫探しはコワクナイ


何でも屋が子猫を飼い始めて1ヶ月が経った。名前はまだない。いや、最初は世間で人気の名前にしようと思ったのだ。しかし、せっかく黒猫なのだから、見た目に合う名前にしたいと思った。
某アニメの猫のキャラクターのような"クロ”という名前にしたら、脱走したときに他の猫と区別がつかないかもしれない。飼い猫じゃなくても、クロクロと呼ばれている野良猫がいたら振り返ってしまうかもしれない。今は子猫だから良いが、大人になって他の黒猫と区別をつけられる自信が何でも屋にはなかった。
とはいえ、他人に預けるならそろそろ名前が必要だろう。何でも屋は、いつも贔屓にしてもらっている依頼人に頼まれて、猫の捜索をすることになっていた。いわゆる猫の探偵である。そういう”同業者”の知り合いがいると依頼人に紹介され、猫専門ではないつもりだがとりあえず会って話を聞いてみることにした。猫の捜索に10日で20万円以上!金額に驚愕したが、交通費や宿泊費や捕獲機など諸々の経費で聞いてみればそれなりにお金がかかることが分かった。確かにホテルに9泊なら、朝食付き1泊4000円のビジネスホテル4万円弱かかってしまう。今度依頼を受けたところは九州なので、格安航空を使っても往復だけで4万円弱かかるのだ。それに食費に通信費、他の仕事に時間をさけないわけだから、10万円以上にしなければ赤字になる。しかし、一つの仕事に10万円以上請求する勇気がないと相談したら、依頼人の方から新規の依頼人に相場で希望の金額を聞いてみると話してくれた。延長4日まで無料の20万円。儲かるのかどうか微妙なところだが、お金をかけずに遠出ができると思えばよいのかもしれない。しかし、ビジネスホテルに猫を連れてはいけない。ペットを飼うと、遠出を手放しに喜べないものである。子猫を連れていくなら、余計に高く代金を請求しなければならなくなるから仕方がないのだが、それなら、知り合いの旅館に無料で泊めさせてあげるという依頼人の好意に甘えてしまう気にはなれなかった。このご時世、旅館の経営だって苦しいはずで、タダで居候するのは気が引ける。この際、今後同様の仕事を引き受けることもあるのかもしれないのだから、できるかぎりの経験を積んでおくに越したことはない。猫探しについては素人ですよというのは向こうも了解済みである。
まだ、飼って1ヶ月でいきなり10日の留守番である。留守番というより、依頼人の家に預けるのだが、その間に誰が飼い主か忘れられてしまいそうだ。とはいえ、猫と自分の食い扶持を稼ぐためである。
とりあえず、自分と頃の猫で猫探しの練習をしようと試みた。
「おーい、出ておいでー」
声をかけたが、何分一人住まいには広すぎる親戚からの無料の借り一軒家なので、どこにいるかわからない。というか、大抵その辺に転がっている箱の中で眠り込んでいるのだ。寝ている間は声をかけても返事をしないと決めているようだ。それはそれでヒントにはなるのだが、探し猫は飼い猫10年のキャリアの持ち主で名前もある。せっかくならとカクレンボの要領でやろうと何でも屋がまずは隠れ役になってみた。
猫にとっては大迷惑で、起きたらご飯が用意されていなかった。にゃあにゃあ鳴くがごはん係の姿が見えない。飼い猫の気持ちも知らず、チビクロが悲し気に泣いて近づいてきたタイミングで、バーンと何でも屋が飛び出してみた。
子猫はびっくり仰天である。手裏剣を投げられた忍者みたいに後ろに飛び退ってひっくり返った。何でも屋の方も子猫の驚きようにびっくりである。その日はよそよそしくなった子猫のご機嫌を取ろうとご飯の後には、猫が飽きるまで3時間ほどボール遊びをしてあげて後悔いっぱいで寝てしまった。
ところが、翌日の朝には子猫の姿が見えなかった。昨日驚かせたせいで嫌われたかと家中探し回ること数分、諦めて戻ったベッドの下から子猫が飛び出してきた。何でも屋は大して驚きはしなかったが、心配していたので心からほっとした。抱き上げて撫でてやれば子猫はいかにも得意げである。その日は買い物代行の仕事に出かけるまで、頭隠して尻隠さずの子猫とのカクレンボが延々と続き、新しい遊びを発見した子猫は大満足していたが、飼い主はくたびれ果ててしまった。
しかし、仕事から帰ってその日の夜に眠りにつく時には、ケージの中でジタバタ暴れる子猫を見ながら、この楽し気なやつを置き去りにして出稼ぎに出るんだなとなんとも言えず寂しい気持ちになったのだった。

第9話 何もしないのはコワクナイ


何にもしたくなくなる時がある。それでも朝が来て、子猫にたたき起こされる。いや、最近は猫も気を遣っているのか、以前のように朝4時ごろににゃあにゃあ鳴き叫ぶことはなくなった。ただ、枕元で無言の圧をかけて朝の6時ごろまで待っている。たまに髪の毛をちょいちょいと弄ばれていることには気づいているが、意地になって何でも屋も6時前後までは何が何でも起きないぞという気になっている。
生後5か月くらいを迎えて子猫はずいぶんと大きく賢くなった。胴が長くなって体重は2キロの半分を超えた。いつでも抱っこを喜んで肩に飛び乗ってきていたのに、車を警戒し、お出かけを嫌がる。それなのに、人間を起こして遊びたがる。庭には脱走したがる。雨の日以外一日中網戸にしている窓からじっと庭の草木を見ている。かと思えば、当然のように何でも屋の膝に座り、立ち上がってトイレに行くこともできなくなる。
黒猫さえいなければ、何でも屋は一日中寝ていられる。仕事だってさぼれる。だが、子猫に毎朝ごはんをあげなければいけない。遊んであげなければ悲しそうにこちらをじっと見ている。何にもしたくない。それでも猫とは遊んであげなければならない。犬の散歩など雨の日でも合羽を着せて出かけている人を見ると尊敬する。猫がご飯を食べれば、人間もご飯を食べなければならない。ご飯を食べれば排泄をする。人間がトイレに行けば猫もトイレに行く。
猫のトイレの片付けのために、何でも屋は新聞を買うようになった。最近はエコバッグの時代だから、ビニル袋をそんなにもらわない。コンビニで買ったものは大抵手づかみで店を後にする。雑誌は今の生活では分不相応な高額な買い物である。代わりにインターネットの線は引いている。大して読むわけでもないのに、猫のうんちの片付けのために、新聞を買うなんていささか以上にもったいない。けれども、猫のうんちの片づけは新聞以上に如くものはないと何でも屋は考えている。
「置き型のレーザーポインターを置けばいいんじゃないかと思うんです。でも、4000円以上するおもちゃなんて猫にもったいないかなって思ったり、そう言いつつ、猫の爪とぎには結構4000円と言わずお金をかけてきた気がするんですけど」
猫飼いの悩みは同じである。置き型ではなくとも、すでにペンライト型を何でも屋は持っている。それで依頼人の猫を遊ばせたこともあるのだが、何となく言い出せなかった。子猫に起こされるたびに人間生活の鬱陶しさを感じるが、お世話になっている常連の依頼人に礼を欠くわけにはいかない。今、野垂れ死んだらきっと目の前の依頼人には迷惑をかける。何しろ月水金で依頼人の家を訪ねているのだ。来なかったら、依頼人の方でわざわざ出向いてくる可能性がある。
「今の餌食いつきが悪いなら、うちの子ようにもらいますよ。うちの猫好き嫌いないですから。その代わりと言ってはなんですが、まとめ買いしすぎたおやつを少し持っていってもらいたいですね。そちらの持ってくるのは今度で良いですから」
依頼人はうまいことこちらが再度訪問するための用事を作ってくれる。ほぼ2日に1回夕飯のおかずとか人間用のおやつとかをもらうので、何でも屋は彼女と知り合ってからおやつや夕飯に事欠くことがなくなった。それでなくとも、彼女と話すひと時は今の何でも屋にとって人間らしい唯一の営みといえた。彼女の家に来ると子猫はいつも興奮気味で、三毛猫を構い倒している。三毛猫はあまり愛想よくはしないが、寝転びながら、少しはじゃれ合ってくれていた。その三毛猫を子猫はぴょんぴょん飛び越えて反復横っ飛びをしている。
「そういえば、うちの猫、動きが力強くなったんですよ。1歳半になると身体が出来上がったんですかね」
依頼人がそういってボールを投げて寄越すと、それまで子猫に形ばかり付き合ってごろりと横になっていた三毛猫は後ろ足で2本立ちになって利き手の右手でボールを打ち返した。流れるような見事な動きだった。全く無駄がなくバタバタしていない。そのままの姿勢でたまたま飛んできたハエを両手でそっと捕まえた仕草も綺麗だった。飼い主の真似なのかもしれないが、ハエ一匹にいらぬ丁重さである。そのために三毛猫が前足を下ろすと同時にハエはふわふわと逃げて飛び立っていった。それを目で追いかけながら、三毛猫は一仕事おえたとばかりにハエが触れてもいない腹毛を丁寧に毛づくろいした。そして、褒めてほしいとでもいいたげに飛び上がって何でも屋の膝を踏み台にして、依頼人の膝の上に飛び乗った。
見事な跳躍である。子どもの頃に見たアニメに出てくる猫の動きのごとくで、力強いというよりしなやかだ。身体が弱かったという割に平均以上に体長がありそうな三毛猫なので、確かに身体がたくましくできているのかもしれない。
「黒猫のオスならもっときれいに飛ぶんでしょうね。これから大きくなるのが楽しみですね」
三毛猫を撫でながら依頼人が言ったらが、力強く踏みつけられた何でも屋の膝は爪を立てられて鈍く痛んだ。去勢したばかりの黒猫は確かに毛艶もよく、大きく健康的に育ちそうである。月夜をバックに長く跳躍する姿を想像して何でも屋の口の端は上がった。
「子猫から育てるのは初めてなので、そういう楽しみがあるって良いですね」
子どもの頃拾ってきた猫はいつもどれも怪我しているか、弱っているか老猫であった。賢い猫が多かったが、別れはいつも早かった。猫の先行きを愉しみにするなんて初めてである。子どもの頃は、朝起きたら猫が冷たくなっていないかと怯えてばかりいたのだ。それでいて、猫の飼い方などちっとも調べはしなかった。苦い記憶とともに、爽やかなレモンの香るアールグレイの紅茶を何でも屋は渋く一気に飲み干した。

第10話 珍しい猫はコワクナイ


何でも屋は、何でも仕事を引き受けるわけではない。これまでそれについて説明をする機会はなかったが、今後は新規の依頼人に対してはまずそのことを言わなければならないと何でも屋は思った。
「ダイクロイックアイの猫を探しているんです。オッドアイの猫でも引き取ります」
年齢は何でも屋と同じか少し上くらいだろうか。薄くなった髪を綺麗に整え、身なりもよかった。待ち合わせのハンバーガーチェーン店が似合わないくらいには実入りの良い仕事をしている人間に見える。とはいえ、今は会社トップでもユニクロなど量販店のメーカーの服に身を包み、そこらへんの青年みたいにしている人も増えているようだから、高いスーツで判断はできない。
ただ、洋種でなくて良いからと目の色だけにこだわって60万円、他にほしい人がいる場合その人より高値で買うというくらいだからそれなりに金があるには違いない。
「ダイクロイックアイですか・・・?それは、かなり珍しいですね」
何でも屋は慎重に答えた。実は何も知らない振りをしようかと思っていた。最近ちょうどそんな猫を見たばかりだったのだ。一つの目の中に二つ以上の色を持っている猫。中でも何でも屋が見たのは綺麗にイエローとブルーで綺麗に左右の色が割れている猫だった。さらに言えば、そういう目の色が複数混ざっている猫は白猫が多いらしいが、その猫はパステルカラーの色の薄い三毛猫だった。
子猫だったせいか以前、猫の見合い相手候補だったオッドアイの白猫を見た時のような怖さは感じず、ただ可愛らしく見えた。瞳は確かに神秘的で、まるで色の混ざったガラス玉のようだった。
欲しいという気持ちはわかる。わかるけれども、珍しい目の色の猫を集めていると言われれば、何となく何でも屋はそのあり方に抵抗を感じざるを得なかった。
「オッドアイの猫を10匹飼うのが目標なんです。いえ、トータルじゃなくて今生きてるのを並べて10匹です。猫には贅沢な暮らしを保証します。最高の環境で宝石のような瞳の美しさを最大限に引き出して愛でたいんですよ」
依頼人の男は汗かきらしく、冷房の効いた店内で終始額と前髪をハンカチでぬぐいながらそう語った。
「しかし、私には探す当てがないんですよ」
何でも屋は飲みなれた酸味のするコーヒーで心を落ち着かせながら淡々と答えた。白猫についてもめていた新婚夫婦は今更金に釣られて猫を手放すことはないだろう。ダイクロイックアイの三毛猫もその保護猫施設ではわざわざ奥に隠されており、大人になってからという条件であればということで何でも屋に特別に見せてくれたのであった。
何でも屋は、もう半年もとある女性から猫の見合いを頼まれている。なかなか運命の出会いがなく、その常連の女性は『珍しい猫でもやっぱりまずはオス猫で考えたいからやめときます』とその珍しい猫を辞退してしまった。『そういう心根の人にぜひ引き取ってもらいたんですよ』と保護施設の責任者は大層残念がり、何でも屋の方で引き取らないかと持ち掛けてきたが、見合いの依頼人のような金のある家ならともかく、希少な猫を飼っても十分な防犯設備を整えられないからと辞退させてもらった。
眼の色が珍しくても中身はいたって普通の猫、例えば今後もし重い病気を患っていたら、その治療費だって馬鹿にならないのだ。移るような病気であれば、今飼っている先住猫と同室では暮らせない。依頼人の男が自慢たらしくみせてきた8匹のオッドアイの猫たちは毛艶もよく可愛らしい首輪をして何不自由もなさそうで、こんなところに引き取られていた方が幸せだったろうになと家で待っている黒いちび猫を思い出して何でも屋は自分を惨めに感じてしまうばかりだった。
「白っぽい猫ばかり8匹なので、首輪ですぐ見分けがつくように飾りを大きくしているんです。男がみっともないと思われるかもしれませんが、名前の方はシンプルに目の色で読んでいるんですよ」
男は気恥ずかしそうに言った。確かに人間の子だって8人も名前を考えるのは大変だ。それが猫8匹を自分で考えて名づけるなんて真面目に考えるほど面倒くさくなりそうである。ブルーヘーゼル、イエローブルー、ヘーゼルゴールド、カッパーイエロー、ゴールドブルー、イエローヘーゼル、カッパーブルー、グリーンカッパー。わざわざ首輪に名入れまでしてある徹底ぶりだ。そんな長い名前で1匹ずつ呼んでいるのかとつい好奇心に駆られて彼が聞くと、当然短く短縮して呼んでいるという返事が返ってきた。ブル、イーブル、ヘッド、カッパロー、ゴルドール、イグ、カーブ、グーパー。ー短縮した名前と両方覚える方が余計に手間のようであるが、そういう手間のかけ方も男の愛情表現の一種なのだろう。
男の熱意はわかったが、とはいえ何でも屋は依頼内容にあまり惹かれなかった。
「これまでもご自分で探してこられたのでしょう?当てのない私よりもやはりご自分でこれまで通り探された方がよいのではありませんか?」
出来ればこの場で断ってしまいたいと思って、コーヒーをすすりながら上目遣いに依頼人を見ると、依頼人は困った顔をして手をもぞもぞさせた。
「私は仕事で1年の3分の1は海外におりまして、これまで猫の面倒を見てくれていた妻と数か月前に離婚して出ていかれたばかりなんです。通いの家政婦さんが猫好きでこれまでオッドアイの猫を探してきてくれていたのですが、その彼女も旦那の転勤とかで後半年で来てもらえなくなるんです。新しい方とこれまで来てもらっていたもう一人と家政婦が二人いますが、男の一人住まいは味気なく、どうしても猫の瞳の色を早いところ集めて楽しく暮らしたいと思うようになったんです。男の一人暮らしは保護猫だと引き取るのに審査の時間もかかりそうですし、買った方が早いんですが、あらゆる手をつくさなければ理想の猫に会える確率は低くなるでしょう。なんでそんな不思議な色の目になってしまうのか毎晩考えながら幸せに寝て暮らしたいんですよ」
依頼人は饒舌だった。何でも屋は結局その場では断り切れず、交通費と相談料代わりと言われ1万円をもらい、賑やかな店内を後にした。
「神秘の瞳か」
何でも屋は深夜テレビを見ながら黒猫を膝に抱えて今日の依頼人のことを考えた。ダイクロイックアイは神秘的である。調べてみると我が家の猫がダイクロイックアイであるとSNSに写真をあげている人もいるようだ。今はSNSで住所を特定できる世の中なので、珍しい猫を盗まれる原因になりはしないかと老婆心ながら心配になる。それでなくとも、何でも屋の黒いのが庭に脱走した回数は一度や二度ではない。首輪をつけようかと何度か考えたが、それはそれでノミやダニが体につく原因になると聞いて躊躇していた。そもそも男一人で猫の首輪を買いに行くのが恥ずかしい。常連の依頼人にもらおうかとしたことがあるが、そこの三毛猫が首輪をしていなかった。猫にノミダニ駆除の首輪をつけたら、首に農薬をつけているようなものだと言われてから、何となく普通の首輪もしなくなったということだった。黒いのに名前をつけてもらおうと思うが、何でも屋がいつまでも名前をつけないので、もはや彼女の中ではクロちゃん呼びで定着している。良い名を思いつかなければもはやそのままでいいかもしれないと思い始めていた。名前を思いつかなくって・・・。
名前だけでなく黒いのの目の色も今日の依頼人に会っているときに何でも屋は思い浮かばなかった。多分黄色だよなと思いながら膝の上の猫の目の色を確かめようとするが、猫は膝でずっとうとうとしている。朝晩は黒目がまん丸でその周りの色があまり意識されないし、昼間は猫は目を閉じてぐっすり寝ている。目の色なんてどうでもよいと思いつつも気になったので、一緒に布団に来た猫をふいうちで膝の上で仰向けにして抱っこすると、抗議するみたいににゃあと鳴かれた。そうやって確かめた猫の目の色は、黄色に少し緑がかっているようだった。生後半年は経ったので、子猫のキトンブルーが残っているということもないだろう。黒猫ならまっ黄色だと決まっているのかと思っていたが、そうでもないということのようだ。何なら銅色でもかっこよかったかなと他愛もない夢想をする。しかし、そこで思考は少し脱線し、あまり綺麗な珍しい目の色の猫だと昔の日本なら目をくりぬかれてコレクションされていたのだろうかという疑問が生じた。猫の毛皮で三味線を作っていたくらいだ。その猫の肉は昔なら食べていただろうし、猫の扱いは畑の役に立つ牛馬以下だったという話も聞く。ダイクロイックアイはないにしてもオッドアイの人間などかつてはどんな扱いを受けたのだろうか。古代や中世の欧州では魔女扱いでもされたのか・・・。想像するとぞうっと背筋が凍ってきて、何でも屋は考えるのをやめにした。
珍しいダイクロイックアイの猫探しの依頼。報酬は悪くない。けれども、猫の目の色なんて何でも良いかと日が経つうちにますますどうでもよくなった何でも屋が連絡をしなかったため、その依頼人からも再度依頼の連絡がくることはなかった。

第11話 猫1匹暮らしはコワクナイ


いつか誰しもが空に旅立ち、大地に還るのだろう。
何でも屋は一匹の猫を飼っている。黒猫でもう生後半年を過ぎた。子どもの頃に家で猫を飼ったことはあったが、子猫から育てるのは初めてである。初めは親しい依頼人に育て方など助言をうけていた。しかし、助言も何もいらぬほど子猫は順調に育った。
依頼人の女性に言わせれば、何でも屋の猫はかなり手のかからない猫らしい。
「いつでも抱っこさせてくれるなんて羨ましいです。そんな猫いませんよ」
そうだろうか。しょっちゅうまとわりついてくるので、何でも屋は猫を自分から退かすのに抱っこする癖がついていた。肩に乗ってきて爪を立てるので、おかげで真夏だというのに部屋の中でジャージを着るようになってしまった。部屋のエアコンは一日フル回転である。
依頼人の家に来ると、電気代の節約だけでなく、猫の餌代の節約になる。猫の餌などそれほどでもないが、何分収入の安定しない仕事であるので、できるだけ節約して貯金しておきたい何でも屋だ。週に2・3度も通っているので、依頼人の家にはいつも子猫用の餌が常備してある。さらに、今回は老猫の餌も加わったようだ。
「まあ、歳を取ってくればずいぶん猫も穏やかになって寝てばっかりみたいですけどね」
依頼人は何でも屋が手土産に差し入れた葛切りを口にしながら、器用にもう片方の手で膝の上の白足袋を履いた猫を撫でた。もう20歳近いというその老猫は、何でも屋とこの屋敷の主人である依頼人が部屋に入ってからずっと彼女の膝の上を陣取って寝こけていた。本来この家で飼われている方は、しょっちゅうお邪魔している何でも屋の猫と戯れていて、新たな猫の居場所など気にならぬようだった。いや、依頼人に言わせればこの家の三毛猫は賢いようだから、老猫に気を遣っているのかもしれない。
「その猫を引き取るんですか?」
何でも屋は自分も葛切りを口にしながら、迷った末にお中元を理由にこの家に来てよかったと思った。もう3・4日もメールで連絡がないのをおかしいと思って訪ねたら、彼女は困った事態になっていた。
「さあ、どうしましょうか。何でも屋さんに他に引き取り手を探してもらってもいいのかなと悩んでいたんです。・・・本当に、2匹いれば寂しくないなんて誰が言ったのか」
依頼人のその言い方に、何でも屋は少し不安になった。老猫を預かった"事の経緯"から考えれば、今の彼女の心境は理解できるものだったが、「2匹飼うことに不安を覚える」という彼女の科白を聞けば、そのまま彼女が猫の見合いの依頼を取り下げてしまうのではないかと思われたのだ。しかし、何でも屋の心配をよそに彼女がそのことについて言及することはなかった。
「何でも屋さんが飼うのはどうですか?いざというときはクロちゃんと一緒に私が預かりますから」
依頼人が期待を込めて何でも屋を見たが、彼はただ首を振るしかなかった。
「うちのはまだ生後半年ですよ。元気いっぱいだし、とうてい老猫では付き合いきれないでしょう。それに仲良くなったとして、せいぜいあと数年で死んでしまうとすれば、やはり、話に聞く通り、2匹だと残された方が可哀そうだ」
何でも屋が正直に言えば、依頼人も考え深げに頷いた。
その老猫は、最近まで賑やかな子ども3人の家族に飼われていた。しかし、その家で飼われていたもう一匹のキジ猫が死んでしまうと明るい家族の姿は激変した。老猫は元々人間よりも猫が好きな猫だった。若い頃保護施設に保護された時は、乳飲み子を抱えており、自分が生んだ以外の猫にも母乳を与えて育てるほどの甲斐甲斐しさだった。施設を出てその家族の家に来た時には何日もケージから出てこないほど警戒していたが、先住猫のキジ猫が受け入れてからは人間には触らせなかったものの家の中で自由に行動するようになった。そのやんちゃぶりはすさまじく3歳を超えた成猫とは思われぬほど、家じゅうの壁をひっかき、暴れまわり、夜中に走りまわっていたらしい。それでもそのキジ猫に倣って、いつしか人間のそばによって寝そべるようになり、風呂にもいれられ、ブラッシングもされ、爪とぎにも慣れ、抱っこが大好きになった。しかし、キジ猫が死んでから、食欲が落ち、家の中を徘徊し、夜鳴きをするようになってしまった。不幸なことにそのキジ猫が死んだ時期とその家の長男が大学受験に失敗して浪人した時期と重なった。また、その家の長女もその年高校受験を控えており、受験生二人を抱えた母親はナーバスになり更年期障害もあって躁鬱の病を発症した。喧嘩する兄姉と発狂する母と・・・その喧騒から逃れるかのように中学生の次女はたびたび家出騒動を起こし、弱った父親はとてもその老猫の世話まで手が回らないと困って猫を預けられるところを探し、巡り巡って依頼人のところに老猫がとりあえずお試しという形で預けられることになったのである。保護施設に預けなかったのは、また人間に慣れなくなったら困るということを危惧してのことらしい。相棒を失い、家族の喧騒のストレスが祟ったのか、老猫は腎臓病を発症していた。
「あんまり食べないし、水も飲まないから、おしっこを垂れ流すとかはないんです。おむつも必要ないほどで。でも、ただ日々寂しそうにしている猫をうちで引き取る意味があるかなって。うちで死んで幸せかなって考えちゃいますよね」
依頼人の言葉に何でも屋は同意のために頷くほかなかった。新しい家でただ死を待つかのごとく、眠りこける猫にとって、たとえ以前の姿と変わってしまったとしても、以前の家を離れてしまったことは健康のためによいことだったのだろうか。
「さらに新しい預け先を探すより、元のところに話を聞きにいってみましょうか」
その日、半日相談して、何でも屋は老猫の家族に話に行くことに決めた。依頼人は先住猫のいない引き取り手を探した方が老猫の負担も少ないのではないかと考えていたようだ。しかし、それならいっそ元の家に戻ってもいい話である。依頼人のようにほぼ家にいて、猫に慣れていていつでも抱っこされて裕福で快適な環境にいながらも痩せ細っていくばかりなのだから。
突然見知らぬ男が訪ねて来て警戒されるかと思ったが、依頼人が事前によく話してくれていたようで、思いがけずその家の父親から歓迎された。
「うちの中はずいぶん荒れていたように思っていたのですが、むしろ私が完璧を求めすぎていたようです。お客さんにはお見苦しいかもしれませんが、少し散らかったくらいのこの家にも慣れました。不自由なら私が掃除すればいいだけですし、最近は次女も掃除をしてくれるんです。長男は予備校の寮に入って、妻も少し落ち着きました。ここだけの話、長女が絶対推薦で早めに高校に受かるから猫を連れ戻してほしいと泣いて懇願されたんですよ。いつも引っ掻かれて傷だらけになっていましたし、猫を部屋から追い出していたから嫌っているとばかり思っていたんですが、どうも喧嘩友達というか長女が一番あの猫を大事にしていたらしいのです。連れ出していくときは意地を張っていたものの、いなくなって寂しくてどうしようもなかったんでしょうな。猫にとっては、たった一匹でこの家で暮らすよりもよその家で他の猫と暮らした方がいいのだろうかと、私も長女にどう答えたものか悩んでおりまして」
父親の話に頷くこともなく、何でも屋は出されたコーヒーをすすりながらただ聞き入った。父親はちょうど話し相手が欲しかったようだ。散らかっていると言われたが、その家の居間は何でも屋からすれば考えられないほどものがなく、整っていた。子どもがいるのにそれで散らかっているというのであれば、確かに父親は神経質な性質なのかもしれない。片隅にみられるコロコロや塵取りなど掃除道具は猫の毛を取るためのようだ。何でも屋は、『二匹で飼えば寂しくないなんて、だれが言ったのか。残された片方は、結局寂しくなってしまうのに』という、依頼人の言葉が思い出された。
「猫がいなくなって家族が寂しいなら、猫を戻した方がいいでしょう。猫にとっても長年暮らした慣れ親しんだ家族なんですから」
老猫は相棒に先立たれて心に傷を負ったかもしれないが、猫に先立たれた人間もまた少なからず心に傷を負うのである。だからといって、人間が寂しさを埋めるために次々と家族を変えることはない。そういう人間もいるかもしれないが、少なくともこの猫の家族にとってそれが得策だとは何でも屋には思えなかった。
「迎えに来てあげてください。今も穏やかに暮らしてはいますが、きっと待ってます。喜ぶと思いますよ」
何でも屋が言えば、父親は少し涙ぐんだようだった。出されたコーヒーが少ししょっぱくなったように感じた。

第12話 老猫はコワクナイ


何でも屋は、月に1回依頼人が病院に行く日に猫を預かっている。預かるといっても、彼女の家に行くので留守を預かる形だ。依頼人は通院の日に髪を切ったり甘味を買ったりあらゆる用事を済ませてくるのでいつも帰りが遅い。
お手伝いさんもいて、3食には困らないが、屋敷の主人のいない家で1日を過ごすのは、何だか落ち着かない。普段彼女とお茶しているときには、彼女が食べきれなかったおかずをご相伴にあずかるくらい図々しいというのに不思議なものだ。
依頼人の屋敷は二匹と一人には広すぎる。一軒家に一匹を一人で暮らしている何でも屋がそう思うぐらいだ。東京の郊外にこんな自然に囲まれた屋敷があるなんて何でも屋は思っても見なかった。森の奥、どこか人里離れたこの場所には、何軒か家もあって、バスまで留まるのには驚いた。生活には何の不便もない。おかげで何でも屋はしょっちゅうこの依頼人の屋敷に来ている。
その日、出かける前に彼女から頼まれ事をした。いつも予定や都合を聞かれるのだが、その時は有無を言わせぬという感じなのが少し気になった。
「猫を飼えなくなった女性がいるんです。明日、その人から猫を引き取りに行ってもらえますか」
何故飼えなくなったのか事情を説明もされず、住所と連絡先を渡された。忙しい身でもないので、いつだって彼女の依頼を優先するつもりだが、ただでさえ愛想のない彼女の声がいつも以上に平坦なのが気になった。
翌日、何でも屋は依頼人の地図を頼りに猫を引き取りに行った。似たようなアパートがたくさんあって、迷いに迷ったすえ、汗をかいてしまった。このアパートの部屋の号室であっているだろうかとドキドキしながら待っていたら、扉が開くと同時に外以上の熱気が何でも屋の顔を襲った。
「どちら様でしょうか」
「依頼を受けて猫を引き取りに来たんですが」
何でも屋が簡単に玄関先で事情を話すと、部屋に住む高齢女性は最初は面食らった顔をしたものの、部屋に上がるよう言った。外より熱気でむんむんしていそうな部屋の中に入るのはためらわれたが、台所を抜けると、居間の中は冷房が効いてずいぶん過ごしやすくなっていた。
しかし、ひやりとした冷気を感じてほっとしたのもつかの間、シャーッという猫の威嚇の声がして、さっと足を引っ掻かれてしまった。
「こら!ごめんなさいね。他人をあげることなんてないもんですから、人見知りみたいですわ」
1LDK一間の小さな家の住人の女性の話し方は殊の外上品でおっとりして、自分の飼い猫が客人を傷つけたことに慌てもしないどこか浮世離れしたところを感じさせた。
「あの子が、あなたにお願いしたんですか?あの子は最近・・・いえ、ちょっと病気をしまして、入院することになりましたから、それで猫の引き取りをあなたに頼んだんでしょうね」
途中で言葉をきった先は、依頼人の近況を聞きたいようだった。依頼人は病院通いをしている。命にかかわるものではないと聞いているが、持病で病院通いが続いているのに、元気にしてますよと答えるのも違う気がした。
「そうだったんですか。それで、猫はどこか保護団体に預ければよろしいですか。しばらくだったら、私が預かりますよ」
依頼人の近況をどう伝えるべきか分からなかったので、何でも屋はとりあえず必要なことを聞いた。肝心の猫は部屋のすみで警戒しているのかどうか丸くなっていて、何でも屋が飼っている黒子猫と相性が合うかは未知数だ。
「え?あの子が引き取ってくれるんじゃないですか?」
女性に当然のように言われ、何でも屋は答えに窮した。どうこたえるべきか迷ったが、とりあえず引き取ってこいと言われたのだからと、「そういえばそうですね。とりあえず、どうするか聞いてみますか?」と依頼人にその場で電話することを提案すると、女性はそこまでしなくて良いと断った。
「引き取るというのは引き取るってことでしょうから、確認はいりませんよ。ただ、うちの猫は暴れん坊で手がかかるから、持て余さないかしら。本当は猫なんて飼うつもりなんかじゃなかったんだけど、居座られてしまったんです。私の弟に頼んだんですけど、引き取ってくれなかったみたいですわ」
女性の口ぶりからすると、彼女は依頼人の母親のようである。しかし、依頼人のあの維持にお金のかかりそうな屋敷でのお金に困っていなそうな暮らしぶりからして、女性の部屋も身なりもあまりに質素だ。ただ、女性の顔立ちには血縁を思わせるところがあるし、雰囲気も何となく似ている。依頼人の方がもっとざっくばらんな感じだが、女性は少し歳を重ねているせいか、言い回しが思わせぶりである。
娘に頼まず、猫を弟に頼むということは離婚でもしたのだろうか。娘との関係性がよくないのか。気にはなったが、話さなかったということは依頼人が詮索されたくなかったのかもしれないので、何でも屋は何も聞かないことにした。
女性の猫は確かに警戒心が強いようだった。何でも屋が近づくと、シャー威嚇する。それでも、何でも屋は最近かの動物王国を作った動物学者の先生の本にはまっていて、きっと捕まえられるはずだと信じて、しばらく女性の部屋に居座らせてもらうことにした。女性に捕まえてもらってキャリーにいれてもらえばよいのだが、触れもしない猫を持ち運ぶのはなるべくなら遠慮したい。
女性に寄ると猫は雄で、この2階建てのアパート周辺を縄張りにしたボス猫だったということだ。洋種の血が濃いのか、毛足が長く目が青く見た目が良いので近隣住民は飼おうと努力して餌付けしていたようだが、どうしても人前で餌を食べず、誰の手も受け入れない孤高の猫だったらしかった。それが、たまたまアパートの前の駐車場のある前庭で女性がふらついてうずくまっていたら、そのボス猫がすりすりと体をこすりつけてきた。その時はその猫がまだそんな怖い猫だと知らなかったから、猫に懐かれたのが初めてでうれしくなって撫でてやったら膝に飛び乗ってきた。どうしようかと迷った末、膝から無理に下ろすのもかわいそうで、アパートの裏手に回って、1階の彼女の部屋の縁側の窓を開けて、そこでしばらく抱っこして一緒にひなたぼっこしていた。それがよくなかったのか、ボス猫はその日から彼女の部屋の前に毎朝毎晩現れるようになった。餌はやらないつもりだったが、それを見た近所の人から差し入れられた。
「絶対懐かない猫だと思っていたのにうらやましいわ」
周囲にうらやましがられても、猫など飼ったこともないし一人暮らしで面倒みられるかも不安だ。けれども同じアパートの住人が勝手に大家に猫を飼う許可を取り付けてしまった。いきなり大家から電話がきて、「近所のアイドル猫を懐かせるなんてすごいですね」と言われて、初めてその猫がそんな凶暴猫だったと知った。女性は諦めて、その猫を飼うことにしたが、初めは慣れなくて、しばしば猫を脱走させてしまった。そして、猫は1度大けがをして帰ってきた。推定3歳の元気盛りのオス猫でも噛まれることがあるのだと女性は驚いた。ただでさえ皮膚病を患っていたのに、さらに病院代がかさんだ。風呂にいれるのも大仕事で、薬を塗るのも、ブラッシングも大変だ。猫は腹に毛玉を溜めてしまうというが、その猫は自分で毛づくろいをほとんどしなかったのだ。
ある日、女性が脱走した猫を駐車場で抱え上げようとしたところ、散歩中の犬の前に立ちふさがって威嚇した。多分、自分を守ってくれようとしたのだろうと、女性は信じている。大きな犬が泰然とした態度で怒りもしなかったので、事なきを得たが、興奮した猫は抱っこした後に女性に爪を立てた。どくどくと血が流れるほどのひっかき傷だった。守るつもりで怪我をさせられたら世話はない。女性は厳しく猫を叱った。すると、猫はそれ以来爪をあまり立てなくなった。
とはいえ、部屋の中は猫のひっかき傷だらけだ。部屋を退去するときの補修費用で頭が痛いと女性が言っていた。猫がいなくなっても、部屋の壁中の爪痕はなくならない。
こちらが寄っていくのではなく、猫が寄ってくるのを待てばいい。大先生本の中の言葉に従って恥ずかしながら猫の声まねをしておびき寄せたら、奇跡的に猫の方が寄ってきてくれた。
「さすがに、プロの方は違いますね。私以外にこの子が懐くなんて」
女性が感心してくれたので、まさか本の受け売りでプロなんかじゃないですよと何でも屋は言えなかった。猫プロ。そんなものあるんだろうか。
キャリーに入った猫は異様なほどおとなしかった。眠ってしまったのか、身じろぎの音すら立てなかった。初対面の人間に握られた籠の中で悠然と寝られるとは、確かに大物の気配がする。
猫と離れる女性の方が泣いた。もう3年も飼っていたというから情が湧いて当然である。退院されたら、また一緒に暮らしたら良いですよと何でも屋が言ったら、「どうせ薄情だから、猫の方が私のことなんて忘れてますよ。あの子の方が贅沢させてあげられるでしょうしね」と女性は強がっていたが、依頼人ならきっと女性に猫を返すと何でも屋は思った。
もう猫と会えない病気なのかどうか、女性に聞くことはしなかったが、猫を引き取った何でも屋の気持ちは重かった。通い慣れた依頼人の屋敷の扉を開けるのに、緊張した。しかし、帰るときにはもっと扉が重く感じた。
「キャリーごとこの中に入れてください。その猫、エイズキャリアなんです。クロちゃんやうちのと一緒にできませんから」
部屋に入ると依頼人にそう言われ、何でも屋はキャリーの口を開けてすぐキャリーごと巨猫を3階建ての大きなケージの中に放り込んだ。猫はしばらくシャーシャー威嚇していたが、依頼人と別部屋に移ると猫の声は聞こえなくなった。
居間に入ると、いつになく黒猫と三毛猫に大歓迎された。夕飯をご馳走になった後に、今日の報告を依頼人にする間黒猫は何でも屋の膝に前脚をかけてくつろぎ、三毛猫はまるで飼い主にするごとく何でも屋の膝の上でまるくなっていた。
「伯母さんもぎりぎりまで何も言わないから。一緒に住もうって言っても聞いてくれないし、見栄っ張りで意地っ張りなんですよね。退院したら、聞いてくれたら良いけど。私が行ったら、いろいろと喧嘩になると思ったんです」
おばさん。その言葉を聞いて、決別した母と娘とかあらぬ想像をしていた何でも屋はとてもほっとした。もう依頼人とは茶飲み友達と言える間柄であるし、流石に母親が入院するのに会わないつもりであれば口を挟んだ方がいいのではないかと悩んだのだ。おばさんで、さらに見舞いに行くつもりもあるというなら何よりである。今更感があって聞けなかった依頼人の下の名前もその”おばさん”の口から聞けたのも収穫だ。
しかし、依頼人は猫が来てほっとした様子もなく、今朝と変わらず不機嫌そうであった。内弁慶らしく、話が乗れば饒舌だがそうでなければ無口な依頼人だが、今日は特に自分から世間話をする気がなさそうであった。その割に夕飯を食べていけというし、話が済んだらすぐ帰っていいような雰囲気でもない。
「もし猫が死んだら、わたしを引き取ってもらえますか?」
唐突な言葉だった。猫を撫でて見るともなしにテレビに視線を向けていただけの何でも屋は聞き逃さなかった。思わず口をついたのだろうか。言ったあと、依頼人は自分の言葉に呆然としたようだった。
何でも屋は依頼人を見た。彼を呆然と見ている彼女をじっと見た。ボーンボーンと壁掛けの古時計が時を告げる音がやけに大きく聞こえた。
「いえ、ちょっと間違えました。この茶トラの猫を飼うので、三毛猫を今日から引き取ってもらえませんか。エイズキャリアの猫と一緒に飼うのは不安ですから」
何でも屋が口を開く前に、依頼人の方がそれを遮って口を開いた。間違えたというのは、「私が死んだら、猫を引き取ってもらえますか」というつもりだったということだろうか。そういう風には聞こえなかった。彼女は間違いなく思ったことを言ったのだという気がした。そして、何でも屋は自分が口にしかかった言葉を改めて言い出す勇気はもてなかった。猫がいなくならなくてもー。
なぜ三毛猫のセミの方を手放すのか。一時的な措置だと依頼人は言ったが、何でも屋はそんな風には信じられなかった。何でも屋が連れてきたら、三毛猫にはいつでも会うことができるといえば確かにそうで、三毛猫は我儘でもなく、何でも屋の家にも慣れているのですでに黒猫を飼っている何でも屋にとっては巨猫よりずっと二匹は飼いやすいかもしれない。しかし、広い屋敷なのだから、猫二匹を引き離して飼うことは不可能ではなさそうである。それでも、万が一が心配なのか。
「あの巨大猫の方をうちで飼わないと。そうしたら、おばさんもうちで一緒に住むことの口実になるかもしれないし。ずっと通ってもらってるのも悪いと思っていたんです」
「通ってる?」
「何度か会ってますよね?・・・あ、家のことをいろいろ手伝ってくれて、助かってるんですけど、伯母は小言も多いし世話好きで。ちゃきちゃき働かれると、いつもここでぼうっとしているのが気まずいんですよね!」
何でも屋の気まずさを察したのか、依頼人がとりつくろうように明るい声を出した。お手伝いの家政婦さんか何かだと思っていた女性は、伯母さんだったのだ。ということは、以前聞いた台所の猫の饅頭の話も伯母さんとの出来事だったのだろうか。
それで、女性は、部屋を訪ねた時に驚いた顔をしたものの、すぐに部屋の中に入れたのだ。病気とか個人的な家族の事情をいきなり話し出したので、ずいぶん警戒心がないと思ったら、顔見知りだったからなのだ。名刺を出した時にこちらが初対面と思い込んでいることに気づかれなかったのは幸いだったと何でも屋は思った。いつもすれ違うだけで、屋敷ではいつもエプロンをつけて化粧もばっちりだったので、同一人物のように見えなかった。
ただ、初対面と思って彼女の伯母さんと接したことを依頼人に気づかれたのはいたたまれなかった。
もう今日はいろいろ気が思い。伯母さんがいない日は自分で料理するという依頼人がわざわざ夕飯を自分を待って多めに作ってくれたのだと思うと、さらに腹が満たされて重い。嫌な気分では決してないのだが、何となくもやもやするものがあって、キャリーの中ではしゃぐ二匹が恨めしかった。
機会を見て、三毛猫のことを依頼人に相談しなければならない。おばさんが退院するまで大きな屋敷で慣れた猫もおらず一人暮らすのは寂しいだろう。
何でも屋は彼女の部屋があるらしき明かりのついた2階の窓をなんとなく見上げた。
すると。
「ちょっといいですか」
後ろから声がかかった。何でも屋は振り返った。そして、驚愕した。人生で一番の驚きで、驚きすぎて初対面の相手に促されるまま二匹と一緒に車に乗ってしまった。
「娘から私のことは聞いていなかったようですね」
上品な感じのする高齢の紳士と、何でも屋はとにかく高級な感じのする料理店の個室で向かい合っていた。もう娘さんのところで、ご飯を済ませましたと言える雰囲気ではなかった。こんなところに猫を連れてきてよかったのかと思ったが、向こうもまさか猫連れとは思わなかったらしいので仕方ない。キャリーの中で二匹おとなしくしてくれているのが幸いだった。紳士も気を遣って、猫と早く家に帰らなければならないだろうと、1時間ほどで食事と話を終えてくれると約束してくれた。
「聞いていなかったですね」
家族事情どころか、娘さんの名前すら今日知りました、とは言い出せなかった。多分、相手は、自分があの邸に何度も通っていることを知っているのだろうと思った。ドラマに出てくるような身上調査みたいなものをされているとしたら、特にやましいところはないが、あまりに何もないしがない身過ぎて恐縮だ。何でも屋は初対面の気まずさで、とにかく食事を口に運ぶことに専念した。たとえお腹いっぱいであっても、この状況を早く終わらせるためには皿の上のものを早く片付けなければならなかった。
「娘は早くからあの家に暮らしていまして、家に帰ってくることがないからあまり会わないんですよ。私もわざわざ会いに行くには忙しくて。まあ、元気そうだから、いいんですが」
確かに忙しいに違いない。このご時世高齢を理由にするには、彼の仕事は責任が重大すぎた。
目の前に総理がいる。そのプレッシャーで何でも屋は食べた。彼女が総理の娘だと気づかなかった自分が悪いのか。いや、気づくはずがない。何でも屋は総理の名前を知らなかった。字面では知っているが、読み方が分からない。漢字一字だが、読み方が3種類くらいあってどれかわからない。まあ、わからなくても、こちらから名前を呼び掛けて良い身分じゃなさそうだから、困らないだろう。敬称がさんでいいのかもわからないので、絶対こちらから話しかけたくないなと何でも屋は思った。依頼人と同じ苗字なのだから同じ読み方だということは、緊張のあまり失念していた。
「ちょっと頼み事があるんだ。この人たちを調べてくれないか」
総理に頼みごとをされた!何でも屋の緊張は頂点に達したが、それでもナイフとフォークを持つ手は動いた。話しながら食べるのはマナー違反じゃないかと思う余裕はなかった。
「私は探偵ではありませんよ。身上調査とかできる技術も知識もありません」
身上調査するどころか、やっぱり日本の総理大臣に自分は身上調査されたんだと思った。思ったが、まあ本当に後ろ暗いところはないのでそれに不安はない。それより、買いかぶられる方が問題である。依頼人が何でも屋のことを父親に話しているとかは夢にも思わなかった。
「そうなんですか?いや、そんな特殊な技術はいらないと思いますよ。そうですね、それなら彼らに見合いを用意してあげてくれませんか?」
「見合い?私は、結婚相談所の社員じゃありませんよ。浮気調査はともかく」
何でも屋は断りつつも少し見栄を張った。浮気調査の経験なんてじつはほとんどない。一度そのつもりで行ったら、他所の旦那に今から妻と浮気相手との密会現場に踏み込むからと無理やり突き合わされた経験があるだけだ。まさに修羅場だったが、自分がいたことで警察沙汰になるような殺し合いに発展しなかったのであれば十分良いことをしたのだと思っていた。思っていたが、それ以来、浮気調査の類はぜんぶ断っていた。同じ調べたり探したりするなら、猫探しくらいで何でも屋は満足だった。
「そうですか。じゃあ、ちょっとプロにあなたのアシスタントを頼もうかな。とりあえず、引き受けてもらいたいんですよ。というか、見極めてもらいたいんです、彼らを」
総理は近くにあった丸テーブルを引き寄せて、高級そうなアタッシュケースから、4枚の履歴書のようなものと4人の男の顔写真を乗せて、何でも屋に見せた。
「彼らは、それぞれ家柄がよく学歴がよい。趣味はそれぞれのものもあるのだが、人好きのするところがあり猫好きで甘党。その人好きのするところが、私の娘の関心をひくためでないかは気になるところです。私の娘はもういい年ですが、多分結婚する気はないし、娘に結婚をすすめてやれるほど、いい父親をしてきてないんですよ。でも、娘の意にそわないことを無理強いする気にならないとはいえない。だから、私がその気になる前に、この優良物件たちに野心がないか見極めてほしい。そして、野心があるなら諦められるよう別の見合いを用意してやってほしいんです」
流石に何でも屋の料理を口に運ぶ手が止まった。猫の見合いの次は人間の見合いの依頼か。猫の見合いすらままならない自分にどうしろと?
疑問を口には出せなかったが、総理は結果は求めないと言った。見合いが成就しなくとも、それなりに努力して見極めてくれればよいと。なぜ、自分が見極めなければならないのか。自分が彼女の友達だからか。
多くの疑問を飲み込んで、料理も無理やり飲み込んで、何でも屋は痛む腹を押さえて家路についた。初めて食べた高級料理も高級外車の乗り心地も味わう余裕なんてなかった。ただ疲れて、猫たちをキャリーから解き放つと、遊んでやるのもそこそこに風呂にも入らず泥のように眠りについた。

第13話 開業はコワイが、お見合いはコワクナイ


何でも屋の飼っている2匹の猫は聞き分けがいい。
まだ生後8ヶ月くらいの黒猫の方は元気盛りで朝から遊びをせがむものの、抱っこすればすぐにおとなしくなる単純な性格だ。
さらに三毛猫のセミがうちに来てからは、朝のコーヒーを入れる時間やパソコンを見ている時など大事な作業をしている時に黒猫が邪魔しに来ようものなら、三毛猫のセミが後ろから飛び掛かってしつけするので、そういうときに構ってもらうために邪魔してはいけないと最近理解してくれるようになった。
朝ごはんも夕ご飯も催促せずに、時間になると、皿の前に2匹でチョコンと座っている。2匹で飼えばずいぶんとうるさくなるのではないかと懸念していたが、2匹で勝手に遊んでくれるし、飼いやすいことこの上なかった。
しかし、まだ2歳になるやならずやのその非常に優秀な三毛猫のセミには2点ほど悪癖というべきものがあった。
一つ目は、トイレの清潔さに対するこだわりだった。黒猫と同じトイレを使わず、自分のトイレを黒猫が使うと使わない。最初気づいた時の数回はトイレを丸洗いして許してもらったが、見向きもせずに1日我慢した日にはしょうがなく夕方慌てて新しいトイレを買ってきた。
さらに、自分の排泄物であっても、その”ぶつ”があると自分専用のトイレを我慢する。前の家でずいぶんまめに世話をされていたらしく、最初はおしっこをするたびに、トイレシートを変えてくれと鳴いていたがさすがにそんなことをしていたらトイレシートにかかるお金がもったいないので、構わないでいたら、それに関してはすぐに妥協をしてくれた。しかし”ぶつ”だけはどうしても許せないらしいので、朝夕セミ様が”ぶつ”をしたかどうかまめにチェック、さらに、黒猫のトイレも”ぶつ”を踏んでないかまめにチェックするようになったため、トイレの世話は2倍ですまない、3・4倍に増えてしまった。
でも、まあ、自由業で暇を持て余す何でも屋にとってそれくらいのことはいいのである。
もう一つの悪癖が問題であった。
「おい、行くぞ」
セミ猫は、クロがキャリーに入れられた時点で出かけることを理解している。しかし、セミ猫は自分自身が何より出かけたいくせに、姿を見せない。
ナオ―――ン。
今日もセミ猫がどこかで鳴く。探してやるのは業腹だ。何でも屋はクロだけを連れていくふりで玄関にクロの入ったキャリーを一つだけおいた。
ダダダダダダダダ。
セミ猫が慌てたように玄関口まで走ってくる。しかし、何でも屋が手を伸ばそうとすると、するりと抜けてまたどこかへ行き、ナオ―――ンとはぐれ者の狼みたいに鳴く。いやこの場合、オオカミ少年か。
何でも屋が声の方に迎えに行くと段ボールの物陰から飛び出してきて、ポーンポーンと何でも屋の足を叩いて跳ねる。本人は優しくしているつもりかもしれないが、どうしたって爪がひっかかるから人間の方は痛い。このカクレンボを毎回したいために、哀れっぽい鳴き声で緊急性を演出し、人間をだますのである。
「そういう性格の悪いことしていると、嫁の貰い手がなくなるぞ。今日は見合いの日なんだから、きちんと猫をかぶっていなさい」
カクレンボの続きでキャリーから半分尻を出していた猫を後ろから放り込んでチャックを閉めると、何でも屋はまるで人間の親みたいな自分の科白に苦笑した。
今日はいよいよ見合いパーティーの日。何でも屋は自分の身なりを姿見で確認すると、自分の荷物を背負い、両脇に4キロ超えの猫が入ったキャリーを抱え、家を後にした。
「何でも屋さん、こっちですよ」
「何でも屋は、勘弁してください。普通に苗字呼びでいいですよ」
二人の女性に出迎えられた何でも屋はいつもの癖で右眉をあげて苦笑すると、寝る体勢を変えるたびに肩にずしんと負担をかける猫たちを下ろした。
「ずいぶん、大荷物ですね」
声をかけてきたのは、何でも屋が何でも屋という仕事を始めてからの初めての客である依頼人の女性である。ずっと髪が長かったのだが、髪型を変えたらしく、肩で切りそろえられているのが新鮮だ。
「猫2匹飼っているとこんなものですよ。1匹引き受けてくださると肩の荷が下りるんですけれどね」
「私もの肩にも重いので無理ですよ。誰かほかに頼る人がいないと。よろしくお願いします」
申し訳なさそうにして、首を傾けた依頼人の髪が肩の上でさらりと揺れた。まともに櫛を通したような髪型を見たことがなかったが、さすがに人前ではちゃんとするんだなとなんとはなしに考え、何でも屋は自分だってそうなのだからと妙に落ち着かない自分の不思議な感覚を押しとどめた。
「あらまあ、もうお見合いを始めるなんて気が早いですよ。当てられてしまいますから、見せつけないでくださいね」
ー意味がわからない。
何でも屋は依頼人と顔を見合わせて首を傾げた。三毛猫のセミは元々依頼人の猫だった。しかし、依頼人が新しい猫を飼うことになったので、今は何でも屋が譲り受けたが、気持ちとしては預かっているつもりなので、返したいという話をしただけだ。事情を知らない他人からすれば、男女の何か駆け引きに聞こえるのだろうか。不可解だし、不愉快である。
みゃあーみゃあー。
猫たちが鳴くので、何でも屋はキャリーから出してあげた。二匹はクンクン匂いを嗅いでいるが、もう何度か来たので、物怖じした様子はない。この場にいる他の猫の方が隅っこで縮こまっている。
「さて、今日が初日ですね。緊張しちゃうわ。お二人、多いに頼りにしていますからね」
変な誤解も、この場所の意味を考えれば仕方のないかもしれない。緊張気味のこわばった笑顔を見せた40がらみの女性は、この猫と人間のお見合い相談所「ハッピープラス」の所長である。1年ほど前に猫の見合いを依頼された何でも屋だったが、それが成就せぬまま、依頼人の父親に人間の見合い断りを頼まれた。まだ、来ていない見合いを断るというそれも厄介な仕事だった。
「じゃあ、ちょっと始まる前に打ち合わせを始めましょうか」
所長に促され、3人は猫足のテーブルのの席についた。
ほとんど鳴かないセミ猫が、依頼人に抱かれると嬉しそうに鳴いてゴロゴロ咽喉まで鳴らす。やはり、飼い主はいまだに依頼人だと何でも屋は思う。
今日の見合いでは、何でも屋と依頼人がスタッフをすることになっている。昨今の疫病の流行から、見合いをするのは2組だけ。人間4人と猫4匹だ。
現在、日本ではすでに猫を飼っている家族が新しい猫を保護施設などからもらい受けようとすると、先住猫との相性を見るため、家に一時預かりをして相性がどうしても悪かったら施設に返すというシステムになっているところが多い。
しかし、特に子供のいる家庭などでは、猫同士の相性が悪くても、懐いた猫を返すのは苦渋の決断である。そのため、猫の相性を見る見合いを我が家ではなく、第3の場所でやったらどうかと何でも屋は考えたのだ。
それを人間の見合いもできる相談所にしたのは、独身者では2匹飼うのは躊躇いがある人もいるだろうし、人間の猫好きカップルが結ばれれば必然的に猫を2匹飼えることになるだろうと思ったからだった。
こんな荒唐無稽な結婚相談所、実現しないと思っていたら、依頼人の父親が総理大臣で権力者であったため、すぐに手配をしてくれた。本当は猫好きな所長からこの結婚相談所を買い取ろうとされたのだが、普通の会社員すら務まらない男に会社の経営なんて無理なので、お断りした。
その総理が娘のために来てもいない見合いを断ってほしいと頼んできた4人の男。素晴らしい釣り書きで、断るよりその中の誰かと見合いして結婚すればいいと何でも屋は思った。だから、この結婚相談所のスタッフに依頼人を誘ったのだ。
もちろん、依頼人には思惑については話していない。自分が猫のお見合いを頼んだので、こんなアイデアを思い付いたのだろうと喜んでくれただけだ。小説のように相談所のスタッフに目が留まるなんてことは普通はない。しかし、彼らは総理の娘の顔を勝手に知っているので、こちらの意図に気づいてくれるだろうと何でも屋は考えていた。
今日は、4人のうちの一人が来る。この結婚相談所に総理が登録させたのだ。大蔵省に勤める35歳の男。国家官僚。いわゆるお役人である。その役人がどんな性格で、本当にネコ好きか、何でも屋は見極めるつもりだった。
猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』には扉を開けた先に二つの扉がある。
一つが猫部屋の扉、一つがマッチングカフェの扉である。
訪れる人が別段、結婚願望を持っていなくても構わない。婚活をすると決めてすらなくてもよい。会員制の完全予約制なのは、猫嫌いや動物アレルギーの方が間違って入らないための一つの気遣いでもあった。
チリンチリン。
呼び鈴が鳴ると、相談員が二つの扉のどちらかの引き戸を開けて現れる。
全て木製のどこか西洋風を思わせる扉だ。取っ手はもちろん金色の猫の姿を模したものである。
「お待ちしておりました。食事になさいますか?それとも先に猫と戯れなさいますか」
まるで新婚の夫を迎える妻のような科白である。
30過ぎた大の男がこんな科白を言うなんてと、何でも屋は自分で笑ってしまいそうなのを無表情を装ってこらえた。出迎えられた方も、新調したばかりのような皺ひとつないスーツを着こなした30過ぎの男である。割烹着のような長袖エプロンの長身の男に出迎えられても、微笑にとどめる紳士的な男だ。四角い顔に微笑を浮かべるときも背筋がピンと伸びているのがお役人らしい。
「ええと、じゃあまず食事をしてお話を聞かせていただけますか?」
役人は丁寧に言って、会釈した。
「では、ちょうどみなさんお揃いなので、ご案内させていただきます。お連れの猫さんをいったんこちらでお預かりさせていただきますね」
何でも屋もとい相談員(仮)な何でも屋が畏まって促すと、少しだけ緊張した面持ちを見せて役人が頷いた。
このご時世なので、時間きっかりに全員が揃ったものの食事はアクリル板越しである。それでも、真ん中の大きな透明花瓶を豪華に飾り花を添えたおかげか、心配していたような気づまりな感じはなく、自己紹介はスムーズに済んだ。それぞれ海外在住経験のあるメンバーで、その話で盛り上がったが、皆自分の猫のことが気になって気もそぞろだったため、食事を終えるとすぐに猫部屋に移動した。
何でも屋は依頼人の父親から依頼人にまだ来ていない見合い話をさせるべきかどうか相手を見極めてほしいというややこしい依頼を受けている。
食事の時は一度も行ったことのない海外話で会話に入って行けなかった。
しかし、猫部屋に行くと、目当ての役人がクロの据わる猫足の丸テーブルに落ち着いたので、自然な感じで話かけることができた。
「いいですね。猫草がたくさんあって、外壁も自然な感じで猫たちに開放感がありそうだ。宿舎だとキャットウォークが作れないなと思っていたんですが、こんな感じもいいですね」
え?宿舎って公務員宿舎ですか?ペット可なのか?
壁紙シールの貼ってあるファンシーな公務員宿舎を想像して、何でも屋はすぐに考えるのをやめにした。別に公務員だからといって四角張っている必要はない。依頼人の父親なら、総理権限で国家公務員の宿舎をペット可にするくらいわけもないかもしれない。今は多様性の時代だと、己を納得させた。
「あちらの相談員が飾りつけを担当しておりまして」
何でも屋は役人の視線を依頼人の方に促してみた。しかし、彼は彼女に気づかなったのか、そもそも総理の娘の顔を知らないのか、気づいていても素知らぬ振りを通したいのか、特に反応を示さなかった。
「あっちの壁紙は砂漠の写真ですね。猫の祖先は砂漠に住んでいたっていう話だからですか?」
「そうなんですか?詳しくないもので、ちょっとそこまでわかりませんね」
何でも屋は素直に言ってしまってからハッとした。ここの相談員(仮)としては知っておくべき知識だったのかもしれない。猫に詳しくないなら主に結婚相談が専門だと思われていろいろと聞かれても、婚活も結婚もしたことがないので、猫よりもっとそっちはわからない。
幸いに、役人は恋愛の話をしては来なかった。
「猫の魂はみんな砂漠に還るんだろうな。私は、砂漠に木を植える仕事をしたかったんですよ。子どもの頃、特に勉強ができるわけでもなく、塾に行くことになったのも九九が覚えられなかったからでした。塾でも今の仕事でも頭のいい人がいっぱいいましてね。でも、尊敬する人はいつもすぐに去っていくんですよ。そして仕事が回ってきていっぱいいっぱいでしてね、やりたいことも忘れそうになる」
何の話何だかよくわからないが、目の前の男が話したそうに見えたので、何でも屋は役人の前に腰かけて、クロを膝に抱えた。
「海外勤務になりましてね。まあ、ほぼ勉強なんですけど。英語くらいしかできないのに、なんで自分がと思ったものです。自由に歩き回る海外の猫を見ながら、早く日本に帰って猫を飼いたいとそればかり考えていました」
役人は海外勤務の時にアフリカや中東や中国などの砂漠地帯を希望しなかったのだろうか。希望しても、どのみちアラビア語や中国語ができないからと諦めたのか。
砂漠に木を植えたいという目の前の役人が、先ほどの食事で野菜を残していたことを何でも屋は思い出した。まあ、深く詮索することでもない。夢のために努力することはそう簡単ではない。
「ここは保護猫カフェみたいなものかと思っていたんですが、ちょっと違いますね」
「あくまで猫と人間の出会いの場がコンセプトですから。今のところ、うちの看板猫はこのクロちゃんと三毛のセミちゃんなんですよ」
いつの間にが相談所の所長が背後に来て、ペットボトルのお茶を二人に差し出してくれた。猫部屋では当分、飲料はコップで出さないことになっている。話が長くなりそうになることに気づいてお茶を持ってきてくれる気遣いができるところはさすが所長だ。彼女にここの運営を任せて本当に良かったと何でも屋は思った。
社交性の高いセミ猫が、他の猫たちと鼻先をくっつけてすぐに馴染んでくれたのも助かっている。さすが依頼人の教育が行き届いた猫だ。
「そうか、来る人が猫を連れてくるなら、特にここに猫がいる必要がないか。いや、うちの猫は道で拾ったやつだから、猫カフェというものに行ったことがなくて興味があったんです」
「まあ、保護猫カフェではありますよ。うちのも拾った猫ですから」
何でも屋はクロの両手の脇をつかんで抱えて見せた。クロは嫌そうにニャーと鳴いた。
「そうですか。やっぱり、猫は自然だと長くは生きられませんもんね。コンクリート街は冬は寒いですし、寒暖が関係なければ車に轢かれて死んでしまう。あっという間に短い生を終えて砂漠に還るという魂の輪廻から、人間に拾われて抜け出すことができるわけです」
「深いことをおっしゃいますね」
ずいぶん回りくどい喩えをするなと思いながら、感心する振りをして何でも屋はペットボトルのお茶に口をつけた。
「子供の頃、小説家になりたかったんですよ。そうだ、本は読まれますか」
「読書は好きですよ。暇なので、本ばかり読んでいます」
何でも屋が答えると、役人はバッグから1冊の本を取り出した。
「ちょうど読み終わったんで、もらってください。ぜひ他の人にも読んでもらいたかったんです」
「いいんですか?」
よほどの本好きなのか、何でも屋が遠慮なく受け取ると、役人は満面の笑みを見せた。どちらかと言えば、四角くて押しの利く顔立ちなのに、笑みを浮かべると途端に親近感がわくのは、役人というより政治家のような風貌の男である。
「幸徳秋水をご存知ですか」
「はるか昔に学校の授業で聞いた覚えがありますね」
明治期の偉人の本のようだ。授業ばかりでなく、幕末から明治にかけての偉人の話は好きな人が多いので、こんな風にすすめられて読むことが多いから、その中でも何でも屋はたまに彼の名前を目にすることがあった。それにしても砂漠に植物を植えたいとか小説家とか、役人は夢の多い子どもだったようだ。何でも屋は子どもの頃の夢をかなえるどころか、明日食う手段すら考えることが難しい。果たして本を読んでも共感できるだろうかと不安になる。
「このご時世ですし、最近虚しさを感じることが多くなったんです。その自分の心情にこの幸徳秋水の生き方が妙にリンクしたんですよ。今の時期にぜひ読んで欲しいんです」
役人はますます饒舌になって語った。
「最近思うんです。世の中は勝手で、理不尽だ。しかし、別段、賢い人が報われるというわけでもないなら、私にも組織のトップになって、やりたいことをやるチャンスはあるのかもしれない。尊敬する人が組織で僕の下になったり、順序的におかしな人が重用されたり割り切れない思いをしたこともありましたが、それで相手が平然としているのを見て、志を持つ同志ではなくなって、彼らが誰かに迎合したりするとその時魂は死んでしまったんだなって。いや、それが運命なのかも。うちの職場の人間は、俗に犬って言われるじゃないですか。だとしたら、幸徳秋水みたいな社会主義者は猫ですね」
だから、私は猫に憧れてしまうんだろうなと役人は寂しそうに言った。つまり、共感したというより感銘を受けたということなのだろう。犬の役人が猫の社会学者に憧れを持ってしまうような話ということなら、何でも屋でも本の中身に共感できるかもしれないと思いなおした。
「幸徳秋水は社会主義のジャーナリストですが、本質は社会学者だと思うんです。師匠がルソーの中江兆民ですしね。社会学者にはいつの時代も居場所がない。一匹で縄張りを放浪する猫みたいなものです。猫も同じく車社会という文明に殺されます。己の信条を曲げません。こちらの都合に合わせてはくれません。社会学者も同様に大衆に逆らい、時の政権を批判する、死に向かって生きる者なんですよ。何度どの時代のどこの国に転生しても物理的でなくとも現代でも社会的に殺される。誰かが保護しないとその魂の輪廻から抜けだせないんですけどね。」
猫の話なのか、過去の偉人の話なのか、今の政権に対する話なのか、役人の話は曖昧でとらえどころがない。
「では、車のない社会なら保護はいらいないのですか」
まだ読んでいない本の過去の偉人の話などよくわからない。とりあえず、現代の猫の話として聞いて、何でも屋は質問した。
膝の上でクロが大きなあくびをし、つられたように役人の膝の上にいつの間にか来ていた毛足の綺麗な猫もあくびした。さっきキャリーで運んだクロの3倍の大きさもある役人の猫である。
役人はまっすぐに何でも屋を見返した。眼光鋭く、瞳の色の綺麗な男だと何でも屋は思った。そういえば、依頼人の女性より年下だ。まだ子供の頃の青臭さが抜けない夢想家なのかもしれない。
「そうですね。そういう社会になれば、保護はいらないかもしれませんね。しかし、今ある危険を手放す代わりに今ある便利さも手放すことになるでしょう。まあ、未来の話なら車に代わる新しい危険なものが作られるということになるんでしょうね。しかし、そうなるまでは、生き延びるには猫の個々の素質によるでしょう。猫の社会性は3か月までに作られると言いますから、難しいでしょうけど、家から脱走しない猫に育てるか、野良なら車に気を付ける猫に育つか、まあ、期待しても全部が全部そう育たないかもしれませんが、私は結構手をかけることが好きなんですよ」
いろいろと何か思いつくところがあったのか、役人は明るいはつらつとした声で饒舌に話した。声もよく通り、ますます政治家みたいな男だった。
「そうですか。私はマメな方じゃないので、勝手にそう育ってくれるよう、見守るしかないですね」
そう年齢は変わらないはずなのに、役人の気力に圧されて、何でも屋は若いっていいなあと思った。
「でも、育て方って大事じゃないですか。僕は、上手く環境に育てられたなってそこは感謝しているんですよ」
役人は屈託がなかった。別段俺は育ちがいいんだよ、と自慢しているわけでもないのだろう。素直な性質なのだ。確かに彼は猫というより、犬っぽい。
「なんだかなあ。来てよかったです。実は海外に行くことがまた決まって、このご時世だし憂鬱だったんですが、みなさんの話で前向きになれました。だいたい、私は子どもの時からどうも向いてないことばかり熱心にやってしまう性格なんですよね。猫も私に飼われて幸せだろうかと常々考えていたんです。しかし、目的があればきっと道につながりますね」
彼が言っているのは、出世の道だろうか。何でも屋と話終えて、しばらく他の3人の参加者と交流を深めて、役人は来た時より晴れ晴れとした顔で帰っていった。帰り際に依頼人の顔をじっと見ていたから、きっと彼女に気づいていたのだろうが、何か思うところがあるようにも見えなかった。
「婚活パーティーなのに、男同士でずいぶんとお話されていましたね」
片づけをしながら、可笑しそうに依頼人が聞いた。
「ダメだったですかね」
「さあ、よくわかりませんけど、お客さんが満足されたならよかったんじゃないですか?気が合ったんでしょう」
いや、全然そういうことはないと何でも屋は心の中で否定したが、口には出さなかった。彼の人生と自分の人生が今後交わることをなんで何でも屋は想像できなかった。彼は何でも屋とはやはり違う世界線で生きている人間だ。依頼人も、もしかしたら、今後そうなるだろうか。役人は、思慮深げな良い男だった。
「海外の話とかさっぱり分かりませんでしたけどね、行ったことないんで」
「そうですか。ホッとしました。私も子供の頃の記憶にないくらいの時しか行ったことないんですよ。なんかみんなアグレッシブだなあって自分がずいぶん暢気者に感じました」
「向いてないと思うことを克服するって偉いですよね」
「そうですね。私は向いてないことはやりたくないな」
依頼人の言葉に、何でも屋はホッとした。様々な勉強をしている人の話は勉強になる。何でも屋は読書が好きだし、未知のものに対する好奇心は人並みにあった。
しかし、定まらない人生を猫のように生きている身としては、今後どうしようというあてもない。猫のために車のない社会なんて作れない。幸徳秋水のように偉い志はないが、自分自身が猫なのだから。
そんな自分を、依頼人の言葉で少し救われたような気がした。自分のような人間ばかりでは社会は成り立たないだろうが、世界の片隅で寝ていることを赦してほしい。
依頼人とは、友達でいられそうだと何でも屋は思った。

第14話 独身主義者はコワクナイ


忙しい日々の生活の合間を縫って、猫と人間の結婚相談所「ハッピープラス」に来てくれる人もいる。そういうお客様にはぜひ心から協力したいものである。

この結婚相談所に通うとセレブとしての格が上がるような誤解が生じている。そのために所長と職員の何でも屋と依頼人は、メインとなっている婚活パーティーのクルーズ船やコース料理からの路線変更も話し合ったが、とりあえずは今のままで様子を見ることになった。

まだ始めて1年も経たない相談所である。まずは知名度が上がることは悪いことではない。

それに育ちの良い人たちが皆気取っていて、上昇意識が高いとは限らない。中には親しみやすい人や極端に引っ込み思案な人もいた。

この結婚相談所に設立当初から通う30代の議員秘書の男性はとても内向的な性格だった。何でも屋は最初それに気づかなかったが、ある日議員秘書にお礼を言われた。

「誰かと何か話さないとと思うと不安だったんですが、貴方が間に入ってくださるので助かります」

何でも屋は最初、何を意味して言われたのか分からなかった。実際「私、何かしましたっけ?」と口をついて出そうになった。しかし、賢明にも「とんでもないです」と言うにとどめた。

依頼人によると、明らかに何でも屋は男女複数人参加の婚活パーティーでは議員秘書のそばにいることが多いらしい。女性に対するアドバイスなどわからないし、ただ黙り込んでいる人の側にいる方が何でも屋としても居心地がよかったのかもしれない。会話に詰まった時に手助けすると言う大義名分ができる。その議員秘書は女性とはほぼ誰とも挨拶以上に話したことがないけれども。

参加はこまめにしてくれるが、正直彼がこんなに長く続けてくれるとは誰も思っていなかった。それだけに、所長をはじめ3人は議員秘書はぜひカップル成立させてほしいと思っていた。

その日の夕方からは、猫好きな作家による朗読会が企画されていた。特に猫の小説を出版しているわけではないが、ブログでは愛猫の紹介をしているらしい。

読書好きが集まった猫と人間の結婚相談所「ハッピープラス」であったが、会員であったその作家(職業欄は文筆業だった)の本を知っている者はいなかった。その議員秘書がその作家のブログを読んでいて顔まで知っていたので、判明したことだった。

「さ、さ、さ、さ、サインをお願いしたいのですが・・・」

震える声で議員秘書が何度も何かを言いかけているのを見た時は、その女性が好みだったのかと相談所のスタッフは期待して色めきたったが、純粋にファンだっただけだった。

朗読会も議員秘書の提案だ。事前に相談所から希望者に本を配って、作家の前に置く大きなアクリル板も購入して、準備万端にこの日を迎えることになったのだ。しかし、始まってしばらくしても彼の姿はなかった。仕事が入ってしまったのだろう。連休中にご苦労なことだ。

室内は、ハロウィン仕様でLEDのジャックオーランタンをいくつも吊り下げて作家の周囲だけ本が読めるだけ照らした。同じくLEDの人工的なキャンドルをいたるところに飾っている。

アロマキャンドルにしなかったのは、この相談所が猫と人間の集まる場所であるからだ。愛猫を連れてきた人には猫の仮装も用意した。オレンジ色の猫用のマフラーや魔女の帽子、お腹に小さな竹ぼうきをつけられるハーネス。お化けになれるフード付きの猫用の白い服。嫌がる猫には無理に着せないという約束で、そういう人には相談所の方で有料の合成写真アプリでハロウィン仕様の猫と飼い主と作家の写真を後日送ることになっていた。

ただ、だだっ広いだけの猫室には人間たちだけに白いスポットがあたり、足元では扮装ふんそうした猫たちが思い思いに寝そべっている。寝ている猫にハロウィン仕様のブランケットをかければ、嫌がっていたはずの猫も気持ちよさげにプチ仮装を気に入ってくれる。猫を着飾りたい相談所側のいじらしい努力である。そこまですべきかどうか、何でも屋はわかるようないい年してくすぐったいような。

「まあ元気な甘えん坊ですねえ~」

時折誰かの猫が飼い主を呼んで鳴いたら、和やかな様子で朗読が中断する。可愛いですねと言いながら、飼い主の膝にやってきた猫を愛でるのだ。公共の場所で泣いている赤子でもここまで周囲から優しくされることはないだろう。

飾りつけに奔走したアルバイトの女性が朗読中嬉々として趣味であるという一眼レフのカメラで写真を撮っていた。

「お、お、お、遅れましたー!」

ゆっくりとした朗読が終わった頃に、やっと議員秘書が現れた。

「待ってましたよ!さあさあ、今日の会の立役者が準備しなくっちゃ」

所長がオーバーアクションで出迎えて、みなの注目が彼に集まる。上がり症の彼の頬がさっと朱に染まった。

何でも屋は所長に促され、議員秘書を試着室に案内して、着替えの仮装を渡した。相談所ではファッションのアドバイスもするので、二つの試着室が完備されている。何でも屋も貴重な男性従業員ということで何度か研修を受けさせられた。受けてみたらいろいろ物珍しい発見もあり楽しかったが、いざ、実践するのは気恥ずかしい。他人事だったら、聞きかじりね知識で自分が出来ないような服装を促すのだから、自分の性根が何でも屋は恐ろしかった。

女性は魔女の帽子と黒いスカート、男性は黒いローブ程度の簡単な仮装の中、議員秘書がドラキュラの仮装をさせられるのが気の毒ではあったが、いつも青白い顔の彼には違和感なく似合っていた。

よほど急いで来たのか、着いた時背中やわきのスーツの汗じみが酷かった。着替えを促したのは、女性の隣で彼が体臭を気にしないですむようにという配慮だろう。流石に所長は抜け目ない。

着替えた彼には、すぐに壁際に並べられた椅子の一番端の席に座らせ、作家との記念撮影の順番が来るまで待ってもらうことになった。

「どうぞ」

すかさず飲み物を渡したのは、アルバイトスタッフの女性だ。うちのスタッフは誰も気が利いていると何でも屋は感心したが、その女性が議員秘書が飲み物を飲み終わるのを待っているのか立ち去る気配を見せないので、二人いても邪魔かと思い移動した。

食事はコルカノンというジャガイモ料理にパンプキングラタンそれにワインと言うシンプルな腹持ちの良い構成になっていた。それに加えて”メイン”のバーンブラック。ハロウィンらしいケルト民族が起源と言うアイルランドの伝統菓子の焼き菓子だ。とは言ってもほとんどドライフルーツ入りのパンのような食べ応えのあるものだが、食事の最後に出されるのには訳がある。ハロウィンというのは、元々占いや予言が行われていた。このバーンブラックの中にも運命を占う様々なものがいれてある。

ハロウィン仕様の朗読会を思いついたのは依頼人で、それほど詳しくもないというので大体有名どころを入れてある。

〇指輪(結婚)
〇硬貨(金回りが良くなる)
〇布切れ(貧困)
〇ボタン(独身男性が結婚できない、または戦争関連で問題が出て来る)
×エンドウ豆または指貫(独身女性が結婚できない)
×木の破片(結婚生活によからぬことが起きる)

なるべく伝統に忠実にやろうという方針だったが、エンドウ豆と木の破片は婚活パーティーに相応しくないだろうという理由で直前に却下にした。ボタンは結婚できないという意味だけではないし、良い子と悪いこと二つずつ入れた方がバランスが良いだろうということで残しておいた。平和な日本であまり戦争の問題と言うのも実感がなかった。

しかし、ボタンをひいた男性の顔が見る間に不機嫌になった。食事の後には、記念の写真立てと事務スタッフがいそぎプリントアウトした写真シールを渡してお開きにする予定であった、それももらわずに帰りそうなほど顔を真っ赤にしていた。まあ、顔が真っ赤だったのは、ワインで酔ったせいもあったかもしれないが。

事態を納めたのは、それまで参加者の誰とも口を利いていなかった議員秘書だった。

「ちょ、ちょ、ちょっと、すみません!僕は職業柄、貧困というのはお引き受けできないですね。ボタンと替えてもらえませんか」

アクリル板で遮られているのを気にしすぎたのか、隣の男性に話しかけるにはよほど大きすぎる声だった。不機嫌だった男性はあっけにとられた風で、おそるおそる先ほど当てたボタンをポケット取り出した。

「でも、これは結婚できない上に、戦争が起きてしまうから最悪ですよ」

「お互いにふさわしい課題を解決しましょう。あなたは商人あきんどなら貧困を減らせるかもしれない。戦争問題が起こるというなら、それを解決するのが政治の仕事でしょう。いえ、私は秘書だから、解決するのは先生で他力本願なんですけどね」

「僕が貧困問題の解決に寄与するなんて壮大な話ですね」

不機嫌だった男性は苦笑して手元のボタンを指先で弄んだ。

「それに私は結婚できなくても、しょうがないんですよ。そもそもここには猫を紹介してもらえると思ってきたんです。知り合いの先生が君猫が好きだったらどうだって言うんで、結婚相談所という名前を聞いても猫と人間の愛称を見るもんだって思い込んでいたんですね。それでも、こうしてみなさんの話を聞くのが楽しくてずるずると通っているんですけど」

語気を強めた勢いを恥じるように議員秘書が頭を|掻《か)くと、周囲にクスクスと笑いが起こった。恥ずかしそうにする議員秘書に折れたように不機嫌だった男がグラスを掲げた。降参だと示したかったのだろう。

「では、それぞれ紙にお包みします。お二人の宿願が叶えば、すべて平和に解決しますから」

宿願とは言いすぎだったかもしれないが、何でも屋がボタンと布切れを引き取って紙に包んで渡すときには、男二人で話が盛り上がり、気まずい空気はなくなっていた。「貧困」も政治が解決する仕事では?なんて無粋なことを言う人はいなかった。

ドラキュラの仮装のままタクシーに乗るのは恥ずかしいというので、議員秘書を再び試着室に案内した。

「すみません。新品のシャツを買ってきてもらって。本当に代金をお支払いしなくて、良いんですか?」

「いえいえ、こちらの配慮が行き届かなかったところを、おさめていただけてありがたかったです」

「そうですか」

そこで金を払うの払わないのと押し問答しないところが、彼も手馴れている。議員秘書が試着室に入ると、すぐに着替えの音が聞こえてきた。

「猫を飼いたいということなら、保護施設になりますけど、紹介しましょうか」

カーテン越しに何でも屋が声をかけると、議員秘書はあーとかうーとか悩まし気なうめき声をあげ、その後黙り込み、着替えを抱えて試着室から出てきた。

「・・・猫は、本当に飼いたいんですけど、忙しいと留守番ばかりになってやっぱり可哀そうでしょう。まあ、他に面倒をみてくれる人がいれば違うんでしょうけど」

猫と伴侶と両方いっぺんに来てくれないかなと夢想するときが、独身には一度はあるものだ。何なら、ペットのほかに庭付き一戸建てと宝くじ5億円の夢もくっついてきがちである。

「そういえば、再来週末は総選挙ですね。ハロウィンと総選挙と、夜の喧騒が終わったら、一息つけて猫のことも考えられるんじゃないですかね」

私も独り身だから、何かあれば猫を預かりますよ、という言葉を何でも屋はすんでのところで飲み込んだ。いい加減な約束はするべきではない。仮にも結婚相談所なのだから、スタッフが自ら独身を名乗ることもよくないだろう。実は、所長以外独身の結婚相談所なんて客は誰も知りたくないに違いない。

「そうですね、猫に鈴をつけることばかり想像してもその鈴をつける猫がいないんじゃ話になりませんもんね」

そう言って議員秘書が常にない笑顔を見せると、足元についてきていた三毛猫がここが営業の見せ所と思ったのか、議員秘書の足にすり寄ってきたので、そのまま何でも屋が彼の腕の中に乗せてやると、セミ猫は満足そうにごろごろと咽喉を鳴らし、さらにくっついてきていた黒猫がうらやまし気に足元でニャーニャー鳴いた。

はじめてこの場所で猫を抱いた議員秘書は、何でも屋たち職員が片づけを終えてセミ猫が腕から降りるまで小一時間ほど抱いて、職員たちと雑談ですっかり打ち解けて帰りがたそうにしながら去っていった。

「猫の紹介所と思っていたなんて、来てびっくりしたでしょうね。説明を受ける時に戸惑ってらっしゃる感じがしたけど、あれは緊張してたんじゃなくて面食らってたのかしら」

2日休みを挟んで、ハロウィン朗読会の反省をしながら、話題は議員秘書のことが中心となった。それもそのはず、彼にはあの日参加した4人の女性全員からマッチングの申し込みがなされていたのだ。

はじめて彼が相談所に来た時のことは覚えている。ずっと、扉の外に誰か立っていると思って何でも屋が見に行ったところ、転がるように相談所の中に入ってきて、「ここは紹介所でしょうか?」と聞いてきたのだ。大汗を書いて真っ赤な顔をしていたから、結婚相談所に来るのは初めてなのだろうと何でも屋も同情したのだが、まさか猫の相談所であれほど悩んでいたとは気の毒なような笑ってしまうような・・・。所長の話を聞いていた時は、自分の勘違いに顔面蒼白だったろうと思うが、彼が何も言い出せずに入会したのは、彼自身のせいであって所長の落ち度ではない。それにずっと顔を見せていなかったという彼も、なぜか退会の規定を改めてから、顔を見せるようになったのだ。

早速申し込みの旨を伝えると、彼は誰かと一度デートしてみるのもやぶかさでないという。ただ、仕事が忙しく、メールのやり取りをする暇もないということで、月をまたいでのデートの日取りもデートコースも相談所に一任されることになった。

いろいろな人とデートするというのはなかなか大変なものである。最初に会った人に決めてしまう人も中にはいる。朗読会に参加した人は皆彼と趣味もあいそうだ。とはいえ、某最高学府出の元大臣の息子で病歴なしの健康体でスポーツではインカレで優勝した経験を持つという有料物件だから、経歴からすればこれまでも申し込みが殺到してもおかしくなかったのだ。しかし、彼が実際に会ってからというし、実際婚活パーティーでは参加しても全く話さないので、近寄りがたい雰囲気を感じて女性も周りもみな気後れしていただけなのである。

相談所としても結婚は本人次第とは言いながら、彼の見合いに関しては非情なプレッシャーを感じていた。何せ、依頼人の父親には「やっと息子が婚活に乗り気になってくれた」と夏には豪華お中元が届き、それをそっくりそのまま渡されたと依頼人が嘆いていたくらいである。もちろん、それらの食べ物の多くを何でも屋もご相伴に預かった。

「ねえ、練習用に秘書さんと私にデートさせてくれませんか」

いつの間に出社してきていたのか、客との相談室兼会議室にひょっこりとアルバイトの女性が顔を出し、そんなことを言ったので、考え込んでいた3人は呆然としてしまった。

「・・・まさか、スタッフとお客さんのお見合いなんてさせられませんよ。ましてや、練習なんて理由をつけて。どうしてもというなら、入会をどうぞ」

いち早く正気に戻った所長が、しかめつらしく注意した。

「えー、それって社員割とかないですよねー?」

「ございません!」

食い下がる女性に所長はすっぱりと引導を渡す。

それで、実は何でも屋の方も内心がっかりしていた。そもそもこの相談所を始めたのは、依頼人の父親に頼まれて娘の見合い候補となりうる男性を見極めるためだった。職員が客に近づくのを所長が許さないとなると、もし彼女と合いそうな男を見つけた場合、男性に退所してもらって何でも屋がセッティングして会ってもらうしかなさそうだ。何とも面倒なことである。当てが外れたどころでない、虚しさに襲われていた。なんだったら、そのデートの練習役は依頼人に任せてもらいたいところだが、そんなことを言い出せるような雰囲気が所長にはなかった。

無難なところで、やはりファンだという作家との見合いが一番優先で良いのではないかと思ったが、メールのやり取りは事前の申し出に反して頻繁に交流があったものの、お互いのスケジュールの都合で、なかなか段取りをつけられず、その前に別の女性とデートをすることになった。

その前に服装を相談したいというので、なぜか何でも屋が一緒に買い物に出かけることになった。アドバイスできる気がしなかったので、前日に事前に店に問い合わせた。予算でおすすめのものを慣れた店員にコーディネートしてくれと頼んでいたので、当日は「似合いますねー」と言っておけば良いので楽だった。

喫茶店でデートプランについても、意外にも用意周到に彼が考えてきていたので、何でも屋は相槌を打って聞くだけで、こちらが考えてきたのもは特に話もしなかった。

「やはり、結婚した方が親も安心するんでしょうね」

「さあ、でも安心させたいという気持ちがうれしいかもしれませんよ」

結婚願望などまるでない何でも屋には、親の気持ちなど知ったことではない。ただ、そうだったら良いと言う自分の願望を述べただけだ。

「うれしいか。そうですね。私も30歳まで銀行に勤めまして、いきなり議員秘書なんてやらされることになったんですよ。しかも父は癌で倒れて、まあ助かりましたけど、政界復帰の希望もなく、私に一人でやれと投げ出して。せっかく仕事が面白くなってきたところで、30歳からカバン持ち。最近つくづく嫌になっていたんですけど、世間が喜ばなくても親一人喜ばせていると思えば救われますかね。秘書になったところで、必ず議員になれるわけでもなし、有権者がお呼びでないというならこっそり去るだけだ」

議員秘書はそう自分で勝手に結論付けてカラカラと笑った。彼の父は農水大臣。総理でなかったとしても、何でも屋には雲の上のお方だが、その息子には案外親しみをかんじるものである。もちろん、彼が極端に腰が低いということもあるだろうが。

あがり症なところはあるものの、彼の見合いについては、特に心配することはないのではないかとその日は安心して別れたのだった。

ところが、なぜかそれから何でも屋は彼と数人の男性の担当になった。相談所も忙しくなってきたからいつかはそうなるかもしれないと予感していたが、まさか1年以内にそうなるとは思ってもいなかった。

さらに手がかかるのが議員秘書だとは思いもしなかった。

とりあえず、彼はデートの前も後も落ち込むのである。メールの連絡も多い。かといって、婚活パーティーにはもう顔も出さない。

せっかく念願の作家とのデートの時には、他の3人に失礼ではないかと前日に気弱なメールが届いていた。そんなこと言われても、知ったことじゃない。

―やっぱり、私には年上の人の方が合うんでしょうか?

―落ち着いた知的な方の方が、話が合うんじゃないですか?

―やっぱりそうですよね。

なにがやっぱりなのか、何でも屋はわからなかった。相談されてもわからないことを無難に返事しただけのつもりだ。そもそもその日はアルバイトの女性が10日ほど前に突然辞めて、多忙を極めていた。彼と夜にメールすることも時間外で億劫で、メールを開いたことを後悔していた。

デートの前日に相談所の人間に連絡してくるところから嫌な予感もしたのだ。

デートの数日後、議員秘書が昼休憩のタイミングで相談所に訪ねてきて、近くの定食屋に何でも屋を呼び出した。定食屋と言っても、個室である。一体、何事だろうと何でも屋は身構えた。

「スタッフの髪の長い女性がいますよね。長い髪の」

「長い髪ですか?」

「ほら、いつも後ろに一つにまとめている茶髪の20代くらいの女性ですよ」

「ああ」

彼に詳しく説明されて、何でも屋はやっと誰か思い当たった。

「実は彼女他の結婚相談所と掛け持ちしているんですよ」

「ええ?」

何でも屋は驚いて反応が少し遅れてしまった。週3以上で来てもらっていたので、他のところで同じようなアルバイトをしていると言われてもすぐには脳が納得しなかったのだ。

「アルバイトの方なんだろうし、言うのもどうかと思っていたのですが、ちょっと看過できないかなと、結局そこのお客さんとくっついちゃったみたいで」

「ええ?!」

にわかにどう反応していいか困る話である。結婚相談所というのは入会に金がかかるので、働きながらただ乗りと言えば聞こえが悪いが金持ちと結婚してやるのだと周りに吹聴して回っていたらしい。それが発覚したのは、彼女が夜に働いているホステス業で周囲にそのことを漏らしていたからというのだ。

「僕もどうも彼女に見覚えがあるという気がしていたんですよ」

「じゃあ、そこで仕事を掛け持ちしていることに気づいて?」

議員秘書という仕事柄夜の店に付き合いで行くこともあるのだそうだが、このご時世でここ2年はすっかり無沙汰になっていたので、ずっと思い出さなかったらしい。けれども、彼女の相談所の掛け持ちに気づいたのは、何でも屋がちょっと想像してしまったように、彼も結婚相談所を掛け持ちしていたからではなかった。

「いえ、じつは、そうだ、、、ええと、これを先に言っておきますね。お陰様で、結婚することになりましたよ」

「ええ!!?」

驚きすぎて何でも屋は飲んでいたコーヒーをうっかり手からこぼしてしまった。紙コップだったので、器が割れなかったのが幸いだ。

「それは、誰とですか?」

「ああ、そうか。先生とですよ、もちろん。酒好き、映画好き、読書好き、何より政治討論ができる。意気投合しまして、先生の方からプロポーズしていただきました!」

客の多い喫茶店で一目憚ることもなく、彼はそう堂々と惚気のろけて見せた。説明が端折られているが、先生というのはあの有名ブロガーの作家に違いない。しかし、彼女は彼より年下である。前日まで、自分には年上が合うと言っておきながら、もちろん作家と結婚するというのはないだろう。それにしても、1回目のデートで結婚とは、結婚相談所としては喜ばしいことだろうが、喜ぶべきだろうが・・・何でも屋の本業のまだ一度も成功しない猫の見合いと比べて、ずいぶんな早業である。

「おめでとうございます」

すぐには言葉が思い浮かばず、ずいぶん間が空いての祝福になった。しかし、幸せな男はそんな些細なことには違和感を覚えなかったようである。

「いえいえ、お陰様ですよ」

彼はあくまでも上機嫌である。そもそも他の人間と忙しい合間に見合いなどさせず、最初から作家とのデートにのみ万全に備えさせておけばよかったのだ。お互いに翌日仕事で忙しかったので、デート返りに花を買って渡して何とか恰好がつきました!なんて惚気を小一時間ほど聞かされて、休憩延長の連絡まで彼の目の前で所長に電話したが、彼の話はそれでも小半時ほど続いて、やっと本題になった。

「それで、彼女はですね。本当は流行りの婚活レポートを書きたかったので、取材に入会しただけだったんですよ。けれども、入会時にこちらに断られて、別の結婚相談所に登録したものの、こちらに未練が残って続けていたんだそうです。そこで、アルバイトを掛け持ちしているスタッフがいることに気づいたんですね。ただ、客とくっついちゃって、あちらはもう追い出されちゃったみたいですけど」

別段、アルバイトの掛け持ちが悪いということはない。同業だと倫理的にどうだと言う人やどちらかのスパイ、この場合はハッピープラスにスパイに来たと考えるのが妥当だろうが、そうであったとして彼女の働きぶりに問題があったわけでも、彼女の行為でこちらが不利益を被ったということもない。しかし、相談所に入るのは入会費が高いからスタッフとして働いて玉の輿に乗ろうというのは、何でも屋も、男として、いや、人間として何となく受け入れがたいものがある。

「うちの方10日ほど前に辞めちゃいましたよ」

会社のことではあるが、客とはいえ、彼ももう退会だし、彼女のことで心配をかけてもいけないから言ってもいいだろう。

「そうですか。じつは、彼女私にも電話番号でショートメールを送ってきていたんですよ。婚活の連絡にしてはおかしいし、多分無断でやっているんだろうからと様子を見ていたんですけどね」

なるほど、彼女の玉の輿に乗りたい執念はそこまであったのか。

「それはご迷惑をおかけしましたね」

「いえいえ、お陰様で良いご縁をいただけましたので」

彼は初対面の頃のうろたえぶりはどこに行ったかという泰然とした態度で落ち着き払ってコーヒーをすすった。それも様になっていて、これまで感じなかった良家の子息らしさを感じた。デートのスーツに全身1万円で靴まで揃えられないかと言われた時には、彼の育ちを疑ったところだった。思えば、20代や30代の平均年収がどのくらいで、どのくらいのものを身に着けるのか無難か調べて説明したところから、彼は興味深く庶民の生活を聞き入っていたのだろう。銀行で働いていた時には、なるべくなんでも早く安くすませていたというのも彼に常識を教えるものがいなかったから、安いほどいいと思い込んでいたのかもしれない。行き過ぎた庶民感覚を見直してくれれば、彼も将来良い政治家になるかもしれないと何でも屋はいち庶民として、勝手な展望を抱いた。

「私たちも良いご縁に巡り会えましたし、やはりこちらでの婚活を彼女が本にしたいと言っているのですが、ダメでしょうか」

そういう肝心な話を最後に持ってくるのも、悪くない手だと感じられた。作家の方は婚活の取材のはずが、ミイラ取りがミイラになってしまったとはいえ、本分は忘れがたかったよいだ。

「わたしが言ったところで所長の気持ちが変わるかわかりませんが」

何でも屋はそう言ったが、その場でそのことを所長に電話してすぐ、彼らの結婚話は相談所の名前を伏せてなら書いても良いとokが出た。結果、相談所が特定されても悪いことにはならないだろう。代わりに成婚組のよしみで、今年のクリスマスにも朗読会のイベントに作家の彼女が来てくれるという約束を取り付けた。

その日はいろいろな世間話にまで発展して、彼とは夕方まで話し込んでしまった。夕方相談所に戻ってから、いろいろ溜まっていた仕事を片付けなければならなかったが、徒労には感じなかった。

その後、世の中の情勢不安を理由に(多分二人とも多忙だったせいもあるだろう)、彼らは結婚式をあげなかった。時折、議員秘書から成婚組にもイベントを開いてくれと連絡が届く。まだまだ相談所にその余裕はないと断っていたが、1周年は無理でも創業2周年の記念には何かできそうだと所長も話していた。

アルバイトの女性がその後どうなったか議員秘書から妻から聞いて教えてくれようとしたこともあったが、興味のなかった何でも屋は関係ないと聞かずにおいた。

第15話 退会はコワクナイ


二月。

猫と人間の披露宴を実現するというのは、なかなかに困難な話だった。犬なら庭に繋いで置けば良いが、猫はそういうわけにはいかない。
どうにか理解を示してくれる式場を探すうちに、都内からはどんどんと場所が離れていった。
海辺のチャペルが熱心な相談所の所員たちに絆されて話を聞いてくれた時には、天の采配に一同感謝したものである。
ただし、真冬の海辺のチャペルというのが少々難点ではあった。
リンゴーン。
鳴り響く婚礼のベルの音。
本日の主役の2人はなんと、2人とも真っ白なタキシードを着ている。ベルサイユの薔薇という漫画に憧れた新婦の希望だ。ドレスのようにヒラヒラしていなければ、猫に引っかかれる心配もないだろうということだった。
猫が服に爪を引っ掛けることを考慮し、参列者の衣装は全て貸衣装である。新婦と同じく女性もドレスコードはパンツで。男性も女性に合わせて黒と白以外のカジュアルスーツにしてもらった。猫たちは一様に蝶ネクタイ。
式に参列した後は猫たちが逃げ出さないように、寒がりな猫たちはチャペルに併設されたホテルの待機場に引き上げた。参列者はも全員泊まりであるが、泊まる場所はチャペルからちょっと離れている。そんな不便さも非日常感があっていいと提案した時から新郎新婦はご満悦であった。
準備する所員たちの気苦労は人一倍であったが、感動に目を潤ませている参列者たちの表情を見れば少しは報われる。
寒空の下、真っ白な海辺のチャペルで新郎新婦が誓いを交わす。キスも指輪の交換もしない代わりに祝福のベルを二人で紐を取って鳴らすのだ。参列者にも玩具のような小さな金属製のベルが配られ主役二人が鳴らした一音を合図に続けて頭上に掲げてベルを振った。
リーン。リーン。
優しい鈴の音が、夕日の落ちかかるチャペルの丘の下の海の水平線に響いて行く。
その余韻に浸る中、ブーケトスの代わりに白いベンチの椅子に飾られた長いリボンのついた小さな花束を参列した男女で交換して渡す。
コンセプトは、この場に居合わせたすべての人と幸福を共有するというものだ。
「大成功ですね!ありがとうございます!」
何でも屋の運転する四輪駆動のジープが山道をでこぼこと走るのに合わせて、後ろから話しかける議員秘書の声が弾んだ。
「いえいえ、まだこれからですからね。とりあえず、日が暮れる前に目的地に付けそうで何よりです。お約束通り、新郎新婦のおもてなしをお願いしますよ」
「ええ、それはもちろんです。楽しみだわ!」
はしゃいだ声の猫作家に助手席の依頼人が振り返って応じた。
「これで、本番の結婚式も問題なくできそうですね」
「うーん、本番はもうなくて良いくらい満足しちゃいそうかも」
猫作家が苦笑すると、議員秘書がつられたように気まずそうな表情を浮かべた。そんな二人をフロントミラー越しに見ながら、やりすぎたかなと何でも屋と依頼人も目線を交わした。
その後は車内に沈黙が続いた。景色に見惚れている後部座席の二人からすれば気まずさは感じなかっただろう。後続のバンに乗った参列者たちが和気あいあいと持ち上がっていることも容易に想像できる。同車した所長はそういうことにおいて、抜かりはない。
何でも屋と依頼人は猫と人間の結婚相談所「ハッピープラス」の職員である。もちろん、結婚式の準備など専門外だ。
けれども、ハッピープラスが主催した婚活パーティーで結ばれた二人は、その後すぐに何でも屋たちに結婚式について相談してきた。
二人としては、志賀直哉の小説「流行感冒」のような状況にある現在、結婚式を挙げることをそれほど切望していなかった。けれども、男性の方は父が位大臣まで務めた名門の一族出身で、女性の方はブログでは名の知れた流行の文筆家でそれぞれの立場があり、周囲は結婚式するよう望む者が多いというのだ。
1回目のデートで結婚を決めたノリの良い二人としては、あれこれと式場の写真を見せられてすすめられると憧れも強まってくる。かといって、後のことを考えると大人数の結婚式もしたくないのに、結婚式場に相談に行くとどんどん話が膨れ上がってしまう。
そういうわけで、二人は出会いの場であるハッピープラスに泣きついてきたのだ。
そして、どこでどう間違って話が進んでしまったのだろう。
とりあえず今年は婚活パーティーを兼ねたプレ披露宴を実施することになったのだ。お互いの親兄弟すら呼ばなかったのは、それによって参列する親類縁者が膨らむことを恐れたからだ。それに全面的にハッピープラスに式の準備をお願いするとなったからには、お互いの家族からの余計な口出しも避けたいというのがあったのだろう。
新婦が今着替えている迷彩柄のカボチャズボンのドレスなど、確かに結婚式と言うものにある種の固定観念を持った人には理解しがたいかもしれない。新郎に至っては、自衛隊の格好のようにしか思えず、頭の固い何でも屋では二人のセンスがとても良いとは思えなかった。
親類を呼ばないだけで、猫好きの知り合い(独身限定)があつまるのだから、本当の結婚式と変わりは無い。ハッピープラスで出会えた幸せを他に婚活をしている人々に共有してほしいというのが二人の願いだったが、それは今日の結婚式でほとんど叶えられたと言える。猫の参列する結婚式なんて前代未聞だ。
ラストには愛猫を抱えた参列者たちと夕日をバックに集合写真まで撮った。
この後は、グランピングで後半の婚活パーティーが始まる。ここからが、何でも屋たちの本業だ。
いや、本業といっても、ほんの半年ほど前まで、無職のフリーターで買い物代行や猫探しを生業にし、猫の見合いの依頼人として現れた依頼人と結婚相談所を営むことになるなど何でも屋は想像もしていなかった。
助手席から降りた依頼人は、すぐに新郎を敷地内の二人専用のロッジに案内した。騒ぐ猫たちにもたもたとリードをつけて、車の後部ドアから降ろす何でも屋の不慣れさとは雲泥の差だ。
「あら、猫たちをキャリーから出しちゃったんですか?このままコテージの中に連れていくんですよ」
依頼人に言われて、すでに猫2匹を露に濡れた腐葉土の上におろしてしまった何でも屋は後悔した。
「どうしたら、良いですかね?足を拭いて、コテージにつれていきましょうか」
外観が丸太小屋のようになっているコテージは広い山奥の敷地にいくつも経ってさながら山里のような風情を醸している。風呂トイレや暖房器具が完備され、テントに泊まるような不自由さはない。外には常設の共有トイレやシャワーもあるが、真冬の寒空の中、それらを使う人はほぼいないだろう。
「営業担当二匹はいったん車に戻して、後で外で営業をしてもらいましょう。お二人の猫は渡してきますから」
三毛のセミ猫と黒猫のネコクロはそれぞれ何でも屋と依頼人の飼い猫で普段から結婚相談所に出入りして人馴れしている。もう一匹長毛の老猫を連れてきているが、身体が丈夫でないので、すぐにコテージの中へ連れていった。
新郎新婦は念願かなって、仮住まいの新居に引っ越した先月から猫を飼い始めた。二人が忙しい時には何でも屋が預かったりしているので、人馴れしているが、まだ子猫なので寒空の下に出すわけにはいかない。好奇心でどこかに迷い込んだりしたら、大ごとだ。
新婚用というべきか、一番広いバンガローには、大きな暖炉があり準備万端に熾火が燃えて、暖かく二人を迎え入れていた。新婚の二人は満足げにソファに二人で寄り添っており、何でも屋が子猫を連れていくと、嬉しそうに二人でソファに連れてきて、撫でまわした。
主役以外の参列者にも、一人一室のコテージが与えられているからそれぞれに持て余すくらいに広いだろう。テレビやネットだってあるのだ。
それでなくても、今回の参加費用はそこそこする。新郎新婦はご祝儀代で足りない分は自分たちで費用を出したいと言ったが、趣旨を理解したうえできちんとそれぞれに代価を払ってもらうべきだと所長が譲らなかったのだ。参加者は良家の子女令息ばかりだが、全員がポンと出せる金額でもない。ただ、年に一度のソロ活一人旅行のようだと自分へのご褒美として喜んでいる者もいるようだ。親に言われて嫌々参加というわけでないなら、何よりだ。
結婚式前に開催した参加者のウェディングドレスとタキシードの試着は、自分には似合わないと渋っていた人も、記念の写真をもらうと参加者同士で見せ合って盛り上がっていた。
コテージの管理人に頼んでいた鳥の丸焼きが焼きあがる頃には、遅れていた最後の参加者も到着した。
「いやあ、場所が分かるか心配したよ」
前半の式にも間に合わないのに参加できたのは、新郎のたっての希望があったからだ。親友に近い間柄らしい。
「今のナビは優秀だから、電波が届かなくても見られるのさ。あと、俺はこんな山の運転には意外に慣れているんだ」
そう言って見せた笑顔が眩しい。身の丈は6尺3寸。頭脳は明晰で、家は代々続く総合病院の令息で自らも医師で、国家に使える医療技官だ。
『俺よりもずっと優秀なやつですが、あまりにも欲がなくて寂しいやつだから、何かきっかけを与えて変えてやりたいんですよね。俺なんかが、あいつにそう考えてやるのも、おこがましいかもしれないんですが』
議員秘書は今回の婚活パーティーの相談をしながら、その男性のことを憂いて半分は何でも屋にその話ばかりをしていた。
そんな彼の話の通りの見た目上は完璧そうな男が、何でも屋に向かってお辞儀した。
『あなたが気遣ってくれれば安心だ』
そんな風に事前の打ち合わせで言われていたが、果たして出迎えに出たスタッフの何でも屋にも屈託のない笑みを見せて、友の結婚を喜ぶような男性に何か気遣いなど必要だろうか。
『あなたとはあいつの方が気が合う気がしますね』
議員秘書はそんな風にも言っていたが、今回が終わればもう二度と会うこともない人種だろうと降るような星空の下で、何でも屋は白い息をそうっと吐き出した。
日がちょうど暮れて来て、白に紺が混じりゆく空に三日月の浮かぶ夜である。

キャンプなどというアウトドアのイベントは何でも屋にとって子どもの頃以来の経験だった。

ましてやテントいらずの豪華なグランピングに至っては、その便利さ、自然を人間に合わせた都合の良さに圧倒されるばかりで、さらに自分がもてなす側ということになると、なかなか楽しむ気持ちにはなれなかった。
事前に下見はしていたので、なんとか途中まで自分の役割が進行できてホッとした。野外施設には数人以上の手慣れた現地のスタッフがいて、特に何でも屋が準備に困ることはなかった。

客は皆楽しげで、遅れた参加者もむしろ歓迎して手を打ち鳴らし、誰かはシャンパンの新たな蓋を飛ばしたりした。

「ちょうどよかった。これからショート動画を流すところだったんで、進行をお願いしますね」
技官が到着するなり、所長がそんなことを言った。計画にあった、友人からのお祝い動画なのである。模擬披露宴のついでのこの婚活グランピングでは、唯一と言えるイベントだ。
外のコテージの中庭のキャンプ地で備え付けの野外シアター用のプロジェクターを使って披露する。普通のキャンプでは、流行の映画や星の話を流すらしい。お祝い動画を作ったのは本日もしかしたら間に合わないかもしれないと事前に連絡があった技官だ。
親族の参列しない議員秘書と猫作家の模擬結婚式。けれども、本番の結婚式を挙げたくないと渋っている二人ができるだけ本番の臨場感を味わうには、友人の一人でも参加してもらった方が良いだろうと相談所の職員と新郎新婦との双方が考えていたところ、花婿と一緒に結婚相談所に登録していた彼に白羽の矢が立ったのだった。新婦の方は、既婚者の友人が多いという理由で友人の参加は見送られた。
『私は今海外にいるんですよ。でも、お祝いムービーくらい作れるかな』
相談所から彼に電話で連絡した時には、そんな風に言っていたが、その2週間後には日本に帰ってきて、こうしてこの猫と人間の婚活パーティー&模擬結婚式に参加してくれたのだ。彼が間に合わなければ何でも屋が進行をさせられるところだった。
「そうですね。それじゃ、その前に飲み物いただけますか。咽喉が渇いてしまいまして。ホットワインで。いや、まずは紅茶で後で乾杯しようかな」
「それじゃ、猫さん,,をお預かりしましょうか」
飲み物は確かに何でもあるのだが、周りの飲み物を観察してすぐに注文できるところがスマートだ。
何でも屋はつい猫にさん付けして、彼の腕の中にいた猫を預かってしまった。それくらい、落ち着いた品のある猫だった。縞模様だがキジトラ猫というわけではなさそうで、ベンガルとかどこぞの純血種の猫のようだった。
お祝いムービーでは、世界各国の花婿が知らない人たちから「おめでとう!」を言われるというつかみのくだりで笑いが起こった。
花婿はずっと「誰だよ、この人たち!」と言って笑い転げていた。おそらく20か国くらいのおめでとうの言葉があっただろう。ご丁寧に、すべてに「おめでとう」という一行の字幕がついていた。
それで終わると見せかけて、本当に彼が海外の大学に進学した時にお世話になったという先生からの祝福の言葉もあった。
『まだ見ぬチャーミングな花嫁さん、世界が平和になってあなたたち夫婦に会えることを楽しみにしていますよ』
豊かな髭を蓄えた懐かしい先生にそんな風に言われて、花婿はずいぶんと感動したようだ。周りもじーんと来ていた。
さらにそれでも終わると見せかけて、イラストで2人の出会いを再現した動画が流れた。出会いの時の言葉、デートに誘った言葉、新婦からのプロポーズを実際にみんなの前で動画を止めて言ってもらった。初めての出会いの場は、今日の模擬結婚式に参列した複数人の参加者がその場に婚活パーティーのその場に居合わせたので知っていた。ハロウィンパーティーの朗読会で「写真を撮ってください」とファンだった議員秘書が緊張しながら言ったのを、その場でもその時さながらに噛み噛みで言ったので、一番の笑いが起こった。花婿の議員秘書だけでなく猫作家も恥ずかしそうであった。顔が赤かったのは酒のせいもあったかもしれない。依頼人がナレーションを入れていた。
BBQの炭も終わる頃には、デザートだ。
事前の議員秘書の提案で、星空の中、ホワイトチョコレートの滝で果物のフォンデュをした。
新郎新婦の計らいで、相談所の3人も食べていたが、何でも屋は肉を食べすぎてデザートのイチゴ一つも腹に入る余裕がなかった。
コテージの管理人が後片付けの大半を引き受けてくれなかったら、お腹の皮が突っ張って、かがんで焚火台を洗うこともままならなかったに違いない。
明日起きて朝食会を終えたら、家に帰って寝るだけなのが幸いだ。参加者も盛り上がったいたので、明日が日曜でゆっくりできてよかったと思っていることだろう。
いや、1人だけ、キャンプが終わって翌日には、海外に飛ぶという奇特な参列婚活者がいた。
議員秘書の親友の技官である。
彼は皆がそれぞれのコテージの部屋に入った後、あの上品な猫を抱えて何でも屋の部屋を訪ねてきた。
猫に餌をやってからでないと寝られないと思い、歯磨きをしていたのが痛恨だった。
すでに寝て明かりがついていなければ、彼は訪ねて来なかったに違いない。
「外でガサガサ音がするんですよ。野生動物だと思うんですが」
「・・・熊ですか?」
このあたりに熊の目撃情報など事前に聞いていなかったが、何でも屋はにわかに緊張した。
「いえ、熊はこの地方にはいないかと。もっと小さい動物ですかね?」
言いながら、技官は許可も得ずに玄関先に出てきたネコクロを抱きかかえて撫でながら部屋に上がり込んできた。上品な猫は飼い主を奪われても平然として、スタスタと飼い主の後を追いかけ部屋の隅に置かれたビーズクッションにすぐに丸くなった。
抗議する暇もないほど、自然な動作だった。
「鹿か狸ですかね」
「多分アライグマでしょう」
「日本にアライグマがいますか?」
ネコクロが技官の膝に行ってしまい、今夜はセミ猫は依頼人の部屋に泊まることになった。手持無沙汰な膝を見下ろして、何でも屋はちびりと飲みかけのグラスの酒に口をつけた。
「元はペットで飼われていたのが、捨てられてたまたま外敵もいないくて大繁殖するんですよ。今はどこの国でもあることです。生ごみを漁っていたりするかもしれないので、見に行きますか?」
「イノシシだったらどうするんですか?野生動物は危ないですよ」
「大丈夫ですよ。僕は野生動物に強いですから」
技官は促したが、何でも屋は全く乗り気ではなかった。
「行きませんよ」
「そうですか。ほらほら、あれはやっぱりアライグマですよ見てください」
技官が窓辺で手招きしてきた。窓から覗くくらいなら良いかと思い、技官が開け放った網戸から何でも屋も覗き込もうとしたが・・・。
ガシャン。
何かが強く網戸に当たる音がして、何でも屋は窓から少し身を引いた。しばし呆然として網戸を眺めると、網戸の一部がヒトの頭くらいの大きさにたわんでいた。
その網戸にそっと身を寄せて見ると、金色に光る二つの目玉があった。熊のように大柄ではなく、誰かの猫が逃げ出したのかと一瞬ひやりとした。しかし、部屋から漏れる明かりで闇夜に目が慣れてくると、それがもっと猫より大きく丸い体ととんがった顔を持つ生き物だと分かった。
狸ではない。去り際に二本足で立って、こちらに挨拶するみたいにこくんと会釈して行った。きっと技官の言う通りアライグマだろう。
「可愛いですよね。ここだけの話、私は外国でアライグマの足の切断手術をしたことがあるんですよ」
「へえ、そうなんですか」
人間の医者は獣医もできるのかと思って感心して聞いたが、「本当はいけないので、内緒の話ですよ」と彼に先にくぎを刺された。
何でも屋はむっつりと黙り込んで、元居たテーブルに戻ると、BBQで残った酒を片付けようとした。すると、これからまた飲むと勘違いしたのだろう。
「私にも注いでください。いや、すっかり眠れなくなりましたね」
いそいそと何でも屋の正面に腰を下ろして、二人で酒を飲むことを勝手に決めてしまった。
何でも屋がしぶしぶ酒を取ってくると、テレビのニュースを見ながら技官はしばらくあーだこーだと話していた。いろいろと自分が聞いてよい話ではない気がして何でも屋は憂鬱だった。
「動物のハプニングニュースはずっと国名を出してほしいですよね。外来種が繁殖しているんだから、日本のことだか海外のことだか途中から見る人にはわからない」
全然酒に酔わない技官がそんな平和な感想を述べたところで、何でも屋は初めて賛同で頷くことができた。しかし、すぐに人懐っこい技官は個人的な事情を話し始めた。
「私は猫を幸せにすることは出来ないんですよ。なぜ私は人間の医師を続けているのか、未だに迷うことがあります」
「はあ」
初対面の素性も知らない人間に人生相談でもしたいのだろうか。何でも屋はとりあえず、寝ることは諦めて聞き役に徹すればいいだろうと腹を据えた。
「私は総理の娘さんに会ってみようかなと思って、今日来たんですよ。これまで直接話す機会もありませんでしたし。彼女と知り合えば、しばらく見合い話から逃れられるかなと思いまして。こちらの結婚相談所の登録をあいつに持ちかけられたのは、まさに渡りに船でした」
”見合いから逃れるため”に結婚相談所に登録するなんて、普通の価値観からはずれている。しかも、依頼人を総理の娘だとさらりと説明したが、もしそれを自分が知らなかった場合、他人の素性を勝手に他人に明かすのは感心しない。しかし、技官には悪びれた様子もなく、何でも屋が彼女の素性を知っていることを端から疑っていない様子だった。まあ、実際、何でも屋は彼女の素性を知っていて、総理と話したこともあるのだから、間違ってはいない。
「私はそこの実家の麦わら猫のほかに、フランスと南アフリカとチベットとベラルーシと後どこだったかな?そうか、中東だ。とりあえず、5か国に5匹に猫を飼っています。普段は人に預けていますが、その辺の国に行けばその猫たちが私を出迎えてくれるので、不自由はしないわけです。私は、幸運な男なんですよ」
つまり、港々に猫たちを飼っているということだろう。多分猫だけでなく。彼のような男には結婚相談所など本来似合わないのだ。いや、だからこそ、見合いという形式がなければ、結婚しないだろうと周りが危惧しているのだろう。
別世界の事情を話されても、アドバイスどころか驚くばかりで共感すらできない。
こんな話をどうやって聞けば良いのかわからない何でも屋は、つまみをレンジで温めたりテレビの方になるべく視線を向けたりしながら、とにかく気が済むまで彼が話し終わるのをやり過ごそうとした。
「私の家は戦前のひいひい爺さんの代から政治家でして、私の弟は弁護士で姉は大学に勤めています。私の伯父は代議士ですが、父は医師でしたので、まあ子どもの頃は兄弟みな医者になって政治家にでもなるんだろうと思っていましたが、結果医者の道に入ったのは私一人だったわけです。そこで、私は選択を間違えました」
「はあ」
何でも屋が気の抜けた相槌を打ったが、相手の反応などおかまいなしに、技官は過去か酒かに陶酔するように話を続けた。
「けれども、私がこの道を選んだのは、やはり、父に対する贖罪の気持ちがあったからなんですよ」
そう言うと、これまのあっけらかんとした口調とはうって変わって、彼は父のことを話し始めた。
彼の父は、国立の大学病院に勤めたり、国境なき医師団のように紛争地域の医療にかかわった後、医系技官の道に入った。ほとんど家にいることがない父だったが、40歳を前にある日からずっと家にいるようになった。彼が小学校高学年の時だったらしい。最初は父があちこち旅行やアウトドアに連れていって豊富な知識を披露してくれたり、料理屋ピアノやバイオリンなどの習い事を手づから教えてくれるのを喜んでいた。しかし、彼は折しもその翌年に中学受験を控えていた。姉は熱心に彼を誘ってくれたが、その姉が日本の最難関の私立中学校に苦も無く合格したことも彼にプレッシャーをかけていた。幸い、姉の学校は女子校だったので、同じ学校には行かれず、合格してからは学業の成績で比べられることはない。とりあえず、塾の模試の成績では当時の姉をずっと超えていたいと彼は躍起だった。
そして、彼の中学受験の年に、父が入院した。病気だったから、あれだけ家にいて遊びに連れていってくれたのだと、彼は幾度も父たちの誘いを断ったことを後悔したが、そのことについて家族の誰も真実を話してくれなかったこともつらかった。弟や姉は、父の病気を知らない間も思う存分父と思い出を作っていた。その事実も、彼を何となく卑屈な思いにさせていた。
「俺、お父さんと同じ大学に行くからね」
父の病室で勉強を教えてもらう時、彼は父に必ずそう言った。父は、塾の先生の誰よりも算数が得意だった。けれども、その言葉で父がどれほど喜んでくれていたかはわからない。
「猫を頼むな。お前の猫だからな」
父は病室に行くたびに、昨年から飼いだした猫のことを彼に頼んだ。子猫の時に庭先に現れるようになった猫で、見つけた時にはずいぶん衰弱していた。うちでは動物は飼わないと母が厳命していたが、弟が泣きじゃくって頼み込み、何度も病院に連れていくうちにすっかり家猫になってしまったのだった。
弟が頼んで飼ってもらった猫で、食事の面倒を一番見ていたのは母だったが、猫は一番父に懐いた。その次に彼だ。
何せ二人は病気と勉強で一日中家にいた。猫は大抵夜には父のベッドで寝ていたが、父たちが出かけていた時には、彼がおやつをやったり時には猫と一緒に昼寝をしたりした。病室で初めて父に猫のことを頼まれた時、父はそのことを知っていたのだと思った。
しかし、父が入院すると四六時中自分について回る猫が煩わしくもあった。猫は真っ黒で痩せていて見た目に可愛らしいと思えたことはなかった。彼が勉強していると、邪魔して何度も学習参考書の上に乗ってきた。部屋から追い出しても、用事を済ませると、彼の部屋の前で鳴いて訴えかける。根負けした母が、彼の部屋の前に猫が寝られるように温かいクッションを入れた段ボールを置くほどであった。それでも、猫は彼がトイレに行くために扉を開けると、するりと部屋の中に入ってくるのだった。
ある日、彼は機嫌が悪かった。些細なことで母と喧嘩して、彼だけ父の見舞いに連れていってもらえなかったのだ。塾の模試の成績が落っこちて、ふてくされて母に八つ当たりしてしまった。彼は自分が悪いと分かっていたが、素直に謝れず、家で模試の復習をすると言い張った。成績が悪かったのは、その模試の1度きりのことだったが、彼にはこれがずっと続くと思われて怖かったのだ。慰めるようにすり寄ってくる猫すら煩わしくて、部屋の外に出してしまった。
そして、しばらく勉強に没頭していたが、部屋の前が奇妙に静かであることに気づいた。最近の猫は彼の部屋以外で熟睡することはなく、しばらく経てば必ず入れてくれと鳴きだすのだ。彼は心配になって、部屋を出たが、貞一の段ボールの中にはいなかった。大きな声で名前を呼び、猫の鳴きまねまでしたが、出てこなかった。もしやと思い、外に出ると、猫は大きな柿の木の上に登って遊んでいた。
彼の姿を見ると、遊んで満足したところだったのか、すぐに木から降りてきて彼の腕の中におさまった。12月の初めの冬の時期だった。猫はゴロゴロと咽喉を鳴らしたが、その体はとても冷たくなっていた。
鼻水も出ているようだ。部屋に入ると、猫は彼の部屋のベッドの上でやはり震えているようだった。暖房の温度を上げて、猫の鼻水をふいてやりながら、彼は不安になってきた。すぐに母に連絡すべきか迷った。でも、夕方には母達は帰ってくるのだからと、うっかり居間の窓を閉め忘れた自分の罪を話すのが後ろめたくて、連絡するのを躊躇してしまった。
そして、母たちは夕方に帰ってきたが、病院はもう閉まっているので行かれないと言われた。今のように深夜外来もしてくれる動物病院などめったにない時代だった。
翌朝になると、見るからに猫は風邪をひいて衰弱していた。動物病院に連れていったら、生き延びるかは半々だと言われた。それから、彼は付きっきりで猫の看病をした。受験は目前だったが、そこから勉強しなくてもなんなく中学には合格して、拍子抜けしてしまった。彼にとっては、もう猫のことで受験会場に行くことすら煩わしいほどだったのだ。
それから猫は目に見えて回復した。相変わらずやせぎすで足取りはおぼつかなかったが、ベッドを撤去してもらったおかげで、彼のしきっぱなしの布団で猫はいつもくつろいで相変わらず夜には彼のそばで寝ていた。父の容態も途中危なかったことがあったが、春にはだいぶよくなったようだった。
しかし、ある日、学校から家に帰ると猫がいなかった。彼は必死になって探した。そして、高校から帰ってきた姉に指摘されて布団の下を見てみると、冷たくなった猫がいた。あいにくと、母は出かけていたが、姉が一緒にいつもの動物病院に連れていってくれた。しかし、猫は死んでしまっていた。
母と弟が帰ってくる前に、彼は姉と猫の遺体を庭の柿の木の下に埋めた。
そして、姉に先に頼んでいたように母と弟にも「俺が猫を死なせたってお父さんには言わないで」と何度も言った。家族の誰も、彼のせいではないと言ってくれたが、彼にはそうは思えなかった。
父の病室に見舞いに行くたびに、彼は父に嘘をついた。
見舞いに行くたびに、父は猫は元気かと聞いた。
彼は、毎回生きていた頃の猫の写真を見せた。ちょうど、その頃、父が母以外に付き合っていた女性たちとのいざこざがあって、良心の呵責は少なくて済んだ。父は家族に嘘をついていた。自分も父に嘘をつくのは許されるのだと思っていた。
そして、猫の死から数か月も経たないうちに、父が亡くなった。
父も猫も白血病だった。
「私はじつは10人兄弟らしいのです。腹違いの兄弟には、父が亡くなったときに少し揉めた女性の子どもである弟にしか会ったことがありません。国籍の違う兄弟もいます。しかし、父が亡くなった時、きっと彼の面倒をみなければならないと思っていました。まだ、弟は小さな赤ちゃんだったんですよ。しかし、そうはならずに、みな自立しています。結婚していないのは、私だけで、母は私のことも平等に面倒をみなければならないという義務感に駆られているんですよ」
彼の父は、読書好きの姉に大切にしていた自分の本を残した。英書だったが、姉ならすぐに読めるようになるだろうと考えたらしい。実際に、その通りになった。弟には、弟がうらやましがっていた万年筆を残した。彼の弟は、未だにそれを使っている。彼には、猫を預けた。夫は妻に、彼なら好きなものは欲しいとはっきり主張するだろうと言っていたらしい。
しかし、父が死んだ時には、猫はいなかった。彼は確かに譲らない性格で、父の愛を独占するごとく家に一人残っては猫を可愛がって猫を自分に懐かせようとしたつもりがないではなかった。実際に、父の跡を継ぐように医者にもなった。しかし、彼は父が望んでいるようなじぶんだろうか、そうなるのが正しいのだろうかと、未だに自問自答するという。
「父は野心家だったと当時父とかかわった人たちが言うんですよ。上昇志向が強かったと。だから、私もそうだろうと思っているんですね。まあ、周りの期待することをやってあげるのは、やぶかさではありません。それが楽な道ですから。でも議員秘書にまでなっているあいつが議員になることを渋っているように、私も素直に議員を目指そうとは思えないのです。お手伝いくらいなら良いんですけどね。」
周りの者はみな、父は国を変えたいと議員を目指していたのだと口をそろえていう。実際、そうかもしれない。確かに、彼は父に似ているかもしれない。猫の負い目があるから、父の生前の願いを叶えることはやぶかさでないと思ってきた。
だが、彼の腹違いの兄弟には、すでに上に議員になった者がいる。父は女性に家と店を持たせて綺麗に別れていた。付き合った女性に苦労させなかったことだけが父の美徳だったと技官の母は口癖のように言うらしい。ちなみに、技官の母は彼が政治家になることをそれほど望んでいない。むしろ大変になって煩わしいくらいに思っているようだ。
「政治の世界に入るなら、きちんと奥さんをもらってからにしてね!」
母は彼の女性付き合いを知ってか知らずか、彼が実家に帰る度にそう言うらしい。
この国の政治に関係する家柄において、愛人を持つことはかつてはそれほど非難されることだと決まっていなかった。むしろ、愛人を持ってでも子どもの一人を持つことが美徳であるとされる文化も一部にはあるのだ。
けれども、彼の父は結婚する前から子供がいて、結婚してからも子供が3人生まれてからも他所に子どもを作った。無論、そのことに関して、評判はよくない。特に跡継ぎの長男がいるのに、次々と愛人を持つ夫に対して妻の愛情は向かわなくなってしまった。
子どもたちは、父の生前愛人も腹違いの兄弟の事も知らなかった。
しかし、
「あの人が病気になってからが、いちばん夫婦らしい時間だった」
という母の言葉は無理からぬことだった。多分、そのまま父が生きていて愛人のことを知ったなら嫌悪感も生まれていたのかもしれないが、若くして志半ばにして死んだ可哀そうな人という思いばかりが子供たちや周囲の人の間には先行してしまう。
母のつらさは、結婚しない彼にはわからない。父は早くに亡くなったが、母がしっかりしていたので、子供たちは金に苦労せずに育った。
子供の頃には、父の死後の愛人とのごたごたで父の愛猫を死なせた申し訳なさは他の感情で紛れたが、その後大人になってまた過去の過ちが彼の胸を締め付けるようになってしまった。
短い人生を悪い政治家一族の見本らしく生きた父だが、自分のやったことはあの世では綺麗に忘れて、息子の罪ばかり恨んでいるかもしれないと技官は考えてしまうらしい。
子猫は息子を父の代わりにすることに失敗し、彼もまた一途に愛情をかけることを学ぶ機会をそのときに失敗したのかもしれなかった。
冷たい人間と思われようと、何人もの女性との別れよりも、父との死別よりも、その子猫との別れがもっとも人生で涙を流し、心の傷となった出来事だったのだと彼は何でも屋に語った。
彼、医系技官である彼は、世界中を飛び回って医療に力を尽くそうと、人間以外の動物の医療にかかわる仕事につかなかったことがむしろ父に対する裏切りのように感じさえするらしい。
しかし、彼の目的は、政治家を輩出する家柄で嫡子らしくその役目をのらりくらり適当に真っ当することなのだから、動物のお医者さんは彼の人生の目的になりえなかったはずだ。
彼は、医者になってから、ふと思い出して、動物の医師になろうかと今更ながら切望したタイミングがあったのかもしれない。そう思ったきっかけがなんだったか、本人に自覚がないくらいであれば、今日あったばかりの何でも屋などその理由を知りようがない。
何でも屋は彼の述懐を聞きながら、明日の朝ごはんのや見送りの準備があるので早く寝てしまいたかったが、技官は酒を飲みながらしつこく何でも屋に話しかけた。そのうち、明かりを見た数人の男性が同じく寝付けなかったのか訪ねてきたが、何を言い訳に使ったのか、彼らをすぐに追い返してしまった。
もしかして技官は過去の思い出話ではなく、何でも屋に他に聞いてもらいたかったことがあったのかもしれない。それが言えずに、長々と子どもの頃の話をすることになったのかもしれない。
本心では何を話したかったのだろうか。ただ、過去を思い出し気持ちが高ぶって収まらなかっただけだろうか。
あるいは、何でも屋に何か期待する言葉があったのかもしれない。それを引き出したくて話し続けたのか。
しかし、何でも屋は彼にかける言葉を考えたくなかった。馴れないイベントに疲れ果てていたのだ。眠かった。眠らず付き合っただけ、よしとしてほしい。
技官は、昨夜あれだけ深酒をしたというのに、何でも屋が朝早くに起きるとその後をついてきた。明け方くらいに机の隣で横になったから、毛布だけかけてやったのだが、やはりよく眠れなかったのだろう。
ただ、技官が相変わらずとりとめのないことをしつこく話し続けるので、何でも屋は我慢の限界を迎えそうであった。一体あなたは、初対面の自分に身の上話をして、何を求めているのだと。
しかし、深夜技官のコテージに女性が一人訪ねて侵入したようだという話を何でも屋たちの後に起きてきた依頼人から聞いて、多少毒気を抜かれた。彼が一人コテージにいたら、夜這いにくる女性がいるのだ。異性に好かれやすい男性と言うのも大変である。
もしかしら、そういうことがあるかもしれないと言えずに、何でも屋の部屋にきたのかもしれない。何もなければ、他人には自意識過剰だと不快に思われることもあるのかもしれない。いくら親友でも花婿の部屋に押しかけるわけにはいかなかっただろう。
もちろん、何でも屋としてはそういう懸念は事前に話してもらった方が不審を持たずに済んだ。はっきり言ってもらわないと、こちらから気を回すのは嫌いな性質なのだ。性格的に察しもよくない。
朝食の席で、技官は甲斐甲斐しくスタッフのように何でも屋のそばで働いた。それを見て男性たちが、朝食を作るのは男の仕事かと片付けまで率先して手伝ってくれたのはよかった。女性たちの好感もますます上がったようだ。
しかし、その気の無い技官の婚活にはならなかっただろう。どのみち、彼には各国に彼の猫を預かってくれている女性たちがいるはずだ。真面目な婚活など、彼がその気にならなければ成立しないのだ。
一方で、抜け目がないというか社交性が高いというか、男性陣とは朝のうちに名刺交換をしたようだ。友人作りというのも彼にとって悪くはないのかもしれない。
何でも屋も彼から名刺をもらった。ご丁寧に手書きのプライベート用のメールアドレスまで書かれていた。
「いつでもメールくださいよ」
と言われた。彼に何か用事があることもないと思った。しかし、黙って受け取っておいた。何せ、お客様である。
ネコクロが一晩でずいぶんと技官に懐いた。彼は猫の撫で方が的を得ていた。さすが、出会った人の数以上に数多の猫に出会ってきたというだけある。
ただ、彼と別々に車に乗せられた時に、ネコクロが身も世もなく鳴き始めたのは業腹であった。たった一日だけ会った男がなんだというのだ。常に寝食ともにしてきた自分の立場はどうなるんだ。猫とはそんなに薄情なものなのか。
三毛のセミ猫の方は、朝食の後何でも屋と一緒にコテージにいる間もずっと彼を歯牙にもかけなかった。むしろ撫でさせても緊張する風で、技官も無理にセミ猫を抱っこすることはなかった。
常日頃から愛想のない目つきの悪い猫と思っていたが、こればかりは褒めてやりたくなった。実際にこれでもかというほど、撫でまわしてやった。
「個人のメールアドレス?そんなのに、巻き込まないでくださいよ。単に何でも屋さんと個人的に親しくなりたいか、何でも屋の仕事を頼みたいんじゃないですか」
個人用のメールについては、依頼人に相談を装って見せてみた。何でも屋には理解できない男だが、結婚相手として条件の悪い男ではない。
しかし、依頼人が技官に興味を持たなかったようなのに、何でも屋は我知らず機嫌をよくした。いや、彼は結婚市場では有力株であることは間違いないが、女性にとって危険な男であるかもしれないことも間違いない。結婚したら、浮気をするかもしれないし、それ以前に仕事仕事で家に帰らないかもしれない。長く家にいるなと思ったら、不治の病になってそれを隠すかもしれないのだ。
くれるのは金だけ。そんな夫婦関係はあまりに寂しいだろう。
その点、ネコは良い。番という概念が希薄で、家族になっても愛情以上を求めない。猫の性格によっては、寝床と食い物すらあればその愛情すら求めいないのだ。猫は血筋に関係なく、気高い生き物である。猫と暮らせば幸せであると言った、技官の言葉は真理かもしれない。そして、特定の猫と暮らせない彼はその幸せにしり込みしているのかもしれない。
これで、依頼人の婿候補調べは、残り一人となった。今のところめぼしい人物は皆無で、一人は結婚を決めてしまったが、とりあえず何でも屋の仕事は調査だけなのだから、残り一人がどうであろうと知ったことではない。
独身なら良い男で結婚すると不幸をもたらす男になってその男と不幸な結婚をするよりましという考え方もあると、今回の男で何でも屋は思い知らされた。
昼近くになって、一行はやっとキャンプ地を後にした。来るときと違って、花婿花嫁は技官の車で帰ることになったので、帰りの車は依頼人と猫たちと気の置けない空間で静かに過ごせた。

第16話 転職はコワクナイ


このご時世でも、猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』の経営は順調である。
客の来ないという日はなかった。

「2人は喧嘩したの?」
相談所の所長から尋ねられて、何でも屋は首を傾げた。所長はやれやれと言う風に「まあ、私が口を出すことでもないでしょうけど」と一言だけで話を止めてしまった。そうされると、最近の依頼人とのやり取りを何だか話したかったような気がするから不思議だ。

何でも屋は、本心から分からなかったのだ。依頼人から、面と向かって「もう口を利きません」と言われたわけでもない。しかし、現状、ここ2日ばかりはそうなってしまっている。
明日は彼女の猫を預かるもとい彼女の家で猫と一緒に留守番しなければならない日であるから、こちらから折れなければならないのはわかっていた。そうでないと、今夜ご相伴にあずかり損ねてしまう。
話しかけるタイミングを朝から伺っているのだが、今日に限って終業時間になっても相談者の話が終わらないようだった。所長も家庭があるから、焦れているように見えた。
何でも屋が三杯目の紅茶を出しに行くと、依頼人・・・かつて何でも屋に猫の見合いを依頼してきて、現在も継続中の人は、いかにも機嫌の良さそうな笑顔で振り返った。
「そろそろ終業時間ですね。申し訳ありません」
顔はにこやかだったが、慌てた様子で立ち上がると、何でも屋の隣に立った。いかにも帰れと言わんばかりだが、持ってきた紅茶を引っ込めるわけにもいかないので、透明ガラスの机の上になるべく音がしないように二つのカップを置いた。
客はよっぽど咽喉が渇いていたらしく、3杯目の紅茶を火傷に気を付けながら飲み干すと、名残おしそうに看板猫のセミ猫とネコクロを撫でて帰っていった。
「ー関ですよ。知ってますか。私、偶にテレビで見るんで名前は知っていたんですけど、今は衆議院議員らしいですよ。ちょっと話が長いのはそのせいなんでしょうか。とにかく助かりました。そろそろ切り上げてもらわないと我慢の限界がきていたんです」
何だかせいせいしたように言って何でも屋を見た依頼人の顔には、ここ数日の遺恨はなくなっていた。
とはいえ、まったく気にしていないかといえばそうでもなかった。相談所では”何でも屋”としてペットの預りの相談を受けないと、依頼人に約束させられた。結婚相談所として預かって、終業後、家に連れ帰れば良いと言うのだ。それなら、依頼人も手伝える。
しかし、相談所の職員として引き受けようと、副業(本人は本業のつもりである)として引き受けようと、何でも屋自身が依頼を受けて、ついでにこうやって依頼人に手伝ってもらうことには変わりはない。内実は変わらないのに、それがけじめだという依頼人の主張には、分かったような分からないような気がしながら、反論しても結局は夕飯をご馳走になる機会が減るだけなので、鍋で満たされた腹をコーヒーで収めながら、とりあえず何でも屋は依頼人の説教ともつかぬ話を黙って聞いていた。
まず、何でも屋にペット関連の仕事を依頼してくる人物はほとんどが最初の依頼人の知り合いだ。失業して再就職のあてもなく、会社員に戻る自信もなくた何でも屋をネットで名乗ってみたところ、またま依頼人の目にとまって事実上の”何でも屋”になることができた。外出しづらい社会情勢にあって、買い物代行とか、ペットの世話とか仕事がだんだんと増えて減ることがなくなった。それだけで生活ができそうで、猫と人間の結婚相談所『ハッピープラス』で相談員の職員として働くよりずっと気楽で自分に向いていると思っているが、「自分の猫と相性の良い猫を探してほしい」という最初の依頼人の依頼も達成できていない状況で、今までの恩も忘れて何でも屋で一本立ちします!とは言い出せない。
それ以前に、最初の依頼のきっかけであるセミ猫は今は何でも屋のが一時預かりをしていて、依頼人の家に来るたびだんだんと依頼人の膝を占領する時間が長くなっていた。
話しながら足が痺れると依頼人が膝から降ろしても、目を閉じたまま膝にすがりついて頭を預けている。
依頼人の下に戻してやりたいが、病気持ちの老猫がいるからと頑なに聞き入れないのだ。こればかりは、根気強く説得していくしかない。どのみち、2日に1回はこの家に猫たちと一緒に入り浸っていた。
「今日のお客さんは、本当に話が長くて困りました。最初は、テレビで見る人だと思って話を聞いてたんですけどね。引退する前からいろいろあったみたいで、ちょっと夢が壊れてしまいました」
愚痴のような依頼人の長い話を膝で眠る猫は子守歌のように聞いている。
ぜき。何関か相談所では聞き取れなかったが、今日の客が元相撲取りであることは彼の釣り書きを事前に見て何でも屋も知っていた。
相撲取りからなぜ今衆議院議員になったのか、興味の惹かれる話ではあった。
彼は中学卒業後に相撲部屋に入った。特別貧しいということはなかったのだが、贅沢をしない家庭で九州の外に出たことがなかった。中3の時に知り合いのお兄さんが相撲部屋に入ったと聞いて帰省した時に遊びに行ったら、親方の目に留まったのだ。身体は大きい方で柔道部に入っていたので、上手くすればそのお兄さんのように東京のディズニーランドに連れていってもらえるかもしれないという下心があったのは否めない。実際、一緒に遊びに行った柔道部の友達はそういう算段だったが、ディズニーランドにはついて行ったものの相撲部屋には入らなかなった。家族が大反対したらしい。
彼の方は、親が完全な放任主義でダメともいいとも言わなかったが、自分の気持ちが決まらないうちにどんどん話が進んでいって、いつの間にか決まっていた。親は続かないだろうと思っていたようだが、共同生活に向いた性格だったようで、3年を無事に過ごした。ただ、進学した都会の高校にはなじめず、デブと言われていじめられた。学校では勉強以外することがなく、部屋に帰っても勉強時間があったので、何となく大学進学する流れになって、大学生活の間には一人暮らしも経験した。親が国立に合格したら、一人暮らしをして良いと約束してくれたのが励みになったのかもしれない。親方も部屋から国立大学の合格者が出たのははじめてだと喜んでくれたのだが、結局は親と親方の説得にあって、大学は都内の相撲部のある私立大学に進学することになった。最高学府に合格するほどの頭はなかったので、合格したのは地元の九州の国立大学だったのだ。化学が好きで理系だったが、理系だと相撲をする暇がなくなるということで、経済学部に進学することになった。その大学の理学部は難しいから経済にしなさいと親方に受験前に言われたのは、元々その大学に行かせるつもりだったのかと何だか騙されたような気分ではあったが、親が資格を取っておけば相撲をやめても食っていけるというので、大学では相撲部の稽古以上に力を入れて簿記の勉強をした。Wスクールで簿記の資格学校に通っているのがバレたときには、親方が一人暮らしのアパートに乗り込んできたが、学生相撲での優勝を条件に認めてもらい、無事優勝をすることができた。
当然のように卒業後に幕下付け出しでデビューした時には、公認会計士を目指すのも良いんじゃないかと言っていた両親は胸中複雑だったようだが、破竹の勢いで出世して幕内デビューの2場所目で金星をとると、帰省しても相撲をやめるような話はむしろ親の方からさせないような態度だった。
しかし、幕内に上がってからというもの、部屋の空気は不穏だった。新しく変わった親方陣と彼の性格が全く合わなかったのだ。それは彼だけでなく、部屋を親方が変わった途端に部屋を一人二人と辞めるものが出て、悪質な可愛がりというものが横行するようになった。その対象は幕内力士になった彼も例外ではなかった。出げいこに行かされて、気を失うまで可愛がりを超えた責めにあい、膝を負傷した。部屋の先輩からは直接そんな目に合うこともなかったが、4年も部屋から離れていたので、何となく集団生活を思い出そうと幕内に上がっても部屋に残っていたので、部屋のよくない状況はつぶさに知っていた。仲間をかばうべきか否か、いじめられている対象が自分より年上ということもあって、なかなか口に出せなかった。その鬱憤を晴らすように朝から晩まで稽古に打ち込んだ。その習慣がよいエネルギーになっていると先代の親方に褒められたので、迷いながらも何となく部屋にい続けた。部屋にいれば、悪いこともあれば良いこともあるだろう。親や親方にそう言われると、そうだろうという気がした。
新しい親方になってから、部屋には1匹の猫が来た。最初は親方の家で飼っていたらしいが、まあ、女将さんはあまり世話好きと言えない人で顔を見ることも少なかったから、猫の世話も部屋の者にやらせればよいと考えたのだろう。保護施設から引き取ってきたという猫が最初は数匹以上いて、特に誰より早く朝稽古に行くとご飯を催促する猫が彼は好きだったのだが、辞めていった力士たちがなぜか次々と猫を連れて行って、最期は不愛想な白猫の雄一匹になった。
不愛想とは言っても、それはほとんど彼にとっての印象で特に白猫が一緒に寝ている力士には愛想を振りまいていたのだが、なぜか彼が触ろうとすると引っ掻いたり、ご飯をあげようとしても側にいると口をつけなかったりした。そのくせ、彼が起きる前から稽古場で待っていて本当は親方の据わる席で彼の朝稽古を見学して、他の力士たちが続々とやってくると、仲良しの力士にご飯を催促しに去っていくのだった。
いけ好かない猫だったが、その猫が待っていると思うとどうしても朝稽古に早く起きないといけないような義務感に駆られ、そして、部屋を出ればその習慣が崩れることも彼は恐ろしかった。その頃、彼には最短で大関を獲れるかどうかの記録がかかっていた。しかし、その間も部屋ではいろいろな事件が起きて空気はどんどん悪くなっていった。親方夫婦が離婚するという話も聞こえてきた。他の部屋から移ってきた力士の素行が悪かったりもした。その力士たちに猫が、いや、部屋の仲間がいじめられたらと思うと、部屋を出る気になれず、それで一層部屋の一部の力士たちに煙たがられることになった。
本人にそのつもりはなかったが、土俵上の彼の顔はまるで鬼のようで取り口も厳しかったと語る者は多い。彼が最短で大関になることを誰も疑ってはいなかった。
しかし、場所の3日目に、何の気の緩みもなかったはずだが、相手に意表を突かれる攻めに合い、勝ちはしたが大怪我を負った。彼は怪我を隠して相撲を取り続けて、優勝したが、怪我の具合は酷かった。千秋楽の表彰式が終わってすぐ、祝いの席を途中で断って病院に行くと、相撲をするつもりなら手術が必要だと言われ意気消沈した。優勝の喜びも消えるほどの落ち込みだった。再度戻って参加した優勝祝いも記憶にない。それから悶々と日を過ごしていたが、ある朝部屋の台所に気分転換に料理を手伝おうと顔を出すと、一人の先輩力士が数人で羽交い絞めにあっていた。
「何をしよっとですか」
とっさに方言が飛び出すほど仰天して駆け寄ると、その先輩力士は気を失っていた。どうやっても意識が戻らないので、慌てて救急車を呼んでついて行った。後から思えば、その時羽交い絞めにしていた人物を部屋の他の者を呼んで捕まえておくべきだったが、その時は気が動転してして思いつかなかった。病院の待合室で、先輩力士が死なないだろうかとただただ不安いっぱいに待っていた。親方に連絡したがいつまでも来ず、先輩が気が付いたということを伝えられた昼過ぎに親方が病室にやってきた時には怒りで殴ってしまいそうだった。だが、やらなかった。
代わりに、彼は相撲を辞めた。先代の親方にそのことを伝えに行ったら、引き留められなくて拍子抜けした。
「お前を相撲に引っ張り込んだのは悪かったよな」
そう言って親方は、いろいろと胸中を語り尽くした彼の前で静かに泣いた。まだ、還暦ほどの親方が、急に20歳も歳を取ったように見えた。
先輩力士は一命をとりとめたが、死にかかっていたことは確かだった。死因になりかけたのは、溺死である。彼はご飯の煙で溺れかけたのである。そんなに飯が好きなら飯の匂いを存分に嗅がせてやると言って、顔を釜に突っ込まれたらしい。先輩力士湯気で咽喉を火傷して、退院してもしばらくひどい声になった。
彼はその事件の3日後に部屋を出たが、タイミング的には良かった。その後、彼の引退が話題として霞むほど部屋の問題がいろいろと暴露され、それが引き金となって、他の部屋の力士の問題も次々と明るみになって、相撲界は一時スキャンダルの巣窟となった。暴行して溺死させかけた力士は1人しか処分されなくて、その後相撲協会に何度も足を運んだが、後ろからでは誰か分からず、なぜ顔を見なかったのかと悔やんだ。死の縁に立たされた先輩力士は引退はしたが、相撲関連の職を世話された。自分を暴行した力士の名前について絶対口を割らなかった。騒ぐ自分が滑稽に思えて、1人処分された後は嘘のように彼の頭も冷めて熱意を失った。世間の騒動に、彼の両親と先代の親方以外には辞めたことをほとんど惜しまれなかったほどである。
「うまいことやったな」
という人も未だにいる。実際、その後の彼の人生も相撲以上にとんとん拍子であった。
先代親方は本当に彼を相撲に引き込んだことを後悔したらしく、「こいつは頭が良くて根性があるから」と紹介して、議員秘書の仕事を見つけてくれた。テレビで政治ニュースを見ては高校生の頃にああだこうだと言っていた彼の姿を親方はしっかり覚えていたのだ。
その議員とはほとんど馬が合わなかったが、彼の周りは非常に親切だった。ボディガードにいいと、冗談交じりにうちに来ないかといろんな議員から誘われた。習字がうまいということも気に入られたポイントだった。
ただ、彼は太っていることをからかわれることは、本当に嫌だった。彼の体型は相撲取りをしていた彼の誇りである。引退したなら痩せろという周囲の声を最初は無視していたが、1年経って議員会館のジムを借りて肉体改造に取り組むようになった。ダイエットは上手くいって言われなければ彼の姿を見て元相撲取りと思う者はない。事件のせいか、部屋で食べ過ぎたのかほぼ白米を受け付けなくなったのもダイエットに効果的だったが、やつれたと周囲に心配されて、毎朝パンを食べるようになり、すっかりパン食派になった。
そこまで根を詰めてダイエットできた要因には、あの白猫のこともあった。
彼は衝動のまま部屋を出た日に白猫を連れて出た。最初は先代の親方の家で世話になったので、そこで白猫と暮らしたが、すぐに親方にアパートを探してもらって猫と引っ越した。しかし、思いの外議員秘書の仕事が忙しく、白猫をかまってやれず、数か月で親方に預かってもらうことになった。白猫が白血病で弱って世話が大変になったのも原因であった。せっかく懐いてきたところだったから、断腸の思いだったが、命には代えられない。親方は預かるだけだと言ったけれど、その後白猫はあまり回復せず、死んでしまった。それが、1年という期間だった。
そのくらいの期間、我を張って一人暮らしをすると言わずに、親方の家に世話になっていればよかった。馴れない引っ越しが続いたことが猫の負担になったのではないかと彼は深く後悔した。せめて、最期は看取ってやりたかった。白猫はずっと彼の朝稽古を見守ってくれていたのだ。白猫を胸に出いて部屋を出た時、彼は辞めていった先輩力士たちの気持ちが分かったような気がした。相撲が嫌いになったわけじゃない。しかし、猫のような自分にはその環境は厳しすぎて、合わなかった。
後悔を振り切るように、彼はダイエットに励んだ。彼が発起人となって、秘書や議員たちとマラソン部を作った。朝一緒に走るだけだが、これが案外と貴重な情報交換の場になった。
30歳になった時、彼が秘書をしていた野党の政党に風が吹き、彼は参議院議員選挙に当選した。それで一期は勤めると思ったが、また風が吹いて、衆議院議員に鞍替えして当選した。あっという間の出来事であった。
風邪の吹くまま周囲の進めるまま、何が何だか分からぬままに生きてきた。しかし、もう十分である。結婚して引っ越しの必要ない家を建てるのだ。そのための貯金もある。家を建てるまではお預けと思ってずっと猫を飼っていない。しかし、もうそろそろ待ち疲れた。もう今年のうちに結婚して来年までに家を建てて猫を飼うというのが彼の計画である。
「ずいぶんと長い話だったんですね。それじゃ、話したりなくても当然だ」
―彼の伝記でも読んだのかと思うほど、詳細な話であった。初対面で議員が依頼人にそこまで話をした理由は謎だが、ちょうど誰かに話をしたい時期だったのかもしれない。人間にはそういう時機タイミングがある。
まあ、何でも屋は他人に語るほど自分に歴史もないけれど。
なんとはなしに点けていたテレビの春の特番が丸々終わって、猫たちが眠たそうにあくびをした。この家に泊まるのに慣れたのは猫だけではない。
ネコクロが何でも屋の膝を降りてちゃっかり依頼人の左側の膝をめがけてジャンプして飛び乗ると、それまで狸寝入りをしていたのか、セミ猫が飛び起きてふうッと体を膨らませて威嚇した。そのまま引っ掻いて噛みつきそうな勢いだったので、ネコクロもすぐに諦めて、何でも屋の膝に戻った。
もう猫も人も寝る時間である。

まず見合い相手候補をリストアップすることから始めた。代議士の見合い相手である。育ちは問わないというので、むしろなるべく平凡な人を探した。
いきなり海外留学の話をしたり、好きなワインの話をするような人と会話するのは、元相撲取りの朴訥ぼくとつな地方出身の30代の青年には初デートでなくともハードルが高かろう。彼自身は今はスマホで海外の要人とリモートやオンラインで外交を頻繁にしているとしてもだ。実際に外国人に会うのは心許ない英語力だと言うのが本人談で、リモートならチャットで日本語を翻訳機能を使って翻訳すれば良いが直接会うとなると自身の英語力だけが頼りになってしまう。秘書を何人も雇うのも好かないそうだ。彼が野党員だった頃の節約癖の名残なのだろう。
彼は和室のある家で三毛猫を飼いたいという夢があったので、とりあえず三毛猫の飼い主とメールのやり取りをしてもらうと、2人とデートの日取りが決まった。しかし、選ぶ段階とはいえ、真面目な代議士は一人を見定めないうちに次の人のデートを決めてしまうことに抵抗があったようである。
人は大体駅ですれ違って、映画館で隣り合い、喫茶店で語り合う。
映画館デートが定石である。代議士はどちらとも映画を見てデートをすることにした。
しかし、一人目のデートでつまづいてしまった。事前にメールのやり取りで見る映画を決めていたのだが、直前になって違う映画を見たいと相手方の方が言い出したらしい。それも母親の意見である。相手は母親同伴で初デートをしてきたのだ。しかし、彼にとっては母親がついてきたということは問題ではなかった。普通のショッピングモールの映画館でのデートであるが、相撲取り時代ほど巨漢で注目を浴びるということもないので、他人の目はあまり気にならないのだそうだ。それよりも、やはり見る映画を変えられたのが気に入らなかった。彼はもう決めていたやつを見ましょうとあくまで言い張ってみたが、それでも相手の女性が別の映画を見ると言って引かなかったらしい。
それは、アクションものの洋画だった。それを彼は前3列目の真ん中という良席で観ることになった。途中で退席するか寝れば良かったのだが、そういうことをその場では思いつかなかった。
彼は洋画ではロマンスも残酷映画も好きではない。ピストルの音が苦手なのだ。彼がそうなったのには、理由がある。
秘書時代に議員の外遊について行った時、海外で急死に一生を得た。
議員に外遊はつきものだ。彼自身は議員になってから選挙が立て続けにあったので、まだその暇はないが、秘書時代は何度かお供させていただいた。
それは最初のイギリスでの外遊での出来事だった。
永田町には議員にとって外遊の視察や要人との面会は口実で、与野党の親睦会が真の目的という人もいるらしい。それが本当かは分からないが、学生時代の同期ということで、彼が秘書をしていた議員は野党議員だったその時も、当時の与党議員と連日視察に出かけていた。
彼はといえば、大使館で相撲を披露してお互いに文化的親交を深めてこいと言われ、その通りに過ごしていた。議員が連れてきた秘書をもう一人いて、他の与党議員の秘書がいなくても事足りるくらい有能だった。
彼はせっかくの機会だからと大使館ばかりでなく、イギリス議会にも出向いた。英語は不勉強であったが、何とかなるものだ。相撲のことを言っても知っている人は少なかったが、ちょうどタブレットが世界で流行り出した頃で、昔取った杵柄で既知のテレビ関係者に自分の現役時代の土俵の映像をもらって、動画をダウンロードしていたから、それを見せると本当に同一人物かと驚かれた。試しにやってみようと言われた腕相撲で、異国のボディーガードまで叩きのめすと大盛り上がりで大使館やイギリス議会のボディーガードの間でしばらく腕相撲ブームがやってきたほどだった。彼はその頃にはもう痩せていたから、握力測定器まで持ってきた人に100kg以上の記録を出して見せたら、「信じられない」と驚かれた。しかし、それは、ちょっとしたびっくり人間扱いで、相撲自体に関心を持ってくれた人は少なかったように思う。外遊に同行する前に親方に約束した相撲のヨーロッパ巡業も実現しないままだ。
それでも、今でも交友があるくらいの知り合いはできて、イギリス大使館からはそれなりに覚えが目出度めでたい。それもやはり、イギリスが彼に対して贖罪の気持ちがあるからだろう。
彼はイギリスで地下鉄に乗って酔客に絡まれてリンチにあったのだ。
7.8年前の当時のイギリスは、テロが多発していた。未だにそうかもしれないが、特に治安が悪くてアメリカほどではないものの銃器の使われる事件も起こっていた。
彼は一人で街を彷徨うことはしなかったし、誰かが必ず彼を毎日連れ出してくれた。夜に一人で食事をしなければならないことは一度もなかった。それでも夜のバーについて行ったのは、油断だったかもしれない。それくらいの冒険は毎日イギリス人はやっているよと言われたら、そうだろうと思った。なんてことないさ。こっちでは、それが日常なんだから。欧州で10日以上も過ごすと日常的に命を危険にさらされる可能性が日本よりほんの少し高いことは彼の頭からすっかり忘れ去られていた。
外で飲むのは気持ちが良かった。いつもよりお行儀のよくない客層が多いと言われたが、男所帯に慣れていたためか外国であまり言葉が分からなかったせいかそういうことは感じなかった。彼は酒に弱くはなく、周りのペースにもついていけて、それでしたたかに酔うこともなかった。周りの人間も上品で、酩酊して醜態をさらすものもおらず、その晩泊まらせてもらうことになった男と二人で帰った。来た時と違って辺りはすっかり暗くなっていて、急ぎ足で地下鉄に向かった。暗くなる前の景色を思い出せない外国人の彼よりもそのイギリス人の方が何か怖がっているみたいに早足だった。
地下鉄に乗っている時、赤ら顔の3人組にちらちら視線を送られるのには気づいていた。
だが、彼らが電車から降りる様子を見せて、入り口付近に立っていた彼に近づいてきていきなりホームに蹴り出してくるとは思いもしなかった。
とっさに受け身をとったが、後に警察に聞いた話では相手も大学で格闘技を習っている人間たちでこちらが起き上がる前にさらに上から蹴りつけてきた。それでもすぐに何とか蹴りを払って身を起こして電車の方を見ると、ちょうど電車の扉が閉まり走り去ってしまった。
見知らぬ異国の土地で、知人は電車の中で去り、自分はどこか分からない駅のホームに残されたとすぐに分かり呆然とすると同時に、相変わらずにやけた顔でこちらを見ている3人組に怒りが湧いた。
一体どういう理由で自分にちょっかいをかけてきたのだろう。
彼は不思議に思って見返していたが、彼らは何が気に入らなかったのかろれつの回らない口調で何か言い散らかし、そのうちの一人がこぶしを振り上げて殴りかかってきた。
現役時代の時には、かち上げや張り手を交わすのが得意だった。相手の右にすり抜けるや否や相手のズボンを腰をつかんで組み伏せるするつもりだったが、相手が突進するような構えで腰を落としてきたので咄嗟の判断で両手を脇に差し替えて投げを打った。ポンと相手の身体が飛んでどんとホームの壁に打ち付けられた時には、彼自身も呆然とした。相撲取りしか相手にしたことがないので、なかなかのガタイの男がそんなに吹っ飛ぶとは思いもしなかったのだ。
ぴゅうッと口笛を吹く音が聞こえてようやっと周りに人がいることを認識し、誰かが英語で「ソルジャーだ・・・」などとつぶやくのが聞こえたが、それを英語でアイム相撲レスラーだと訂正する暇はなかった。
キャーッという悲鳴や危ない!という危険を知らせる声に振り向くと、残りの男たちが腰から刃物を抜いたところだった。
何度思い返しても、咄嗟に身体が動いたことが不思議だった。相手が近づいてくる前に、自分から向かっていった。相手は結構的確に顔や腕を狙ってナイフを振り回してきたが、二人をねじ伏せるのは一瞬だった。一人はナイフを突き出してきた腕をとって投げ飛ばし、もう一人は足を払って懐に入り方からぶつかって突き飛ばした。自分の身体も吹っ飛んだが、立ち上がって服についた埃を払うと自分の方は無傷であることが分かった。見下ろした相手は抱え込んだので頭は打っていないのはわかっていたものの肩が当たったらしく鼻血をダラダラと流していた。
やりすぎだったかもしれないとすぐに思ったが、気絶した3人に現役時代の対戦相手にするように手を伸ばす気にはなれなかった。彼が周囲を見回すと、いつの間にか周りは逃げ出したり、見守ったりしていたらしく、人垣の中で視線があった一人の男は歪なウィンクを投げてきた。
投げ飛ばされた酔客たちは肝を潰したろうが、相撲取りであった彼にとって誰かが相手が刃物を持っていてさらに銃を持っているかもしれないという危機感は相撲を取る時とは違った意味で彼の神経を研ぎ澄ませた。
ー帰りはどうしたらよいだろう。彼が放心状態で心中一人ごちた時ドンっとピストルの音が聞こえた。それがピストルの音だと瞬時に理解できたのは、彼が3人の相手をしている時に銃器のことをずっと考えていたからだろう。
ドンムーブ!そう警官は言った。威嚇射撃を天井に向かってやったのだろうと後になって思うが、その時は自分の方に撃ったのだと思って身構えてしまった。それがいけなかったのだろう。拳銃を突き付けられて、彼は警官の手によって連行されたのだった。
彼は数学や化学は好きだったが、英語は子どもの頃からからきしだった。日常会話はともかく乱暴な警官に怒鳴るように話しかけられても、半分ほどしか聞き取れなかった。それが状況を悪くした。彼は留置所に入れられたのだ。ショックだった。すぐ出られるだろうとかそんなことは思わなかった。
目撃者がいるはずなのに、ナイフを突きつけられた方が疑われて捕まえられる国なのだとその事実ばかりが頭をめぐって悶々と夜を明かした。
パトカーで連行された時には、今日は珍しくイギリスが晴れていたからいけなかったのだと思っていた。彼がついてからずっとその国はその日まで雨だったのだ。彼は雨の日は古傷が痛むのだ。
拘留は2日間。理不尽な差別。やり返さなければ死んでいた状況で彼には前科がつきかけた。警察が到着する前に相手の方がナイフを取り出していたにも関わらずだ。相手の方が怪我の程度がひどかったので、痛めつけた方が悪いという理屈らしい。3対1であったことも考慮されなかった。ただ、助かったのは議員秘書であったので逮捕すると外交問題に発展すると議員が向こうの警察を脅してくれたからに他ならない。そうでなければ、たぶんきっと刑務所に入っていた。
彼は特に不自由のない家庭に生まれ、少しのいじめにはあったものの親方に見いだされて相撲界に入り、大学まで行かせてもらい、そこそこの成績を相撲で残し、代議士にまでしてもらった。彼の人生でなぜ不満を持つ必要があると思うかもしれない。しかし、不満はなくても不足はある。
例えば、引退した時も引き留めてくれたのは母だけだったし、周りの力士とあまり仲良くはなれなかった。議員秘書時代と違って仲間はいなかったのだ。今は知り合いが増えたが、実現できないことばかりが気にかかる。例えば、相撲を引退した時には親や親方が泣いてくれたが、議員を辞めても親と親方が死んでいたら、泣いてくれる人はいないかもしれない。彼は姉が一人いるが、その姉は体が弱く、彼に何か不都合が起こった時に助けてくれる存在ではない。早く結婚しないと猫との暮らしも先延ばしだ。親は子供が小さいうちはペットは駄目だというし、どんなに早く結婚してもペットが飼えるのは5年くらい先だ。あるいは、すでに相手が飼っていれば、親の言い分など聞かずにすむ。何かあった時、どちらかに猫を預ければ絆されてくれないだろうか。いや、いっそ預かりたいと言わせるくらいにすればいい。彼にとっては、あの白猫が親方に懐いていた晩年の姿が理想なのだ。相撲取りはあまり長生きしないと言われる。自分の人生はもう折り返し地点になったかもしれないと、代議士になったとき、彼はふと思わされたのであった。
ーデートに失敗したという話がずいぶんと長い思い出話を聞かされることになった。途中で切り上げたかったが、内容が内容だけにそういうわけにもいかなかった。
幸か不幸か、途中で帰国したので寄ってみたという長々と相談所に登録し続けているとある医療技官が訪ねてきたので、何でも屋が一人で話を聞き続ける事態は避けられた。技官は代議士と知り合いだった。しかし、どういう流れか、男3人で依頼人の家に押しかける流れになり(医療技官が猫に合いたいと言ったののは覚えている)、そこに昔語り大好き人間2号の技官のおはこ話まで聞かされることになり、明け方まで眠れなかった。
そして昼過ぎに起き出した3人は、その日が日曜であったことに安堵しつつ朝食(もう昼だったが)のお礼に猫の3匹の猫の世話と屋敷の掃除に勤しんで、夕飯までご馳走になってようやく帰宅したのであった。
技官がいうには、代議士は相当な変わり者なのだそうだ。
勉強が割と好きなのに相撲界に入り、相撲が嫌いでないのに相撲をやめた。
政治に興味があまりないのに、代議士にまでなった。その地位に特にしがみつきたいとも思っていない。
婚活にしたって、相撲界にも政界にもどちらにも見合いを世話してくれる人はいるのに、誰とでも結婚する気がありながら誰にも頼まない。地元に凱旋するのは好きなのに、地元の同級生以外とは新たな知人を作りたがらない。
結婚相談所など本来必要ない人物なのだ。自分自身には一癖も二癖もあるのに、結婚相手には平凡を望む。
極め付けは、いろいろな人と会って見れば良いのに3番目の人に彼が決めてしまったことだった。
付き合ってから不満が多い。彼女が他の男を匂わせもする。仕事仲間が彼女と交流があって、あまりよくない彼女の素行を当て擦る。極め付けに彼女は結婚相談所に登録したものの結婚する気はなかったというのだ。
この相談所ではないことではない。良家の子息令嬢がステータスとして登録することはある。しかし、彼女は平凡な家庭出身の看護師で、相談所は知り合いの医師から紹介されたのだそうだった。
技官は顔がどうのというが、何でも屋は美醜についてはよく分からない。技官や代議士が整った顔立ちであるのは分かるが好みもあると思う。依然として、代議士の相談時間は長かった。つべこべ言うならやめてしまえと思うし、はっきり別の方と関係を始めた方が良いと言ったのだが、彼はもう彼女と結婚すると頑なだった。彼女の仕事に対する姿勢を尊敬するというのだ。私生活については二の次らしい。結婚相手なのに、そんな選び方で良いのだろうか。食事や他の趣味もまるで合わないらしかった。彼は魚や和食が好きだが、彼女は肉が大好きだ。
彼は雑誌のインタビューで語っていた。
「私の志は相撲から始まった。相撲界には変革が必要で、それは社会の変革を必要とするものだ。私が培われた相撲の世界の問題から私は社会に目を広げることが出来る。全ての組織は日本の代表である。相撲だけが国技ではなくあらゆる優秀な成績をおさめたスポーツが国技だ」
彼女は野球観戦はするがスポーツを自分がすることは好まない。怪我をわざわざするような格闘技は野蛮だという。
飴と鞭。試してみたら当たり前かもしれないが飴の方が効果があった。結婚しないなら別れるではなく、結婚したら結婚式をやるよ家を建てるよ家計は自分が受け持つよ、君の給与は君のものだよ、そんな風な説得が良かったらしい。
彼は自分を暗闇の中に置いて見つめ直すということが出来ない性格のようだ。トンネルを過ぎても雪国に感動しないタイプだ。
情緒は解さないのに、情にはほだされやすい。
やや、情熱。
「ああ、無情(レ・ミゼラブル)」の主人公ジャンバルジャンが、パン一つを盗んで牢獄に入ったとすれば、こっちの人はパンを初めて焼いて幸運をつかんだ。
「君の気持ちが伝わるよ!」
そう言って絶賛してくれたのは、日本の代議士様だった。水族館デートに初めて焼いたパンでサンドウィッチを作って持っていったら、えらく代議士が感動したというのだ。
「パン一つで結婚を決めちゃったんでしょうね」
幸運をつかんだはずの方が冷めていて、心細いからという理由で、相談所の所員まで彼らの結婚式に招待されることになった。
疫病の最中に人数を増やすなど、あってはならないことだが、新郎側の山積者に新婦側の人数を合わせないといけないというのだから、仕方がない。
彼女は前の会社が合わなくて失業したばかりだった。式に呼ぶ会社関係者もいなかった。そして、結婚式で無職であることを聞かれるのを億劫がっていた。
結婚式なんてしたくない・・・と彼に言えなくて・・・という愚痴を延々と1時間以上、結婚が決まった報告に来た相談所で話して帰った。
話が長いのは、すでに似た者夫婦である。
技官も参列して、同席だった。
「ああ、あの人は厚生労働大臣で、彼は大使館勤めで日本に帰ってきている人で・・・」
参列者がだれかいちいち教えてくれるので、何でも屋たちは大変助かった。
ただ、君も早く結婚したまえと結婚式にかこつけて若い娘さんを紹介してこようとする人たちに、
「ここの席は独身同盟を組んでいるんですよ」
と説明してかわすのは大変迷惑だった。何でも屋は結婚に興味はないけれど、絶対に結婚しないと決めているわけではなかった。隣の依頼人も迷惑そうであった。さらに、相談所の所長などは既婚者であるが、その科白を聞いた時には盛大にむせていた。嘘をつかれたら困ると思ったわけではなく、”結婚相談所に人間が独身同盟を組んでいるという”のが冗談にしても洒落が効いていると笑いのツボにはまってしまったようだった。たくさん美味しい食事を食べたいと言ったのに、席を仕切るアクリル板に吹きかけた息で靄ができて食べる手が度々止まるほど笑っていた。
「ねえ、二人とも同時に、相談所で独身同盟を卒業する気はないの?」
特に知った人もいない結婚式で形ばかりに着飾って、辛気臭い顔でもそもそと食事をする二人を所長は笑いながら見た。
「それは、僕も興味があるな」
技官も興味津々でフォークで刺したラディッシュを空中に止めた。
二人は互いに目を見合わせたが、特に何も言うことなく、目の前の皿の料理を片付けることに終始した。
その後は、所長も技官も何も言わなかった。


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