見出し画像

【連載小説】日本の花嫁 Ⅰやがて社長 ①幸福な時

 隅々までできる限り掃除の済んだ建物の2階の窓から外を見れば、何かを刈り取った坊主頭の畑が一面に広がっていた。人口1万1600人のこの町に必要不可欠でもない事業を立ち上げようと、長く空き物件だった建物の2階を借り受けて、明日にはもう娘一人で仕事を始めようと張り切っていた。
「お母さん、ここからなら下の通りもよく見えるし、下からもここの明かりがよく見えるじゃないの」
「学校も近いし、目立つ場所かもしれないね」
1階は空き店舗のまま裏の畑の草刈りばかりが綺麗に施され、中の方は一面のガラス戸からよく見えるように、無人どころかずいぶんと荒れた様になっている。大きな通りを二つ挟んで中学校。ラーメン屋が目の前にあり、怪しげな占星術の看板がもう20年以上立っていた。
「ここを持ってよ。一人じゃ貼れないから」
 安物のA4印刷用紙に一字ずつ大きく印字して、”体験授業受付中”と張り出せばそれだけで学習塾と分かるという寸法だ。10年来学習塾の講師として働いてきた娘は、完治不可能な難病を患っていると分かり、2年前に手術をした。病状は命にかかわるとは言えないまでも一進一退を繰り返し、もともと頑固で融通が利かない性格も手伝ってどこでもうまくやれずに、とうとう個人で塾をやると言い出したのが、1か月ほど前。
 夫は自宅でやればよいと言ったが、娘の希望の通り机や椅子の10脚以上入る部屋を借りたのは、母としてできる限りの配慮だった。
大病を何度も患って、娘が手術する先年には、自身も二度目の咽頭癌で舌を3分の2失って、ろくに娘と話すこともかなわなくなった。
  身体は常に倦怠感に苛まれ、怒りっぽく、好きで作る料理の味も分からない。
 団塊世代の下の60代の最期の年。母の手助けもろくに借りられない孤独な、病身の娘のために、母娘いつどうなるとも知れぬのに、わざわざ建物を借りて、机や椅子など新調して、何が満足なのだろう。
しかし、開け放った大窓の風を受けていると、精いっぱいの掃除の後に胸いっぱいの達成感がわき起こってきた。曲がらずにできた張り紙の文言はどれも悪くない。
 いい歳をした娘を甘やかす母親を思われても仕方ない。
 この一か月、娘と一緒にこの建物に掃除に通い、長く使われていなかった和式トイレの掃除や床磨きにワックスをかけて、何もすることがないという日々からは解放されて、いろいろと娘に意見して叱られながらも、身体の疲労とは裏腹に、リンパをとって引き攣った頬が少し力を取り戻してにやけた笑顔を作っていることの自覚はなかった。そういう笑顔は他人には分からないまでも、身体の疲れをしばし忘れさせるものだった。
「ここが今日からわたしの城ね」
病身ながら母娘ともに、明るい輝きに溢れている。元来の根性曲がりや呪われたような病気ばかりの境遇も関係がない。その時々に何かよすががあれば、過去の不幸は忘れて、ありのままの今を受け入れて、彼らは現在、幸福であるに違いなかった。

よろしければサポートお願いします。いただいたものはクリエーター活動の費用にさせていただきます。