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【連載小説】日本の花嫁 Ⅰやがて社長 ②やがて社長

「まだ生徒さんは・・・誰もいなくて・・・そうね」
娘のいなくなった明日からの教室で、母の江子は友人からかかってきた電話で暇をつぶしていた。病気で舌を切り取ってから発せられる自分の言葉がうまく形をなさずに、相手に伝わり切らぬことを知っているから、自然と相槌役になってしまうのが常だが、娘が地元に帰って学習塾を始めようとしていることを友人にはつっかえつっかえ話さないではいられなかった。

しかし、友人が電話越しに聞きづらかったのは、江子の話し方のせいばかりではなかったようだ。

「岡本さん・・・テレビつけてない?ちょっとテレビの音で聞き取りづらくて」
指摘されても、その部屋にはまだ棚と椅子と机しかない。江子がもしやと自分の耳鳴りと思っていたものを確かめると、スマホの動画が自動再生されていて、電話しながらその音声が流れていた。

「ああ、もう聞こえなくなったわよ」
あたふたとどうやって動画を消すのかスマホを触ってみるうちに、動画の音は途切れたようだった。

「いやだな。なんの動画だったんだろう。不快だったらごめんね」
60代も終わる高齢に差し掛かると、短大の同級生の二人は機械にはとんと疎くなるが、お互い同世代の子もいることで、スマホの機能のことについては何となしの知識はある。上手くは使えていなくても、それでどちらが恥ずかしいという思いをそれほどしなくて済むのも同世代の気安さだ。

「ううん。たぶん、ネット記事のニュース動画に触っちゃったみたいね。もう何十年も前の集団結婚式の事をやっているのよ。まだ被害が続いてたのね」

「ああ、そうなの。大変ね」

江子は数年前に難聴を患い、左耳がほとんど聞こえない。また、右耳の聞こえもよくないので、何かネットのニュース動画がスマホで流れてしまったことしか分からなかった。そのまま聞き返さず適当に相槌を打つと、友人はしばらくそのニュースがらみの話をしていた。若くして海外に嫁ぎ、何十年も奉公人のような暮らしを強いられるのはどんな気持ちだろうか。思いやり深い友人は悲しそうに話していた。これを娘に聞けば、正義漢が強いから話が終わらずに憤懣やり方なく、江子が叱られているような気持ちになるに違いない。事件のあらましについて、娘に聞くのは藪蛇だからやめておこうと江子は思った。

「それでうちの息子が会ってもいいと言っているんだけど」

「娘もそう言っていたんだけど、こっちに帰ってきて、生活が安定するまではそんな気になれないかもしれないね」

急にこちらに帰ってきて、一人で塾をやると言い出したのだ。元の職場で何もなかったわけではないだろう。しかし、傷心しているというより、今はそれなりにやる気に満ちている。見合いをするよりは、これから仕事をどうするかに気持ちが向いているようだ。それでいいと江子も思う。周りに合わせて仕事をすることができないのだから、一度一人でやってみることだ。江子が出した金が無駄になっても一つ冒険させたというあきらめもつく。ただ、途中で投げ出さないかは気がかりであった。

ちょうど会話に一区切りついたくらいに、階段を上ってくる娘の足音が聞こえた。サンダルでペタペタと足元がおぼつかなげに歩いている。コンビニでたくさん買い込んだのだろう。最近、庭先で拾った子猫が気になるから早く帰りたいと言っていたのに、掃除が終わって、明日から使う教室を見回すと感慨深いようだ。

「昼ご飯たくさん買い込んだんでしょう」

「そんなにたくさん買ってないの。お母さんに、プリンとコーヒーを買ってきたからね」

「ありがとう。じゃあ、乾杯しましょうか」

「ん?」

江子の「かんぱい」の発音が上手くできておらず、聞き取れなかったようで、コンビニの袋から中身を出しながら、不思議そうに母を見た。江子は苦笑して言いなおそうとは思わなかった。娘も明日から一国一城の主だ。前途は明るくはない。ただ、窓から差し込む春の陽気は心地良かった。

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