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高校の教科書から文学が消えていくなんて・・・


令和4年度から高校の国語が変わるようです。

細分化されていた教科書が2種類に分かれます。

・現代の国語:読む教材。報告書や企画書、法令文といった論理的・実用的な文章 ※

・言語文化:言葉の理解を深める。近現代の文学や古典作品を掲載

現代文を全然掲載しないわけじゃないんだとホッとする反面。高校の国語の先生は、報告書や企画書や法令文を体系的に教えられるんですか???という疑問符がものすごくつきました。なんか、社会の先生の仕事のような気がします。

1.「現代の国語」から文学がなくなる

プレゼンテーション能力の育成って海外の真似なんだろうなと思いますが、日本は識字率高いんですよ。プレゼンテーション能力が高い人が採用されて出世する平等な社会ならそういう教育も有用でしょうが、まず、私が塾講師をしていた時の実感では作文が書けない子が増えていましたよ。文章を作れない人がどうやってプレゼンテーションするんですか?まあ、私は就活の面接は全然ダメだったので、私が吠えたところで、説得力ないかもしれません。

高校や大学の入試問題でいえば、たしかに説明文の方が悪問は少ないという印象です。私は、偏差値60以上を目指すならまず説明文が完璧に溶けるようにと指導し、接続詞の「しかし」「だが」「つまり」などを重要視して教えていました。私自身は、学校の教科書で評論を面白いと思っていたこともありましたが、同世代の子たちにそれで話が通じたためしなんかないですよ。同級生は漫画ちびまるこちゃんの作者のエッセーは読んでいても、群ようこさんの随筆すら読んでいる人は少なかったです。もちろん、阿川弘之さんなんて学校の先生にも通じません。

そんな状態で、評論文ばかり学校の先生に教えろと言って、先生たちのモチベーションは上がるのでしょうか。随筆文すら、小説の代わりに出題すると正答率が途端に下がっていたんですよ。問題の出し方と、子供たちの読むモチベーションの違いが出るのだと思っていました。本文が面白ければ、テストの後に子どもたちは話しますからね。

文学作品の取り扱いを少なくすることについては、以前から決められていたようですが、私は知りませんでした。よく現場の先生たちは反発しなかったなと思います。多感な子ども時代に、たとえ高校生でも、みんなの前で大きな声で発表しなさいとか、絵が苦手な子に新聞みたいなものを作りなさいとか押し付けることに疑問を感じなかったのでしょうか。

ある県では、高校入試の文学の部分は随筆しか出題されないというところもあります。公立高校入試に面接が導入され、推薦入試が多くなった今は、入試でプレゼンテーション能力が問われる課題が出されることもあります。しかし、その選考方法は極めて恣意的しいてきではないか思うこともあります。

私は中高一貫校の導入はおおむね良いことなのではないかと考えているのですが、実際は私立中学入試のような学力選抜が課されており、さらに面接となると、似たような子ども、いわゆる元気の良い生徒ばかりが選ばれる印象を受けていました。難しい私立入試の選抜を突破した子どもが中高一貫入試に受からないなんてことがあるわけです。もちろん、学力テストで実力をたまたま発揮できなかった可能性もあるのですが、塾で面談をするときに若かった私は「おたくのお子さんは優しくて話し方がおっとりしているので、中高一貫1本の入試は万が一落ちた時がショックを受けないか心配です。どうしても一本でいくなら、はきはき打てば響くように話せるようにならなければならないような気がします」とは一度もはっきり言うことができませんでした。私が勝手に憶測で考えていただけですからね。でも、私は人前に出るのが好きな子どもでしたが、話し方は返事が他人より1拍遅れていると言われていたので、中高一貫は身近にあって受けても落ちただろうなと思います。

おっとりした子は駄目だなんて世の中になってほしくないです。大学入試は、面接が苦手なら学力で勝負すれば良いでしょうし、就職は資格取得で勝負することもできます。私は資格をこれといって持っていないので、失敗したなあと思っていますが、周りには資格を引っ提げて、面接では奮えて一言も話せなかったものの入社できたという人もいます。

プレゼンテーション能力が必要な職種自体とても限定的ではないかと思うのです。

ましてや、語彙力の低下やいわゆる”てにをは”の使い方、助詞助動詞の使い方すら悩む子どもが増えているのに、なぜに説明文と物語文の教科書を分けるのでしょうか。仮に科学者が自分の研究についての思い出と成果を文学的に語ったら、それは文学だから「現代の国語」には載らなくて、「言語文化」になるんでしょうか。たとえば、ムツゴロウさんみたいな人ですよ。科学者で文学者、その見解の書き方が文学と混ざっている人は分類が難しいから、高校の教科書には載せないんでしょうか。高校生が興味を持って読めそうな話がたくさんありますけどね。養老孟司さんや斉藤孝さんみたいな人は、現代の国語なのか、言語文化なのか。

それに一つの研究分野に書かれている説明文は、専門用語が多くなりがちで日常語の参考にはならないでしょう。そうすると、使える説明文って限られてくるんですよね。比べて、文学は掲載の可能性は無限大です。

今は学校の通知表の5教科に「積極性」というよくわからない項目がありますが、興味関心をひく教科書でないとたとえ高校生であっても、学ぶ意欲は減退すると思います。

第一学習社という出版社は「現代の国語」に5つの文学作品を掲載して、検定に合格したそうです。「夢十夜」「羅生門」「城之崎にて」だそうです。現代というにはずいぶん古いなと思いますが、まあ、従来と変わらないということでしょう。学校の先生はどこの教科書を使うか興味深いですね。他の教科書出版社からはもちろん反発の声が上がっているそうです。

外国語を学ぶときは、主語目的語副詞などの概念が出てきますし、古典にも出てきますが、その辺の現代文法の教育は中学で終わりという考え方になるのでしょうか。内容が詳細にわからないので気になります。さらに英語力が下がったりしないでしょうか。

昨年までの話ですが、英検2級はパターンで解けるけど、模試は英語の偏差値が50いかないなんて高校生がざらにいましたよ。つまり、単語を知っていても文章は読めないし、単語をよく知らなくて話せないけど、何となく聞けるという子どもが増えているのではないですか?

2.ロートレックの宣伝力を見ると「芸術」はプレゼンテーション能力において大事だと思う

何にでも広告のつく世の中になりました。広告文は言われるまでもなく、プレゼン力が大切だというのは容易に想像できます。しかし、芸術的なセンスも必要ではないでしょうか。

文春オンラインのロートレックの記事が興味深かったです。

カフェ・コンセールという店の宣伝ポスターについての考察が書かれているのですが、なぜこれほどこの絵が印象に残るのかという点でなるほどと思わされます。

1800年代の後半はヨーロッパで日本芸術について知られるようになったそうで、ロートレックも日本に影響を受けて版画を作ったそうです。

このポスター一つでお客がたくさん来るようになるというのなら、費用対効果は抜群ですね。

現代でも心惹かれる写真や絵や文学や漫画やアニメにつられて、とある観光地やお店が聖地化するということがあります。

そういったものの影響をロートレックによってまた見直さなければならないのではないかと思います。

大体、綺麗な絵だなと思うものにこうして私のような素人がいろいろいうのも無粋でしょう。

本物が本物の人間の感性を育てるということがあります。

たとえば、広告代理店や出版社がプレゼンテーション能力の高い若者を欲しているのか?とも考えてほしいですね。

現代は同じ人が就活で何社も受かりやすく、どこでも同じような人材が必要とされがちだという側面もありますが、私のように辞める人間も多いので、会社で粘り強く頑張れて周囲に必要とされる人材というのは入社してからわかってもらえるのだと思います。

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