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東と西の薬草園 10-④

 いちごが頬を染めはじめ、恋が熟すまでもう一押しだ。進級した子どもたちが、クラスメイトに片想いをはじめるのだ。
 甘い香りにGW明けの5月が憂鬱だった学生時代を思い出すだろう。周囲の青くさい実りの甘酸っぱさをキシリトールのガムを噛んでゴミ箱に捨てていた。

 昨年植えたイチゴの苗のそばに、へびイチゴが生えてきた。葉っぱがあまりに似ていない。貸庭では雑草取りを徹底していない。草の生えていない庭は足元が寂しいと庭師でガーデニング講師の野人がいうからだ。
 イチゴの実りがよいように昨年種をまいたルリジサがよく草丈を伸ばし、黒いくちばしの青い鳥が羽を広げているような小花をつけている。その小鳥の口の中に次から次へとミツバチたちがぶんぶんと羽音を響かせて入っていく。ルリジサはイチゴのコンパニオンプランツとしての役割をよく果たしていた。

 未熟な赤いほっぺをよそながらに真っ赤な実を毎日摘み取っていく。そして、冷蔵庫に閉まって、何日も放置して、傷んできたところを慌てて朝ごはんに供する。水洗いしただけの雑な扱いだ。食べるのは毎日2、3粒。それが1週間も続けば、いちご料理のレシピを調べて調理をしないと飽きが来るなとわかってしまった。

 けれども、まだ、遥はいちご料理を作る気になれない。ぐだぐだイチゴに思い悩んでいるうちにGW直前となり、ゆっくり家で一人お菓子作りをする暇はますますなくなっていた。

 一方で、イチゴに対するその物思いを打ち消すように遥は毎朝フレッシュミントを鍋いっぱいに煮込んでいた。

 魔女の鍋はミントの匂いがしたに違いない。沸騰して茶緑になった鍋をのぞき込む。
 遥は最近、起きたら庭に出てミントを摘む。鍋に入りきらなかったミントはよく水洗いして、虫がついてないか確認して台所の片隅に置いてある平たい竹籠に投げ込んで、乾燥させていた。煮込んだ分のミントは除虫剤に使うのだ。
 今年は手抜きでミントをたくさん煮込んで濃い香りに凝縮し、その汁を噴霧タイプのスプレーボトルしていた。ミントに含まれるメントールは虫に対する忌避効果が期待できるとされていた。ミントだけでは心もとないと思う日には刻んだ唐辛子やお酢も加える。そうしてミント汁をつぎ足しているうちに、スプレーボトルの中の除虫剤の臭いは濃くなって、育てている野菜苗や花たちに振りかけるときに油断して顔が近いと刺激に鼻や目がやられそうになる。それで自分が住むコテージの周りの植物の除虫は間に合わせてつつも、貸庭では実験的に霧山酒造が開発中の天然除虫剤を試していた。薔薇など徹底的に病害虫の排除が必要な場所は市販のもっとがつんと効くものを使用している客も多かった。

 ミントを煮込む間に並行して、再び庭に出て手作りミントの除虫剤をまいたり、朝ごはんをつくる。 

 その日の遥の朝ごはんは塩漬けしたレモンバームの葉のおにぎりだった。レモンバームを混ぜた塩は青紫蘇と変わらない味がした。おかずは昨日レストラン『かえる亭』でカエルからもらった旬のタケノコと牛筋の煮込みだ。ミントを摘むときに庭から山椒の葉をちぎってきた。それをタケノコの上に飾った。飲み物は、もちろん紫蘇と柚子味のフルーツフレーバーティーだ。
 食べ終わったらよっぽど自分から薬草くさいにおいがするだろうと思っていたら、口から腸まで消化管の隅々まですうっと清涼感が体内に漂っているような気がした。意図せずに、今日は特に一日中口臭・体臭対策ばっちりの体になったようだった。

 遥は朝ごはんに使った食器を洗いながら、壁掛けの時計に目をやった。午前6時半。後、30分で支度をしなければならない。

 遥は先日マクラメのバッグを編み上げた。壁にかけたそれにドライフラワーとドライにしたハーブを枝ごと詰め込んでいる。部屋中がハーブの香りで満たされていた。

「おはようございます」

「あら、ハルちゃん。おはよう。ちょっと早く来すぎちゃった。今から準備してもいいかしら」

「ええ、どうぞ」

夕(ゆう)が到着した時に、遥はちょうど貸庭の隣の冨居家の屋敷で見事に咲き誇った薔薇のエリアに佇んでいた。庭作業の道具を運んでいるふりで、実際には夕がもうすぐ来るだろうと様子を伺っていたのだ。「前日の午前中から準備をはじめていいかしら」と夕に言われたときに、きっと朝早くにやって来るだろうと予想はついていた。

 明日の土曜は貸庭のイベントだ。今回はイレギュラーで準備も霧山酒造に任せた。概要については、事前のやり取りで確認済みだ。

「うわあ、これだけ風船が浮かぶと圧巻ですね」

 翌日の午前9時過ぎには会場の設営は大体整っていた。夕と同じように気の早い客たちが続々と集まり始めていた。春になれば、日が昇ってから日暮れまで貸庭の隣の冨居家の別荘の庭は見学無料だ。手持ち無沙汰もなく、客たちは庭の花を好きに眺めていた。

 遥が見上げていた視線を地上に戻すと、周囲の人たちが楽しそうに空を仰いでいる姿が見えた。貸庭の花壇から地上4メートルのあたりにタコ糸で地面にくくりつけられた色とりどりの風船が赤青黄色緑紫桃色と色とりどりに浮かんでいた。

「今日は花祭りよ!」

このイベントを企画した夕は満足げに、緑の手組合のスタッフ総出で来た人に花を配った。

「そろそろいいんじゃないですか。だいぶ花も行き渡ったようですし」

「そうね。じゃあ、1番から10番までの人こちらに並んでくださーい」

 午前10時少し前に、夕が拡声器で声を張り上げて客を集めて柵の前に並ばせた。柵の高さは1.2メートルもあり、普段の貸庭で区画を区切るようにこれほどたくさん並べられているものではない。貸庭の花壇に客が入らないように、夕が考えてくれた措置だ。その貸庭の上に浮かぶ風船。

「では、私がホイッスルを吹いて合図したら一斉に花を飛ばしてくださいーい」

 柵の前に並んだ10人の大人が、おもちゃのパチンコを構えた。

「それではいきますよー。よーい」

 夕の吹いたホイッスルが森の奥まで響き渡ると、パチンコから一斉に10本の切り花が飛んだ。その枝の先はとがっていて、一人の客のパチンコから飛んだ花が命中すると黄色い風船がぱちんと割れた。

「おめでとうございます。こちらのお花をどうぞ」

 まさかすぐに命中させる人が出ると思っていなかった遥は慌てて花を私にいった。スターチスをふんだんに使った一抱えのドライフラワーの花束だった。しかし、生花の方がよいと言われて慌てて手のひらサイズの花束ボックスを取りに戻って交換した。湧水が、デザインした紅茶缶の割引券も渡す。紅茶缶を直接プレゼントする案もあったが、ほしい人が繰り返し参加すると運営に支障が出るのではないかということで却下になった。

 本日の催しは花で風船を打ち抜く催しだ。なんでも、昔のおもちゃのパチンコを使ってイベントができないかと夕が10年来温めてきた企画らしい。一体何を飛ばすと盛り上がるだろうかと悩みながらよく飛ぶパチンコがないかとことあるごとに探し求めて、本日使うゴムパチンコに数年前に出会ってとりあえず30セット買って保管してあったのだそうだ。

「やっと陽の目が見られたわ!」

 夕はご機嫌だ。パチンコ集めは家族のだれにも理解されていなかった。おしゃべりの夕には珍しく遥以外には話していなかったことだが、夕は20代の頃狩猟免許が取りたかった。しかし、霧山の先代である父に反対され、父も祖父も狩猟をするにもかかわらず、夕はやらせてもらえなかった。「猟犬は飼うな」と亡くなる前に父に遺言されたのもあって、狩猟免許は取らないままだ。その未練が別の方向に向いたのか、30代から夕は的あてゲームにハマった。飲み会でやってみたダーツが楽しくて、それが高じてパチンコにも興味が湧いたのだ。けれどもパチンコというとどうしても野蛮だとか賭け事を連想されてしまうために子供の親としてよくない遊びだと若いころは夫と喧嘩の種にもなっていた。

「母さん、当たった人がいてよかったね。俺は全然ダメだったけど」

 息子の霞が「お花のパチンコ大会」に張り付いている夕に話しかけてきた。パチンコしない客には、ピザつくり体験も実施していた。とはいっても、具材を選んで焼くだけだ。霞は本日そちらの接客に当たって、ピザが焼けるのを待つ間気分転換に見学と参加に来たのだった。

「貸してみなさい。ほら、当たったでしょ!」

「すごいですね」

 手放しで褒めたのは隣にいた遥と香だ。

「母さんは年季が違うからね。凝り性なんだよ」

 息子の嫌味にも今日はかちんと来なかった。健全なパチンコ遊びをやっと思いついたと夕は感慨深かった。事前のシミュレーションで風船を何個割ったことか。痛快で、楽しくて仕方なくて、化粧が落ちるのも気にならない。

「凝り性といえばねえ。ハルちゃんもすごいじゃないの。アイディアをだしたお茶がすごい売れ行きなんでしょう」

 霞たちの後ろから割り込むように話しかけてきたのは、霧山酒造の従業員だった。ピザが焼けたと呼びに来たらしい。それ自体はよいのだが、それからその日のイベントが終わるまでずっと遥たちに引っ付いて話しかけてきた。そして、客がはけた後の1時間の打ち上げのティーパーティーでも遥の隣の席に陣取ってきた。

「私、割と海外のインスタとかYouTubeの動画とか見るのよ。いろいろ意見があって、大変みたいね」

 すぐに何の話題をされたか分かったが、遥は返事に困った。「何となくは知ってますけど、私は海外の反応とかよくわからないので」と曖昧に濁して答えるしかなかった。
 遥が味の大元を考えて新発売したフルーツフレーバーティーの売れ行きは1ヵ月たっても好評だ。特にヨーロッパでは柚子皮の砂糖漬けを使った米粉のマフィンのレシピが人気である。米粉だとグルテンなど関係ないので、混ぜすぎても失敗がない。ナッツやほかのドライフルーツを加えるというアレンジも簡単だと日本のショコラティエが自身のYouTubeの動画で紹介したレシピが数日のうちにヨーロッパの料理好きのインフルエンサーのSNSで紹介され、元の動画の再生回数もこれまで彼が出してきた他のレシピ動画とは比較にならないものになっていた。

「いやよねえ。どこの国でも妬みやっかみというものは。米粉のマフィンはわたしもハマっていてね。作ってみたのよ。最近は毎日それよ」


 飲料メーカー山鳥の紫蘇と柚子茶はもちろんのこと、このマフィンレシピによって薬草茶には米粉のお菓子が合うということが俄かに好事家の間で提唱され始めたのだ。日本食が健康的だというイメージを持つ人達が海外には一定数いるようだ。実際遥が考案したお茶は少なくとも体に害はないであろうと自負しているが、あまりに効果を喧伝されると不安な気持ちにもなる。

 おまけにその女性の言う通り、日本の新商品の好評ぶりに茶々を入れる意見も出てきた。

 紫蘇柚子茶が『マロウブルーの劣化版』という批判がイギリスでXにポストされると瞬く間に炎上した。あげく東の紫蘇柚子湯と西のマロウ茶の効能が比較される始末。日本では葵(あおい)と言われる薬草の数種類のうち、赤紫の花で作られるマロウ茶はレモンを加えると夜明けの色に変わる。同じように柚子シロップを加えると紫蘇柚子茶も明るい色に変わるが、マロウ茶ほど劇的な変化ではない。しかし、目で楽しむだけがお茶のだいご味ではないのだから、マロウ茶とは風味が全く違う紫蘇のお茶をそこまで声を大きくして比較する人が出てくるとは遥は予想もできていなかった。

 曖昧に濁しても本当は最近の遥のお茶に対することのてん末は知っているので、聞きたくなくても相手の話は耳に入ってくる。おかげで、打ち上げはちっとも楽しめなかった。カエルは夜まで引き止められて『かえる亭』で引き続き飲み会に参加したが、遥は野人と霞と香と冨居家の面々と貸庭の別荘で夕食を別にともにすることになった。

「どんなに流行ったとしても、これは一時的なもの。煎茶が一般的な紅茶を超えられるわけではない。それほどのブームにはならないままだ。ましてやコーヒーが主流の世の中を変えられる力はないよね。喫茶店で飲むものは、コーヒーと決めている人たちに、どんなに良いものだとしても、このお茶を進める事は、至難の業だと言うことさ。同じようにマロウ茶こそ本物だという人たちに紫蘇と柚子ピールのお茶の良さを説いても通じないよね」

 夕食の席で、霞が突然そんなことを言い出して、遥はドキリとした。霞の意見かと思えば、どうやらスマホでネットの評判を読み上げただけだったようだ。霞は学生時代にカナダに半年留学していたので、英語の文章はすらすら読めた。ネット担当を霞に変わってもらいたいくらいだと、語学が苦手なハチがこぼしていたものの、霞はほかに仕事があり、パソコンを扱う事務作業ばかり任せるわけにもいかなかった。
 霞が読み上げたイギリスで世論を諫めるつもりで発信された意見にすら、紅茶・薬草茶党から猛反論が起こった。

「まるでコーヒーの方が紅茶よりも多様性があるような言い分だわ。紅茶や煎茶には茶葉の違いもあるのに、コーヒーには産地の違いがあると威張っている。茶葉にだって、産地の違いはあるわよ。どうしてこのブームがコーヒーを飲みたい人たちの気分を変えるほどのものになる必要があるのよ。必要な人たちだけが楽しめばいいんだわ。他のお茶にだってカフェイン成分はあるんだもの。コーヒーを飲む人たちの健康を皮肉っているのかもしれないけど、この新しいお茶を楽しんでいる人たちにとって、それは全く嬉しくないわ。それに一時的なブームだなんて決めつけられないでしょ」

 まるで、演劇の台本の読み合わせをするように、香が英語でポストされたらしいほかの意見を翻訳して伝えてくれた。聞かされる側の鷹之たち冨居家の面々の語学力はどうなのだろうか。もしかして、遥のためだけに日本語で翻訳してくれているのだろうかと一瞬思ったものの、口をはさむのはためらわれた。一連のやりとりは遥が拙い英語力で原文のやり取りに目を通さなくても、現地のポストの翻訳をしてSNSにあげてくれたり、貸庭にダイレクトメールして教えてくれる人たちからの文章が目に入って知ることになった。

「別に紅茶でもハーブティーでもコーヒーでもおいしければなんでもいいだろうにね」

 隣のカエルの言葉に遥は黙ったままカップのフルーツフレーバーティーに口をつけ、内心で同意した。遥はコーヒーも紅茶もどちらも好きだ。ましてや紫蘇柚子茶はハーブティーだ。しかし、果実町に帰ってから、フルーツフレーバーティーばかり飲んでいる。紅茶も飲むが、コーヒーはめったに淹れなくなった。地元を離れていた頃には、考えられない。喫茶店によってコーヒーを飲むことができた日ほど幸せな日はなかった。
かつての遥のような心境で働いている人たちに、茶葉の説明をしても何になるだろうか。コーヒー豆の産地の違いの方がよっぽど明確にわかるという人だっているのだ。

「健康にいいんだから、いいじゃないのねえ。マロウ茶と違って妊婦さんも飲めるんだから。万人受けしてよかったわよ。味なんて比べなくても」

 山鳥の会長夫人の華のその発言には同意できなかったので、やはり遥は黙っていた。いや、味で比べられた方が正当ではないか。健康なんて二の次で、おいしいのが一番だと遥は思ったけれど、口に出しては言わなかった。その話題をどうしても遥に直接話したかった夕方の打ち上げの席で隣にいた女性は、遥の反応があまりに薄いので気を悪くしたようだった。

 だって、どう反応すればよかったというのだ。他人のお茶の好みなどそれぞれではないか。

 世の中には政治家以外にも○○主義とか○○党とかの信条をを持つ人たちがいる。その人たちの価値観を変えることは簡単ではない。喫茶店に行ったら、コーヒーを飲むというのが理想的だと思われる社会で、世間から「喫茶店ではコーヒーだ」という看板を下ろさせる。そんな変化を遥の考案したお茶の味一つでできるだろうか。そんな社会変革の目的を持って、大々的なプロモーションを打ち出すべきか。銃を持たずに言論で戦おうと世界はいつの時代から唱え始めたのか。現代に至るまで、世界のどこでもそんな理想は実現できていないようだ。
「世界中で一つのハーブ党になりましょう!お茶はハーブか薬草茶が健康ですよ」と誰かに向かって叫ぶのか。
そんな説を唱えることは何かカルトめいている。

「悪名は無名に勝るというが、なんにせよ評判になっているということだね。”やまなみさん”には、お世話になるね。我々にとってはよい門出だよ。ようやくこちらに移ってこられる。同じ町民としてよろしくお願いしますね」

 鷹之に頭を下げられて、遥はどうしていいかわからず、「いえ、そんな」と小さく言葉を発することしかできなかった。

「私たちより、おじいちゃんたちの方が新居を楽しみにしている感じよね」

 香がからかうように言うと、「もちろんよ。だって、新しい土地で暮らすんだもの」と華が機嫌よく応じた。

 新婚の孫夫婦に便乗して、山鳥の会長が果実町に移住してくるということはすでに町中で噂になっていた。人口が1万人もいない田舎町だから、噂が回るのも早い。香たちが新居を立てる同じ敷地に鷹之と華の隠居住まいの建物も作るらしい。

「庭の設計は野人さんなんだよ。これを楽しみにせずにはいられないよ。ここも名残惜しいが、いつだって遊びに来れるしね。運転手をお願いするよ。霞くん」
「仕事のついでです。いつでも、どうぞ」
「かえる亭もぜひごひいきにしてください」
「もちろんだよ。今日の料理もとてもおいしい。専属料理人で雇いたいくらいだね」

 カエルの軽口にも鷹之はやはり機嫌よく応じた。

「まあ、わしも最後の仕事になりますよ。足を痛めてしまって。ここの庭もハルさんにまかせますからね」
「そうなんですか。だったら、ハルさん。ここに住めばいいじゃないか。管理人室として空けますよ。しばらくは無料の見学施設にしてもらって、宿泊施設に改装してもいい」
「いえいえ、そんな、私は今の家が気に入っています。貸庭のこともあるから手一杯ですよ。こちらの庭だって、私がやるんじゃご不満じゃないですか」

 遥は反論して、ナイフとフォークを置いた。急にカエルの料理の味がしなくなったようだ。残りはほんの少しで、見れば、遥以外は全員食べ終えていた。遥は、急いで味のしなくなったハーブ肉のかけらを口の中に放り込んだ。

「とんでもないよ。もともとここは重要文化財で維持管理が大変だというので、うちが買い取ったんだが、やはり果実町のものは果実町に返さないとね。あなたの家にしてくれてもかまわないよ」

「とんでもないです。いえ、もう本当に今の住まいでも夢みたいですから。貸庭がもうすこしうまくいくようになったら、ほかのことを考える余裕も出てくるかもしれません」

「もう十分うまくいってそうだがなあ。まだまだかあ。いいねえ。若くて」

 鷹之は寛容な笑みを浮かべた。遥は背筋に冷たい汗が流れた。仕事が回ってなくて、場当たり的に対処していっぱいいっぱいの状態なのだ。
鷹之たちみたいに老後で引退するならともかく、こんな別荘を今もらってもシンデレラにはなれない。むしろ薬草園の魔女になるだろう。
陰気な魔女に、この庭の美しさを維持できるかわからない。

「私じゃ、師匠の庭の管理はできませんよ。香さんたちの新居の庭をやる業者さんがいるなら、その人たちに頼めばいいんじゃないですか」

 遥は食事会の後、改めて家にカエルと野人を呼び、冨居家の別荘の庭の管理をするのは無理だと訴えた。カエルは特に意見を言わなかったが、野人は「まあ、そんな重く受け止めないでくれ」と譲らなかった。

「そもそもハルさんはここの管理人で雇われているんだろう。庭の管理だってその仕事の一つじゃないか」

 野人の言い分はその通りだ。むしろ野人が勝手に庭だけ手を入れていたに等しい。野人はボランティアでやっているというし、雇われている遥の方が管理する責任がある。でも、今は貸庭の事業もやっているのだから、別荘の方は孫のカエルに任せたっていいのではないかと思うのだ。カエルの方が庭を美しく作れる。
 遥だとハーブや薬草ばかり繁殖させて、石垣のそばにチャイブの道を作ってネギ臭くしてしまったりするかもしれない。野人と対峙している台所は今ミント臭い。朝にミントを煮込んだ鍋をうっかりIHコンロにおいたままにして、玄関口にまでメントールのツンと鼻を刺す香りが漂っていた。

「カエルくんたちに助けてもらって、なんとかやっているだけなんです。貸庭だって場当たり的にやっていて、園芸の知識も薬草の知識も乏しくて、ハーブを活用する料理の腕もアイディアもない。ごまかしながらやっているんです」

 ずぼらなのだ、遥は。自己管理も無理なのに、他人の庭を管理している現状にも無理がある。ほかのスタッフの手を借りてなんとかやっている状態だ。勉強熱心ではないから、知識だってほかのスタッフに追いつくどころかどんどん追い抜かれていく、劣等生だ。そんな自分が果実町の宝である贈り物をもらう。素敵はお庭付きの山の別荘が手に入るなんて!と能天気に喜べない。
 今だって山を下りるのに車の運転がおぼつかない。年をとって野人のようにこの山に通ってくることは考え難かった。

「うらやましいよ、ハルさん。予め知っておいて準備してことに当たるよりも、ことにあたりながら一つずつ知っていく方が楽しいじゃないか。老いては楽にしか生きられない。これ以上の苦は背負えない。苦しくても今が一番楽しい時だよ。毎日新しい花が咲くんだから。毎日新しい花の名前を教えてもらって覚えていけばいい。まだしばらくはお手伝いするよ」

「師匠をお手伝いさん扱いするって、私は何様なんでしょうか」

 気が重いがこの責任は逃れ得ないなと野人と話しながら、遥は観念した。カエルはその場にいてずっと面白くもなさそうな顔をしてテレビでYouTubeのガーデニングチャンネルの動画を見ていた。

 魔法使いにドレスをもらいかぼちゃの馬車で城に送ってもらったシンデレラは美人だった。王妃になる自信があった。大抵の空想物語すら魔法使いや魔女の弟子になる人たちも必ず魔女や魔法使いになれる知性のある人たちだった。

 野人から彼の素敵な箱庭を受け継ぐ遥は何者でもない。ドレスのようなエプロンを着せられても急に若返って美人にはなれない。まず装うことにそれほど興味もない。お姫様に憧れもない。魔法使いになって庭を利用できる気がしない。
 まるで学問する資格もないのに大学進学を選んでしまった学生の頃のような心許ない気持ちだった。

 しばし、沈黙が流れ、野人が猫のようなくしゃみをした。一瞬、本物の猫を探してしまった。遥はずいぶん猫に毒されてしまったようだ。打ち上げの前にごはんをあげて、夕飯前に遊んでおやつをあげてきた。野人のつくりかけのキャットウォークのある猫部屋はいまでも十分立派で猫たちには快適に過ごせているようだ。

「そうだ。夕飯に出しそびれたんだけど、ビスコッティ食べる?いちごを混ぜて作ったんだ」
「この時間に甘いものはいらん。そういえば、昨日ハルさんの出してくれたガリはあるね。あのガリが食いたいな。すまんけど、お茶も。ガリには緑茶よ」
「ありますけど。作り置きでかなり味がしみちゃってますよ。からいし。えーと、ちょっと待ってくださいね。私はカエルくんの作ったビスコッティを食べようと」

遥はお湯を沸かして、飲み物を2種類準備した。緑茶とカエルのリクエストでレモンバームの蜂蜜ティーを作った。

「やっぱりお菓子ももらおうかな。うん、おいしいね。カエルくんはいつか海外に料理を勉強に行くとね」
「え?いや、うん。そういうの、必要なのかな?まだ、わからないな」
「そうね。別に、どっちでもいいことさ」

 祖父に唐突な話題を向けられて、カエルが戸惑ったように返すと、野人は一人納得して噛みしめるように「ガリとこのお菓子合うね」とと嬉しそうに感想を述べた。
「ハルさん、年寄りのしつこい話と思うだろうけど、わしはね。どうしても、ハルさんに庭を任せたいのよ。これだけ生きてきて、わしの庭に住んだのは、妻とハルさんだけよ。妻には押し付けたけれど、ハルさんは選んで住んでくれたんだから。ここの管理人になってくれたのは、ハルさんだけよ」
「そうなんですか?私はここを出ても大した給料の職に就けなかったですからね。私にはここは条件がいいように思えましたけどね」

 遥が答えると野人は嬉しそうにしわを深めてふふふと笑った。そうすると、性別もわからなくなって、どこか浮世離れしているようで遥は野人の顔にしばし見とれた。野人の顔は風格があって、遥が思う仙人そのものだ。遥たちをモデルにした湧水の漫画を読んでから、特にそう思うようになった。

 料理上手なカエルの前で遥の手作りのガリを所望されたのもうれしかった。野人は褒めるのが上手だ。祖父が生きていたら、こんな風にはかわいがられなかっただろう。遥の祖父はとても偏屈な人だった。
遥は野人の話を聞きながら、昼間のやりとりを思い出した。

「この庭を作られたのは、あちらのおばあちゃんですか?」

 小柄でエプロンをつけて長袖長ズボン。高齢者になると尚更性別は分かり難い。いつにもまして見学客の多い冨居家の庭で座って黙々と作業をしている野人を指して、見知らぬ客が遥に尋ねた。「そうですけど、男性ですよ」と遥が答えると客はうろたえた顔をした。

「ガーデニングの達人と聞いたからてっきり女性の方かと。すみません。お孫さんと料理もするって」

 野人の料理は生活の知恵だ。とりあえず煎じて飲めという。カエルと一緒に料理するところはあまり記憶にはないが、野人自身が野草の料理をふるまってくれることもあるから間違いではない。ここの冨居家の台所に何度も一緒に立ったことはある。ただ、同じ料理は作らず、各々勝手に作業していただけだ。野人とカエルの関係をそんな風に説明したのはきっとスタッフの霞の母の夕だろう。イベントの主催で張り切って、お客さんと語り合っているに違いない。

 花の中で作業する野人は、その時も確かに性別を超越しているように見えた。



「こんな山奥でなんもすることもない。応募してきたのは、たぶんハルさんだけよ。今は少しよくなったけど、運転するのに道も悪かったしな。しかし、ハルさんは庭を眺めながら夢みたいだなって言ってくれたんだよ」

 年を取っても誰かに褒められることはうれしいことだ。遥が来てそれを実感してから、野人も素直に若い人をほめようと実践している。
 最初はすぐに遥が管理人を辞めるだろうと思った。いつ来るかわからない、冨居家の人々を待って、毎日来るか来ないかの電話番をしてぼうっと庭を眺めているだけだ。退屈でつまらない仕事だ。だが、遥は淡々と暮らしていた。毎日毎日、野人の庭を眺めて「夢みたいだな」と言いながら、滅多にその庭に足を踏み入れなかったのだ。まるで触れることすらためらわれる、美しい芸術品に対するようだった。彼女の手放しの賛辞が面映ゆかった。初めて声をかけるときには、勇気が必要だった。年を取り若い友人を得た生活は楽しかった。遥は確かに不器用だったが、率直で衒いがなくて付き合いやすかった。
 だが、人間は欲張りだ。あわよくば孫のカエルとめあわせようとカエルをけしかけて移住させて、二人を引き合わせることに成功した。思っていたような関係にはならなかったが、まさか仕事仲間になってカエルまでこの山の庭で働きだすととうれしい誤算であった。
 若い人にとって、こんな山の中にじっと暮らしていることがいいことか悪いことかわからない。しかし、訪れる客は増えた。

「家は暮らしを作ることだ。しかし、わしは40代までずっとフランスだとかイギリスだとかアメリカだとか勉強に飛び回っていた。日本で仕事をしていたのにね。そして腰を落ち着けようとしたときに、それまで家族が暮らしてきてくれた東京のうちが気に入らなくなって妻とこっちに戻って来て庭師になったというわけだ。子供たちと理想の家で暮らさなかった。よく家庭が壊れなかったものだよ。運がよかったんだね。戦後のどさくさで、みんな苦労していたから」

 父親は月に一度家にいるかどうか。それが当たり前の生活だったから、子供たちは寂しがりもしなかった代わりに、土産も喜ばず、父の土産話もうっとうしそうにしていた。野人は日本に帰るまでに、家族にこんな話をしてやろうといつも楽しみにしていたというのに。
 花が咲く姿を想像して育てている間が一番楽しい。育てた花の咲いた姿に落胆する自分の業と向き合いたくはない。だからこそ、硬い蕾を育てたいのだ。咲かない花に惹かれるのだ。それが野人の性分だ。我ながら小心者だ、と野人は思う。よくこんなに長く生きてこられた。

 自分が死んだ後には、世の中が変わっていて欲しい。若者に投資する世の中というのは正しくない。投資は富める者が代々富む。海外になじめなかったというよりは、時代になじめなかったのだと野人は自分のことを考えている。庭に遊び暮らす。それもひとつ理想の暮らしではないか。そうやって暮らしてくれる人がいなければ、野人の庭は生かされない。

「開発者が自分でものを売れるのが、正しい資本主義のあり方だ。会社にアイディアを売ってもらって喜んだり、妬んだりする果実町の夢はまだまだ小さい。ハルさんが、この町を変える可能性は大いにあるよ」

 野人の頭に若かりし過去に見てきたヨーロッパの庭園が浮かんでは消えた。

「それは絶対ないですよ。私の意見なんか誰が聞いてくれますか。ここは男社会ですからね。つまらないですね」

遥は辛らつな言葉とは裏腹に笑顔で答えた。野人が期待してくれることはうれしい。しかし、野人の小難しい理屈が完全に理解できない自分に自分自身でどうやって期待できるだろうか。淡い期待を抱いてしまう自分が可笑しかった。

 野人たちは深夜近くまで遥の家に居座って、眠たくなった頃合いで「今夜は客用のロッジに泊まる」と言って、出ていった。長居してごめんの一言もない。カエルの遥に対する扱いはずいぶんとぞんざいになったようだ。
 誰にとっても大した存在ではない。ミントの群れの一枝である、遥だ。それでも遥は手折られたらもう二度と自分として存在することは出来ない。

 気持ちが続けば、野人の期待するようにここの山守として一生暮らしていけば良いだろう。生きる助けとして、野人が庭を残してくれる。
薬草とハーブのほこる庭で日々物思いしながら癒されている。

(完)

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