見出し画像

私家版餓鬼道肴蔬目録

毎年8月になると私家版餓鬼道肴蔬目録(しかばんがきどうこうそもくろく)と題して、食べたいものを記したリストを更新しています。ほんとうにただ食べたいものだけ。さっきふり返ってみてびっくりしました。かれこれ20回目近くの更新となります。
今年は以下の通り。

ぶっかけうどん
ざるそば
冷やし中華
カレーライス
ハヤシライス
ハムカツサンド
お好み焼き
あつた蓬莱軒のひつまぶし
弁松の白詰
志乃多寿司のいなり寿司
崎陽軒のシウマイ弁当
薩摩揚げ
池袋美松の竜田揚げ
男爵コロッケ
焼き鳥
豚の生姜焼き
桜海老の掻き揚げ
鰹のたたき
わかさぎの南蛮漬け
ししゃも
アジフライ
川勝の長芋の漬物
ローストビーフ
豆類
冷やしトマト
胡瓜
林檎
柿の種
喫茶ソワレのフルーツポンチ
ドーナツ
コーヒー
京極スタンドのビール

なぜそんなことを?
と聞かれるとちょっと難しいのですが、1年に1度ほど、自分がほんとうに食べたいものだけを煮詰めてゆく時間があるのも悪いものではないかな、と思っています。鉄板だと思っていたものが移ろうこともありますしね。
もともとは小説家の内田百閒が「餓鬼道肴蔬目録」と題して、食べたいものだけを列挙した随筆を書いており、そちらが本家となります。
ただし百閒の場合切実な事情があります。随筆の最後には次のような註が添えられます。

註 昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナツタノデセメテ記憶ノ中カラウマイモノ食ベタイ物ノ名前ダケデモ探シダシテ見ヨウト思ヒツイテコノ目録ヲ作ツタ

ソレハカエツテオ腹ガ空クダケデハ……。
と、長い間不憫に思っておりました。

ところがです。
むしろ百閒のその願望は、成就しなかったらこそ胸に迫るのでは、と考えるようになりました。
というのも、ここ最近、プロ・アマ問わず、大勢の絵を描くかたからお話を伺う機会があり、しみじみと絵を描くという行為というのは、願望の表現でもあるのだなあと思ったのです。
インテリア、ファッション、行きたいところ、好きな音楽、なりたい自分、好みの異性、あるいは、世界はこうあってほしい……などなど。

いつの間にか絵は高尚なもの、自己の表現、あるいは社会的ななにか……というくびきに囚われていましたが、源泉を辿れば憧れなのです(少なくとも自分にとっては)。
そして憧れは必ずしも形として目の前に現れなくとも、ただただ焦がれるものとして想い、描かれるからこそ、かえってその切実さが輝くのではないでしょうか。

というわけで、百閒先生の目録は文字通り絵に描いた餅ですが、絵に描いた餅は絵だからこそいいのです。
もっとも自分の場合はその気になれば食べれるものばかりですが。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?