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交易と国防 上淀廃寺

 山陰の白鳳時代は上淀廃寺で語られる。交易のため日本海を航行する船は大山の方角に舵を切った。淀江は美保関からまっすぐに進めば港に入りやすい位置。
  古代は、教科書から市販本まで、北九州にあらゆる文化や情報が伝えられ、日本中に広まったと説明されるけど、批判を覚悟でいえば、山陰の出雲や淀江にダイレクト伝わった気がしている。贔屓の引き倒しだと言われそうだが、今でも残る古墳から石馬や金冠が出土され、その規模や文化を思い描くことが出来るからだ。
 近年、上淀廃寺では、生き生きと描写された壁画の一部が発見された。この壁画は奈良の古墳で描かれた絵とそん色がない。淀江は大山から水が豊かで米をはじめ農作物が美味しい。豆腐やうどんも絶品。これらは大陸との船による交易でもたらされたと思う。
 江戸時代末期には国防のため台場が作られ、外敵から攻められたことに備えた。要衝だということは、わかっていたのだろう。
 上淀廃寺の講堂や三重塔、石積み跡が保存された場所は秋の彼岸花の名所となっている。
 

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