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松江(2)松江城大茶会

 先月、松江城大茶会の新聞記事を切り抜いておいた。松江城の二の丸跡で8、9日に表千家はじめ七流派のお茶会が開かれるというものだ。この春から先生につき五十歳の手習いを始めたことも手伝って出かけた。頂いたパンフには「松江城大茶会はお茶どころ松江の文化と心豊かな人々の力が集まって生まれ今年で22回を重ねた」とあった。
 松江で茶道が盛んになったのは、松江藩7代目藩主松平治郷公が茶道に親しんだことがきっかけだとこの地の人は口を揃えていう。藩主様の趣味は高尚だったのだろう、松江は和菓子処でもあり、今はニューヨークに売り込みをかけている。私の好きな陶器もこのお茶が好きという流れをうけている・・・と抹茶を頂きお城を出るまでは呑気に思っていた。しかしこの藩主は寛延4(1751)~文政元(1818)に生きた人だとわかったとたん、待てよ、ということになった。なぜなら1771年くらいに米沢では上杉鷹山が藩政改革をしているし、「治郷」の治の文字は徳川10代将軍家治から頂いた、となると日本は田沼政治の時代で凶作・飢饉・地震・洪水、はては一揆が多発した時代になる。松江藩だけ優雅にお茶の文化を育んでいた??わけはない。
 帰宅して調べてみたら、6代目の父親(宗衍)と治郷とで、藩政改革を断行していたことがわかってきた。その凄いこと凄いこと。宗衍の少し前の代から財政は逼迫し、皇族のお姫様と婚約したものの結婚資金がなく、日取りを延長せざるをなかったという。都庁にお勤めの黒○さんとはわけが違うらしい(笑)。
 藩政改革の内容は破綻した藩財政再建のため、伯耆・米子の後藤家からの借入金は京・大坂の商人からの借り換えをし、年貢の前払いをすれば一定期間の税金免除をし、民間から出資金を集め資金運用の末、利益がでたら出資者と折半という方策を出し、資金集積をし産業振興を行う。薬用人参、ろうそく、桑、たばこなどを栽培したり、鉄製品を作りこれを専売するというもの。(現在でも薬用人参は八束町で栽培されているし、鉄製品は日立金属が安来はがねとして生産している)こうした結果、宗衍の代では大バブル期になる。
 治郷の代になってこのバブルからの失敗を修正しながら「入るを図って出を制す」の方針を打ち出し、大リストラを1767年から敢行。江戸藩邸での人員削減、藩内の不採算部門を切り捨て職務の兼任を発令。富裕層の既得権益を奪い役人更迭。金融商人からの借金の金利の免除を交渉し元金を73年間に渡って約50万両を返済。
 特殊法人の既得権益を排除し、○○公社の民営化を選挙結果によって賛成を取り付け、特区を設けベンチャーを育て、公務員の人員削減をするというどこかの国の前例を行ったような気がしないでもない藩政改革だったとわかった。改革推進のあまりの激しさに周囲の重役達が、若い頃から治郷が好きだった茶道を勧め、清心な境地をと彼に促したのが、松江の茶道が盛んになるきっかけだったとか。
 こうした歴史を知り改めて政治・経済・文化の関連を考えた。今日は天国の治郷公も心静かに美味しい和菓子に抹茶を頂いておられるのだろうか。松江城には和服姿の美人が目立っていた。

ゆうこの山陰便り NO.18             

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