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歌のシェフのおいしいお話(10)緊張をなんとかする

図太そうな印象を与える顔なのかどうか知りませんが、昔からピアノの発表会の折などには他の出演者から「緊張しなそう」としばしば言われていました。

が、とんでもない!緊張しますとも。「緊張で手が震える」「足が震える」という表現がありますが、ピアノを弾いている最中にも文字通り手とか足とかが震えた経験があります。漫画のように歯がガクガクいっていたこともあります。我ながら悲惨です。

ただ、いろいろなシチュエーションで30年ピアノを弾いてきたおかげで、そして何より伴奏業の経験のおかげで、最近は緊張というものとうまく付き合えているのではないかと思えるようになってきました。キーワードは、

「彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」(孫子)

もう少し詳しくお話ししましょう。

小さい頃は、緊張することはよいことだと思っていました。
緊張=そのイベントに対する自分の取り組みの真剣さやリスペクトを示すもの、だと無意識に考えていたのだと思います。年に一度か二度のピアノの発表会をいかに大事なものだと捉えているか、自分の演奏する作品にいかに敬意を持って真面目に取り組んでいるか、ということを人(先生、家族)に示すのに、「とっても緊張している!」というアピールをするほど効果的なことはありません。ことに、周りの人が「緊張アピール」をしていたら、私も同じくらい緊張していないとなんだか不謹慎な感じがしていました。

確かに、「緊張感のある」という言葉はポジティブな、「緊張感のない」はネガティブなニュアンスで使われます。私が所属していたブラスバンド部の顧問も「緊張しない奴はいいプレイヤーになれない」というのが口癖でした。彼がどういう意味でそう言っていたのかわかりませんが、緊張からくる興奮状態によるアドレナリンの効果で、普段より一層良い演奏ができるというタイプの人もいるのかも知れません。

というように整理できたのはだいぶ後になってからのことですが、ともかく「緊張はするべきものである」という観念に囚われた私は演奏前には本当に緊張するようになっていました。演奏が滅茶苦茶にならないことを願いながら一か八かといった気持ちで舞台に上がっていたような気がします。いつその「八」の日が来るかわからない。その恐怖をコントロールできないから事前にがむしゃらに練習するしかない。挙げ句の果てに「本番の魔法」を信じて縋る(=こんなにスペシャルな心構えで臨む本番なんだから、音楽の神様が降りてきてスペシャルなことが起こるに違いないと根拠なく思おうとする)という有様で、振り返ってみてももう怖くてたまりません。

大学院を出るくらいまではずっとそんなスタンスでした。年とともに試験やオーディションを受けたり規模の大きな演奏会に出たりする機会が増えて、一層大きなストレスを感じていたようにも思います。
ことに、院に入ってしばらく経った頃から私は本番での指の痺れに悩まされていて、原因がわからないぶん対策もどうしたらいいのかわからないながら、特に本番当日には重いものを持ったりしないように神経質になっていました。ところが大学院の修了試験の日、同居していた祖母が家にあったサツマイモの箱を2階に運ぶように私に言ったのです。「ピアノを弾くからといって偉いわけじゃない、特別扱いはしない」という教育方針を母(祖母の娘、ピアニスト)の代から貫いてきた祖母にとっては当たり前の会話で、別にその朝に限って意地悪をしたわけではありませんし、そのサツマイモの箱にしたってそんなにとんでもなく重いものではありませんでした。でも自分にとって超重要な、そのために何ヶ月も準備してきた試験を控えた私にとってはサツマイモによって指が痺れて演奏が思い通りに行かないという事態は避けたい。当然私は断りましたが、あくまで特別扱いしない方針を貫きたい祖母と喧嘩になった挙句結局箱を運ぶ羽目になって、「今日本番なのに重いものを運んでしまった!どうしよう!!」と、ものすごくナーバスになったまま本番に臨んだのを覚えています。


大転換は、伴奏業に本腰を入れを始めて、多くの歌手たちと関わるようになったこと。

伴奏ピアニストとして歌手の試験やコンクールの伴奏をする場合、(歌曲のデュオのコンクールででもない限り、)当たり前ですが伴奏ピア二ストの腕前それ自体は審査対象ではありません。ピアニストのミッションは、歌手が実力を遺憾なく発揮することができるようにすること。難しいところは目立たないように助けてあげたり、煽ったりすることもできます。

一言で言うと、自分の都合で緊張している場合じゃないのです。

歌手にしてみれば、緊張しすぎの伴奏者ほど迷惑なものはありません。自分の緊張に対応するので精一杯なのに、伴奏者の緊張まで引き受けてはいられません。緊張のあまりピアノを滅茶苦茶に弾かれたらどうしよう、歌いにくい…!という余分なストレスが加わることにさえなります。

ピアニストとして歌手と一緒に積極的に創り出すことのできる音楽の可能性が無限にあることは他の機会に触れようと思いますが、その一方で一種の「職人」として最低限「伴奏で迷惑をかけない」「緊張は見せない」ことが「デキる伴奏ピアニスト」の条件であることを私はいくつかの失敗を経て理解しました。

「緊張は(していても)見せない」というのは言わばやせ我慢ですが、やせ我慢を可能にするために、「たとえ楽譜通りに完璧に弾けなくても歌手が歌うのに必要な部分は最低限死守する」「リスクの高い部分でも百発百中、確実に弾ける方法を編み出す」というように、その音楽の構造、重要な部分を把握し、演奏中に起こるいろいろなリスクを(自分の癖や傾向も含めて)予め冷静に見極め、それを踏まえた上でなるべく良い演奏が実現できるように準備する、という具体的な手順を踏むことになります。

洗練され完成された音楽は日常を超えたもの、神秘的ですらありうるものだと思っていますが、それを準備する「職人」的な部分の手順においては、全ての問題は具体的・技術的に解決できるもの、すべきものであって、未知のこと・不確実なことに取り組む不安からくる緊張に飲み込まれる必要はどこにもありません。
もちろん、歌手たちの「陰に隠れ」ることができる(わけではないけれどその話はまた)伴奏業に比べて、一人で難しい長時間のプログラムを暗譜、演奏しなければならないソリストは準備に必要な時間も気力も桁違いかも知れませんが、この「職人」的な、具体的なリスク分析に基づく準備は同じように有用でしょう。

メンタルトレーニングで著名なスポーツドクターの辻秀一さんの『演奏者勝利学』という本では、自分らしいパフォーマンスを発揮するために重要な心の状態を「フロー状態揺らがず、とらわれず、のよい心の状態」と呼び、これをどのように身につけて行くかを説明しています。

人はいつも様々な感情を持つために揺らぐもの、それを潜在意識の中に「とらわれ」として形成していってしまうもの、という事実を受け入れた上で、自分がどんな原因で揺らいでいるかを見極め(そうすると多くの場合、天候、会場、課題、といった自分でその瞬間にはどうすることもできないようなことで揺らいでいるとわかる)、「人というのは、変えられないことでこんなに揺らいでいる」ということを自覚し、それをWash Out(「洗い流す」)すること、を辻氏は勧めます。
しかし同時に、その「揺らぐ要因」のリストの中には「自分の努力や事前の準備によって回避できること」もたくさんあると指摘しています(先ほど私が述べた「やせ我慢を可能にするための準備」というのはまさにこれにあたります。縁あって私のもとにやってくる生徒さんには、その具体的な方法をお伝えするように努めています)。
辻氏はまた、「自分の心の状態を『環境』『経験』『他人』という要因に委ねるのではなく、『自分』という要因で決める」「自分の機嫌は自分でとる」というのが「演奏者としての勝利の合言葉」とまとめています。ピアノを前にした時ばかりではなく、日常生活の中でも自分の心を見つめ、磨く習慣を持つことが重要だということです。


さてさて。
心を見つめるといえば、このコロナ禍という人類の体験したことのない事態がどんな風に推移して行くのか、音楽業界の未来はどうなるのか、文字通り先が見えないということが、自分の心を蝕むのを感じます。
パリは再ロックダウンで演奏の予定もコンセルヴァトワールの対面授業も軒並みなくなって、日本にはいつ一時帰国できるやら、周りの歌手もみんなどんよりしているし、元気印の大澤もさすがにどんよりとしてきて練習のモチベーションも上がらず、これは自分の機嫌をとる必要があるなと思って、たぶん10年ぶりくらいに大きなマシュマロの袋を買ってきて、猫をだっこしながらYouTubeを見つつ頬張るという甘やかし方を試みてみました。猫は迷惑そうでしたが、私は多少元気になって久しぶりにこの歌のシェフシリーズに記事を加えることができました。これもロックダウンのおかげと思うことにしましょう。
皆さんもどうぞ引き続きお気をつけて!


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