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なぜかいつまでも読まれているので再掲します。 ハコヅメから見る悪魔とネタバレ

啓示という言葉が私は好きなのですが、時々、人気のあるマンガや、ドラマなどには「啓示」が含まれているように思うのです。
悪魔を理解するには、宗教への関心が必要になると思いますが、この八百万の神々がおわす日本という国は、宗教への敵愾心が著しいように感じます。

突然ですが、悪魔ってどんな存在でしょうか。

悪魔の恐ろしさ、漫画であれ、小説であれ、もしかすれば聖書であれ、あますことなく描かれていますが、本当の恐ろしさはどこにあるか。

それは人間を深く愛していることです。

愛情の深い存在に悪いものはいないと思うでしょうか。否、悪魔は純粋に相手を愛し、そして自らの手の中に愛しいものを離さず、逃れることを許さず、しかも永遠に愛で続ける。

そんな悪魔はどんな姿をしているか。

一目見て誰もが心惹かれる美しさと優しさを持っています。


そんな存在を悪魔と呼べるかどうかの議論は一旦置きます。

奥岡島における大量覚せい剤押収事件においての主犯と言える虎松譲二は非常に魅力的であり、また、面倒見もよく、人からも好かれる性格をしています。

しかし当時潜入捜査官として働いていた伊賀崎、今の岡島署交番長は虎松について「冷酷な奴」と断言します。

虎松に狙われた人間は本人だけでなく、その家族、親族に至るまで財産をむしり取るだけむしり取られると言うのです。

虎松に対しては「倫理観が破綻しているので考えても仕方ない」と交番署長は言います。

一方、現在の虎松は娘とその母親と同居していました。娘は彼氏と別れたと。その理由は「父親が危ない人と関係がある」ので彼氏の母親に「うちの子に関わらないでほしい」と言われたからです。娘は言います。「お父さんのこと何も知らない人にそう言われるなら願い下げだ。」

虎松は娘に対して大きな愛情を注いでいますが、娘の言葉の端々から、娘自身も犯罪への倫理観が欠如していることが分かります。悪いことをしていても優しい人、と言うのが、父親や、周囲の人間に対しての評価です。

その娘が父親である虎松と言い争いになり飛び出します。保護したのは藤。
交番に迎えに行った虎松と源が対峙します。「このお巡りさんすっごく面白いの。源さんって言うんだって。」虎松は娘を交番から引き取るための書類を記載することを迫られますが、実子でありながら籍に入れていない娘のことを「この子は私の娘ではなくて・・」自分の名前を記載することはできません。源は言います。「そんなことを言ったら菜摘ちゃん泣いちゃいますよ。」20年前の虎松の言葉「そんなことを言ったら誠二くん悲しむよ。」世代を超えた再戦です。

ここで虎松は「悪魔の象徴」をあますところなく発揮していると言えるでしょう。自身を慕う人間に対しても「高学歴のバカ」の評価。自身の愛情は、愛したいものだけに注ぎます。

自身を慕っていても利用しているだけの人間は単なる搾取対象でしかありません。というか、

捧げものをすることを当然とします。

しかし、そもそも虎松に捜査の手が及んだのは前村耕三が猿渡署長に「助けを求めた」ことによります。かつて虎松はおそらく前村を一方的に「愛し」、刑期を終えた彼を受け入れるため、20年前、源の父に逆問に及びました。ところが、その際に源父ははっきり言ってます。「なぜそんなアンタから前村は逃げたいと言うんだろうな。」

結果、前村耕三は2度にわたって虎松から逃げました。

結論だけ言いましょう。

本当の悪魔から逃れることは困難です。

相手は愛情を介して人間を束縛するからです
雑な表現をすれば

絶対的な魅力と能力をもったストーカーです。

悪魔からは「絶対的な敵愾心をもち、いかに愛されようと徹底的に逃れること」でしか離れることはできません。

極めて魅力的で、かつ自分を愛してくれている相手を悪魔と見抜いて逃れることは困難です。

一つだけ念のために言いますが、ここで言う愛は生殖的な意味合いを含む愛ではありません。

幸いにもは前村耕三は悪魔を見抜きました。意識的なのか、無意識なのかは分かりません。

娘である菜摘はこれから長い時間をかけて学ばなければならないのでしょう。

ちなみに警察官が主役なので「正義」という言葉が出てきます。
正義とはどういう字かよく見てみましょう。

「正に美しい我」と書きます。すなわち、「正義」とは「自己中心性のナルシズム」でもあるのです。

どことは言いませんが正義を声高に語る国家の経済活動は戦争です

ちなみに「美しい」は「羊」から来ます。

別の面から言うと「羊を我のものとする」という自己中心性が字に現れていともいえます。

羊は神への捧げものであるにもかかわらずです。

そもそも「悪」の対義語は「正義」ではありません。「善」です。

「善」という言葉は「羊を屠って口にする」と書きます。

ていうか、「口」の部分は「箱」と言うか祭壇の象形と思いますが。

羊と神の関係は「The Book」に嫌ほど書いてありますので、ここではもう書きません。

羊は屠られますが、主(補足書くのもどうかと思いますが、いわゆるキリストです。)は羊飼いです。羊は人間です。

屠られて神という絶対的主体に捧げられるのが、人間の在り方で、それが「善」です。

それに比べると悪魔の優しいこと。

なので、古今東西「降魔」は非常に難しいので、全ての宗教者は「修行」するって話ですよ。

ただ

そもそも漢字文化圏で発生した宗教ではないのに、なんで漢字で解説するんだと言われたら全くおっしゃる通りです。

ただ、啓示というのは言葉に宿るものですし。

まあ、全部私見ってことにして、お見逃しくださいませ。

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