利用できない道具を捨てることはない。
道具は壊れる。
使えなくなる。
それまで役立っていたとしても、壊れてしまえば確かにガラクタで、置く場所を占有する邪魔ものだ。
しかし、修理、再生という概念の中で、道具はある意味永遠の時を転生する。
私の周りは壊れたものだらけで、大概の道具は中古で手に入れる。
そうでなくても身の回りの修理であれ、農作業に用いる機械の修理であれ、家の倉庫は小さな工場に匹敵する工具と今は使えない工具だらけだ。
この「使えない」は器具が壊れているのではなく、使用者側の技術で「使えない」
ありとあらゆる「不要」なものに溢れている。
だが、いかに「不要」であったとしても愛着のようなものがあり、なかなか捨てられない。
正直、そんな自分に嫌気が差して、何もかも捨てたい衝動にかられるのだが、いざ向き合うとできない。
ただ、人間関係は簡単に捨てる。
私は人間関係に「過去」を持ち込まない。
記憶は全て上書きしていく。
そうでなければ生きていけない喪失をいくつも抱えている。
大げさと思われるかも知れないが、出会う人、出会う人、次から次へと遠くに行く。
私の前から去るという意味ではない。
理由は様々だが、物理的な距離が出来てしまったり、状況的な距離が出来たりの繰り返しだ。
今これを書きながら、連絡したい人たちには連絡してみようと考えた。
リアルで出会って、これからも関わっていきたいと願う人たちとは、やはりこちらも動かないといけないのだろう。
人との関わりには「利用」はない。
道具は利用することで愛着がわくが、人間関係においては、「利用」は雇用関係くらいにおいてしか、心は動かない。
それ以外の状況においてはせいぜい「頼み事」くらいだろうか。
「お世話になる」ことも「利用」したことになるのなら、それはもう、「人間関係」とは何か、という議論になりかねない。
人との縁は自らがつくろうとしてつくるものではない。
人の家の庭に勝手に住み着くものはネコくらいしか許容できない。
もちろん「ネコ」でも許さない人は多くいるだろう。
人と人には距離がある。
その距離は絶対的なもので、不可侵だ。
ただ、その距離に気付かず超えてくる者はいるのだが、全ての人たちは「許容」によってその侵入を「ある程度」まで我慢している。
まあ、何にでも「許容範囲」はある。
それを超えることを「我慢の限界」を超えるということになるだろう。
道具は使用者の我慢の限界を超えることはないが、人間は他者に対し、我慢の限界を超えることはある。
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