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「動静脈瘻」の告知を受けるまで(1980年頃)

動静脈奇形(当時は「動静脈瘻」)と告知されたのは、私が小学生の頃です。

それまでは右手と左手の表面温度に差があるのを、両親が少し気にかけていた程度でした。
ところが小学校に入学する頃に、右手の親指と母指丘が少し膨張し始めます。
保育園の卒園式の写真をよく見てみると、右手の親指が少しぷくっとしているのがわかります。
かかりつけの小児科では「様子を見ていれば良いでしょう」と言われていたようです。

ある日、私が「足が痛い」と訴え、地元の大学病院の整形外科で検査をしました。
結果は「成長痛では?」と大事には至らなかったのですが、その時に母がふと思い立ち、私の右手を整形外科の医師に見せて「ところで先生、この右手はどうなんでしょうか?」と尋ねたところ、医師の表情と口調が変わったのを、私自身も記憶しています。

「これはおそらく血管の病気です!もしそうならどんどん(病変が)大きくなっちゃうのでどうにかしないと!」

これを機に私はしばしば学校を休んで、その大学病院であらゆる検査を受ける日々を送りました。

近々手術しましょう!それに向けて血管撮影をしましょう!という段取りが組まれた日。
母が医師に「ところで、手術すれば治るんですよね?」と訊ねたところ、医師からの回答は、

「いや、再発の可能性はあります。それほど難しい病気ですから」

この回答に母は疑問を抱いたそうです。
再発の可能性があるなら、小さな身体にメスを入れて病変をいじるのは果たして妥当なのだろうか?病気と共存していくやり方もあるのではないか?と。

そして、母に連れられ様々な病院を回ることとなりました。今で言う「セカンドオピニオン」といったところでしょうか。
そんなこんなで出逢ったのが、T大学病院のU先生でした。

血管の病気の名医と言われたU先生は、とても背が高くて指がひょろっと長く、悠々としたとても不思議な風貌の先生でした。
当時はおそらく50歳代ぐらいの先生だったと思います。

U先生は診察室でしばらくの間、私の右手をぎゅっと握ったり離したり、右手にドップラーという機械を当てながら音を聴いたり、親指や母指丘を触ったり摩ったり。
これを何度も繰り返しながら、丁寧にカルテに図を描いていました。
さらにU先生は、私の右手や右腕に赤と青のペンで血管を描きながら、母と私に向けて穏やかかつ丁寧に説明しました。要約すると、

「これは動静脈瘻という、とても珍しい病気です」
「この病気の原因は不明で、治療法も確立されていません」
「お嬢さんの場合、症状が進行しているわけではないですから、手術はもっと成長してからで良いと思います。それまで経過を見ましょう」
「この病気の患者さんで、結婚して子どもを産んでる人もいるし、社会生活をきちんと送っている人もたくさんいますよ」
「あのね、これはアナタの病気なんだけど、仲良く付き合えばいいんだよ」

珍しい難しい病気だというのに、動揺せずあっけらかんと話すU先生に、小学1年生の私はすっかり影響を受けてしまいました。

それ以来、年に一度U先生の診察を受けたあと、母に病院の近くにある動物園に連れて行ってもらってぬいぐるみを買ってもらうというコースが、私の楽しみのひとつになりました。

「病気なんだけど仲良く付き合えばいいんだよ」と幼い私に語りかけ、病気がどうであれ生きたいように生き、過ごしたいように過ごすべき、ということを教えて続けてくれたU先生。
2014年頃に鬼籍に入られましたが、U先生の教えは私の心に今でも焼きついています。

そういえば先日、母が「U先生が今も生きていたら『50年間右手を大切にしながらよく頑張ったねぇ』って誉めてくれるんじゃないかしら」と言っていました。
ホント、そんな気がします。

〈次回へつづく🎵〉

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