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いのちについて - 遺書をカバンに入れて暮らしていた私が思うこと

前回のブログを書いてから、6週間も経ってしまった。「ブログを楽しみに待って居ます」とメールをくださる方も有り、有難く、更新できていない事を申し訳無く思って居た。

遅くなった理由の一つは、夏野菜の植え付けシーズンだったこと。

植え付けの終わった私の畑

結婚した時に住んだ社宅に庭が有り、皆さん野菜を育てて居たので、私も挑戦。以来、夏野菜の9割は自給自足の生活なのだ。東日本大震災の時、畑には野菜がありキウイの樹まであって本当に助かった経験もあり、畑作業はやめられない。癌の手術後も、体力に折り合いを付けながら家庭菜園を継続しているが、最近は体力が落ちて、夏野菜の植え付けを頑張った後にブログを書くのが難しかったのだ。しかし最大の理由は、書きたいテーマが難しすぎて書けなかった、ということにある。何度も机に向かって書いてはみたものの、迷い続けて居たのだ。「書いて良いのか」「いや、書かねばならぬ」の間で、私は苦悶していた。

今日もテレビのニュースで「~~線、人身事故の為運行停止中」と報じられているのを見た。数日前、御茶ノ水の病院に行った時も、ホームでテロップが流れているのを見た。このひと月の間に、幾度となくこの文字を見て、「書かなければ」が勝って、私は再度机に向かって遂にこの原稿を書き始めた。

”人身事故”を目撃して

30年前の年明け早々の事だった。そのころ肺癌闘病中だった父が、いよいよ危ないと言う事で、神奈川県川崎市の病院に入院した。その父を見舞うため、北海道の旭川から甥が青春18切符でやって来た。せっかく本州に来たので、途中下車をして久々に茨城県の我が家に寄って行くと言うので、私は迎えに出たのだった。早朝、甥を迎えた私は、駅のすぐ近くの踏切に向かった。カンカン、カンカンと警報音が響いていて、遮断機が下り始めていた。私の前にも、乗用車が一台停まっていた。その時、柵の隙間から女性が線路に入って行って、線路に横たわったのが見えた。何か落とした物を拾いに行くかの様にすっと自然に入って行って、私の頭の中は「エッ?エッ?エ~?」という疑問でいっぱいになった。停車していたのは、事の始終が全部視界に入る場所だった。そして私は、全てを目撃してしまった。脳内では「ダメ~!」と叫んでいたが、実際には声を出す間も無い一瞬の出来事だった。急いで目をそらしたが、見えてしまった。

私は直ぐ、駅前にある交番に、目撃したことを伝えに行った。電車の運転士のブレーキが間に合う状況では無かった事、その人の年格好等などを、身元が少しでも早く判明するように証言することが、その時私にできる精一杯の事だった。自宅に向かって車を運転する私の足は、震えていた。

その3日後、父が他界した。83歳だった。70代の時に胃の全摘手術をして、回復後に我が家に遊びに来た父は、ゲストブックに「明日は今日より元気」と書いた。術後にとても痩せてしまって、体力の衰えを感じていたに違いないのだが、それでも「明日は今日より元気」と書くところが父らしいと思った。この言葉を心に刻んで置こうと、ゲストブックを幾度も読み返したものだった。

父は、昭和15年、国策で中国に渡り水道や道路を作る仕事の監督をしていた。第二次世界大戦が終わった後の1948年に、父とその家族は着の身着のままで中国から引き揚げた。父と母二人で生後半年に満たない私を連れ、3歳の姉、12歳の兄を連れて、5人家族での過酷な引き揚げの旅。波乱の人生を生きた人だった。父の納棺の時、私達家族は父の身体を清拭した。父の指を一本一本清拭しながら、天寿を全うしてくれたことにどれ程平安を感じたことか。葬儀を終えた後は、父が私の直ぐ傍に居る様な気配が常に感じられたのだった。生前は住む場所が離れていて、距離が感じられたのに、不思議な気持ちだった。

私は、父の葬儀の間も、その後も、あの女性のご遺族はどうしておられるだろうと、気がかりでならなかった。しかし、考えれば、考えるほど、語るべきではないような気がして、口を閉ざしてきた。そんな私にとって最近の‘‘人身事故‘‘のニュースが余りにも多いことは、ほんとうに、いたたまれないのだ。

遺書をカバンに入れて暮らしていた若い頃の私

私などが語っても、何の役にも立たないかもしれないが、かと言って黙することも出来ない、と感じるのは、私自身が、10代から20代にかけて、いつもカバンに遺書を入れて暮らしていたからでもある。

父は中国滞在が長かった為、引き揚げてからの生活は大変だったようで、日本に帰ってからの私達家族は貧しい暮らしだった。今では歴史的な事も理解できるが、子どもの頃の私には、貧しさが辛く重くのしかかって、いつも「人は何故生きなければならないのか?」と考える日々だった。5年生の時、友達と遊んでいて「ねー人間はどうして生きなければならないと思う?」と言って、キョトンとされたことを、鮮明に覚えている。

今は、74歳になったからこそ見えて来た景色が有る。もし、タイムマシーンが有ったなら、10代の日の私に会いに行って伝えてあげたい。

「あなたは、まだ見ていないでしょう、あなたの人生のこれからの事を。今の悲しみ、苦しみが積み重なって実を結ぶ日が来るのよ。あなたは、自分の悲しみを見つめて俯いて居るから、見えるのは自分の暗い影ばかり。その影を作って居るのは、あなた自身。立ち上がって振り向いてみて。光に照らされた未来が輝いているから。」と。

「三浦綾子さんは、どうしてあんな凄い作品がかけたのでしょう?」という質問を、私は幾度もされた。私にも全ては分からないが『道ありき』(主婦の友社)という綾子さんの自伝を読んで下さると理解出来るかもしれないと思う。

綾子さんは終戦の翌年、当時「死の病」と言われていた肺結核に罹り、更に脊椎カリエスになって13年もの病の日々を過ごした人である。綾子さんは発病から3年後、オホーツクの海で入水自殺を図って居る。波が綾子さんの足を洗った時、綾子さんの異変に気が付いて探し当てた元婚約者に助けられのだった。『道ありき』の中に(どうせ病気はいつなおるかわかりはしない。あと何年療養をつづけたところで、なおるという保証もない。わたしがこの世に生きていて、人に迷惑をかけるよりは、死んだ方がいいのではないか?)と考えたと書かれている。更に、生の目的も判らぬ生活に無気力になり怠惰になり、疲れていた、とも書いてある。元婚約者が間にあってくれて良かった!助かって良かった!と、痛切に思う。

この後、綾子さんは真剣に生きる道を求め始めるが、更に10年もの闘病の日々を過ごす事になる。しかも、足掛け7年間は、脊椎カリエスという病でギブスベッドに仰向けに寝たきりで固定され、寝返りも出来ない状態だった。見舞った人々は、密かに「気の毒に、もう長くはないだろう」と思ったらしい。

苦難の日々を経て作家になった綾子さん

その様な、苦難の日々を経て作家になった綾子さんの紡ぎだす言葉は、優しく力強く、広く人々の心に響き渡る。だからこそ綾子さんの本は、18もの国の言葉に翻訳されたのだと思う。

綾子さんは『光あるうちに』(主婦の友社)でこう言っている。

わたしの13年間の病気は確かに精神的にも肉体的にも、そして経済的にも苦しいものであった。だが今、過去を顧みて、あの13年の病気の月日は、やはりなくてはならぬ時であったと、つくづくと思い知らされることがある。病気のみならずあの時、なぜ私はこんな不幸な目に会うのかと思う。いわば人生の曲がり角に幾度か立たされて来たものである。不思議なことに、後で考えるとそれは皆、自分の魂の生活のためには必要な曲がり角であったと考えさせられている。」

綾子さんはよく「たった一人からでいい『あなたは私にとってなくてはならない存在だ』と言われたら、それだけで喜んで生きていけるのではないだろうか」と言っていた。私は40代の誕生日に「裕子ちゃん、生まれてくれてありがとう。貴女がそこに生きていると思うだけで元気が出るよ。来年の誕生日まで元気でいてね。」と綾子さんから電話を貰った日から人生が変わった。

この言葉の意味が今は身に染みて解るのだ。私も、愛のある言葉を、心を携えて生きたいと思う。

綾子さんは言った。「文学史に残るより、誰かを救うことのできる作品をと思い続けてきた」と。ジェラール・シャンドリと言う人の「人が死んだ後に残るのは、集めたものではなく、与えたものである」という言葉を綾子さんは愛し、その様に命の限り、愛の言葉を書き残し、愛を与え続けた人であったことを、私は目撃してきた。あの、苦難の中から生み出された愛の言葉を。

今、苦しみの中にある人々に、綾子さんの言葉が届きます様に。
ブログをお読み下さった皆様の隣に、悩んでいる方が居られたら、さり気なく綾子さんの本を貸してあげてください。前に進む力が、見つかるかもしれません。

明日も、明後日も、その次の日も‘‘人身事故‘‘が有りませんように。
お読み下さるおひとりおひとりがお幸せで有ります様にと祈りを込めて。

元気が出るような生き生きした夏野菜の写真をお見せしたいと思い、庭に出て撮影してきた。これはズッキーニの花。
こちらはブルーベリーの樹。
これは空芯菜。空芯菜を食べる時、茎を数センチ残しておき、それをこうやって差すと新しい葉が出て何回も収穫出来るのです。いのちのつながり。
こちらはズッキーニとそっくりですが、きゅうり。
もう収穫できるきゅうりも何本かあるのです。この夏もたくさん美味しい夏野菜をいただきたいと思います。皆様にとって幸せな夏でありますように。

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