私の町と大好きな人と①

少しまじめにテーマをもって書いた方がいいのかな、と思った。どこかに書き残したいと思っていること。私の町のことを書いていこう。

私が生まれ育った町は東京の城西にある町。山手線沿線の中でおそらく最後までパッとしない、たいして発展しない町だとふんでいたのだが、いつの間にか誰もが知っている全国区の町になった。

私の父方の祖父は関東大震災で焼け出され、壊滅的な被害を受けた下町から無傷だった今の地へ引っ越してきた。大正13年のことで、都内とはいえまだ田んぼや畑が点在していて「都落ちした」とがっかりしたらしい。当時は国電よりも路面電車(都電)が住民の足になっており、都電の停留所ごとに小さな商店街が線路の周辺にちまちまとできていた。その商店街の一角に祖父は店を開いた。
商店街の周囲には、町工場が点在し、その間にしもた屋(住宅)が並ぶ。国鉄駅前の立派な商店街でもなく、工業地域でもなく、住宅街でもない。いわば、なんでもありの町。それが私が育った町だった。
「なんでもあり」は住民の特性にも及ぶ。少し大きめの工場を経営している羽振りのいい家もあれば、その隣がバラック建ての貧相な長屋だったり。立派な棕櫚の木がある医院もあれば、やくざ者も住んでいる。東大生を輩出したインテリ家庭の隣家ではおじさんが朝から酒をあおっている。
それだけ生活が違えば交わらないかと思えば、これが見事に交わって暮らしていた。歯医者の先生は自分のを買うついでに近所のおじいさんの分も馬券を買ってきてやったり、東大生はアル中の鳶の話し相手になって縁台に座っていたりした。
お医者さんと蕎麦屋の出前のお兄ちゃんと銀行員とうちの父がよく麻雀卓を囲んでいた。めちゃくちゃなメンツだった。

東京の雑多な商店街というのは、みっちりと家が建て込んでいて隣との境目もいい加減だ。映画「おとこえはつらいよ」で、タコ社長が勝手にくるまやに入り込んでくるシーンがあるが、まさしくあのように垣根一つ越えて裏口から誰かが勝手に入ってきて、いつの間にか茶の間にいる。お互いが毎日そんな暮らしだった。プライバシーなんてほとんどなかった。
だからご多聞に漏れず、私は思春期のころ、こんな町を好きになれなかった。

私は20年前に父を亡くした。父がいなくなって母と二人女所帯になった。けれどもこの町に暮らした間は女所帯の心細さを一度も感じたことがなかった。男手はいつもあった。力仕事は誰かがやってくれた。台風や雪の日も必ず声をかけてくれた。
よくわからないセールスがきたときも、近所で火事があったときも「大丈夫か」と必ず誰かが声をかけてくれた。赤の他人なのに盾になってくれることもあった。だから不安など一つもなく生きていられた。

5年前、再開発になって町を離れた。たった駅の反対側にきただけだけれどマンション暮らしになった。
うちは女所帯なんだ。やっとその現実がわかった。
遠くに住む弟を頼るほどではない小さなこと。切れた電球に手が届かない、重い荷物の移動ができない、そんなことで立ち尽くすようになった。
こんなに心細い家庭だったのに、何も心配しないで生きていられた。
何も心配しなくていい町。それはかけがえのないありがたい町でもあったのだ。


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