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「なぜそう思うのか?」の理由は過去にある

自分で自分のことをより理解するのは簡単なことではないと思っているが、「なぜ?」を深掘りすると見えてくるものがある。

私はなぜ、今になってデザインをやりたいとそこまで思ったのだろうか。そんなことを考えていると、ふと思いついたことがある。

これですよ。

看護師の仕事の大半は、ペーペーだった頃なんかは特に、先輩たちとできるだけ同じように考えて判断できること、彼女たちから習った通りに業務をこなすことが求められ、それがよしとされていたように思う。その職場のローカルルールに慣れることも超重要だ。たとえそれが、どれだけくだらないことであっても。

「こんな方法もいいね」「そういう発想も面白いね」などというよりは、基本的には「こうすべきだった」「こうすべきでなかった」の白黒2択で物事を考え、判断することが多かった。

それはそれでまぁ普通だし、別にいいと思う。

ただ、経験も積んで整形外科勤務に慣れた頃には「自分なりの工夫の余地」を探すのが一番楽しかった。病態や治療について学ぶ、看護技術を磨くなどはもう当たり前のこととして、病棟勤務の頃、個人的に一番工夫していたのがオリエンテーションだった。

説明がうまい、わかりやすいとはどういうことなのか?

時間をかけて0から10まで懇切丁寧に説明すればいいというわけではない。話が長くなればなるほど、患者さんの頭には結局何も残らないことを私は知っている。患者の不安を減らし、後で困らないように、かつ短時間で終わるように。でも、質問があれば「この人には聞いてもよさそう」と思ってもらえるように。いつも自分の対応を振り返っては微調整し、仕事ができる先輩のオリエンテーションを盗み聞きし、常にアップデートしていた。

逆に言えば、最後はもうそれくらいしか工夫できるところがなかった。その職場でこれ以上の成長を感じられなくなったとき、退職を決意した。

その後、新規開院のクリニックにオープニングスタッフとして転職した。そこで初めて「私は自分で考えてやらせてもらえるほうが好きだな」と明確に実感した。開院時は何もないところからのスタートだったので、同僚と相談してなんでも自分たちが一番いいと思えるやり方に決めることができた。誰にもわからないことは、自分で調べて提案した。


私はどちらかというと、空気を読んで周りに合わせられる人間だと思っている。真面目な家庭で真面目に育ち、子どもの頃からみんなと同じように、言われたことはそつなくこなせるタイプだった。

だからこそ、今まで気づかなかったのかもしれない。

仕事で「自分で考えてやってみて」と任せてもらえると、どれだけエネルギーが出せるのか。考えて、調べて、提案して、いろんな人と相談して、決定して、見直すプロセスにどれほどやりがいを感じるのか。

自分でこうしようと決めて、やってみる。それがうまくいってもいかなくても、全部自分に返ってくる。人生のあらゆる経験を肥やしにし、次に繋げていく。実はそういう生き方をエンジョイするタイプの人間だったのだ。

工夫や変化よりも周りと同じようにやることが基本とされる環境は、実はそんなに好きじゃなかったのかもしれない。できないわけでも、ものすごく苦痛に感じているわけでもなかったから、あんまり何も思っていなかった。

年々デザインへの関心がじわじわと行動にまで表れてきていたのは、今まで自由にさせてあげられなかった自分の中のクリエイティビティが「いや、ほんまにいつまでもそんな感じでやっていってええの?正直、もっと自分が思うようにやりたいんちゃうの?『いつか』は自分が行動せん限り、永遠に来ないんやで」としつこく言うようになってきたせいなのかもしれない(脳内は関西弁)。

だから、思い切って働き方を変えた。
自分の仕事にもっと裁量権を与えるために。

デザイン制作は、これでもかというくらい「自分なりの工夫の余地」にあふれている。テーマや制限やセオリーはあれど、どう解釈し、どう整理し、どう見せようと工夫するかは自分次第だ。そんな風に思いっきりやっていい仕事なんて、今までほとんどなかった。

「自由」というと少しパーソナルすぎるというか、多少の語弊を感じるので、ここでは責任感も含めて「裁量権」といいたい。自由ならなんでもいいわけじゃない。重要なのは本気の意思決定だ。

一度お話しましょう。
一緒に考えましょう。
調べてみましょう。
つくってみましょう。
やってみましょう。

こういう言葉が周りにあるとき、めちゃくちゃわくわくする。
白紙からつくる余地があるって、なんて素晴らしいのだろう。


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