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自分自身の「精神の安らぎ」のために、絵を描ける人になりたい

中高生の頃、私は美術の授業がいちばん好きだった。

「ポスターカラーでデザインをつくる」
「木彫りでプレートをつくる」
「水墨画を描く」

など、使用する画材や素材は課題ごとに決められていたけど、何をモチーフにするかは「自分の好きなもの」というように、たいてい各自の自由だった。

私は動物をモチーフにするのが好きだった。

たとえ羽や表情が難しそうでも、”映え”そうな動物の写真を探しては、一生懸命課題に沿って表現した。

そうやって時間をかけて取り組んだ作品にはどこまでもこだわって永遠に手を加えたくなるものだったけど、授業の課題には必ず提出期限があった。悩みつつもなんとか完成させて、先生からなんらかのフィードバックをもらえるのが毎回楽しみだった。

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あの頃、どんな作品を作ろうかというイメージを、頭の中でどんなふうに膨らませていたのかが、どういうわけか今ではもう全然わからない。

ツールはアナログからデジタルに変わったとはいえ、私は今も絵を描くことが好きははずなんだけど、「絵を描きたい」といつでも強く思う気持ちとは裏腹に、私をひどく悩ませていることがある。

それは、「何を描いていいかわからない」ということだ。

いつから自分が描きたいものさえわからなくなってしまったのだろうか。

ふだんSNSや街中やネット上で素敵な絵を見かけるたびに、「私もこんな絵を描けるようになりたい」とそわそわと思うくせに、いざ真っ白のキャンバスを前にすると、途端に困惑してしまう自分がいる。

もしかすると「いい絵」や「完成度の高い絵」に憧れすぎて、目標が高くなりすぎているのかもしれない。

別に完成した絵をどこかに発表したり、何かに使ったりしなければいけないわけでもないのに、いつの間にか気軽な気持ちで純粋に描くことを楽しめない状態になってしまった。

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noteで「アートセラピー」の専門家の方が書かれた素晴らしい記事を読んで、なんとなく頭の中に浮かんでいたこういうとりとめのない思いが、ぼんやりとではあるけどちょっぴり輪郭を表してきたので、今この文章を書いている。

なんとなく、「やっぱりアートって本来、描く人の”こころ”を素直に表現すればいいものなんじゃないかな」と思う。

私は、もしかすると完成した絵がどうこうというよりも「自分自身のための表現活動」として、描くというプロセスそのものを楽しみたいと本心では思っているのかもしれない。

仕事に関しても、私はクリエイティビティを発揮できるほうが好きだ。考えやアイデアを形(文章なり、ビジュアルなり、企画なり)にするのが好きだ。

脳のそういう「創造性」を司る部分を、自分自身の精神の安らぎのためにも使いたい。言葉にするとなんじゃそりゃって感じがするけど、でも私はそう思っている気がする。

本当は、今年の春くらいから水彩画とか習いに行きたいなと真剣に考えていて、実際に生活圏内でよさそうな教室をいくつか探してみたりしたけど、コロナのことや仕事の都合もあって、それを現実的な予定にはできずにいる。

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しばらくそんな状態だったけど、最近、私がいつも使っているProcreate(iPadのアプリ)で好みのニュアンスのデジタルイラストを習えるオンラインコースを見つけて、「これも自分の人生を豊かにするための投資だな」なんて思って、思い切って入会してみた。

レッスン動画は一応毎日見てはいるけど、すごく絵を描く時間を取れているわけでもないし、めちゃくちゃインスピレーションが浮かぶようになってきた!なんてこともまださすがにない(笑)。

でも、なんか日常に「脳の創造的な部分」を刺激する時間があるっていいな、なんて、ほんわかと思ったりはする。

筆(※Apple Pencil)の赴くままに絵を描いて、あとから完成した作品を見て、「あぁ、この絵を描いたときの私はきっと、こういう精神状態だったんだろうな」なんて人ごとのように客観視してみたい。謎だけど、理想。

「思想をビジュアライズできる人になる」みたいなの(なんかよくわからないけど)に憧れる。

自分の考えや生き方、人生が、作品に反映される。そういう「アウトプットの手段」を、引き出しの中に持っておきたい。

前職を退職して、コロナ自粛期間を経て、新しい仕事へ。というのが主な私の今年のダイジェストなんだけど、そういう”キャリア的な”切り口以外でいうと、「どのように創造性を表出するのが一番自分に合っているのだろうか?」ということが、とても真剣に検討した大事なテーマだったように思う。

ついに2020年もあと1ヶ月。「自分のために絵を描く力を伸ばす」ことは、来年にかけても引き続き大事な案件になりそうだ。

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