「もっと論理的に話せ」という指摘の不毛さについて

世の中にまかり通るこういった類の指摘について思うところがあったので。

最初に私の意見ですが、「この手の指摘をしてくる人は、きっと何事も為した事が無いし、この先何も為すことなく死んでいくんだろうな」と考えています。なぜか。

多くのシーンにおいて何かを為すにあたりこの手の主張は意味を為さない、それどころか組織やコミュニティの中に不要な不平と不満を撒き散らし全体の生産性と創造性を著しく低下させる結果になるからです。以下、そう考える根拠。

①「論理的」という、一見非常に合理的で明確に聞こえ、その実、具体的な内容を全く伴わない単語を使った指摘をするに留まっており、指摘する相手に何のフィードバックも与えていない(真に改善を望むのであれば、相手の「論理性」なる具体性のないものに対してではなく、その主張の内容について問い質すはずだし、そのようなシーンが連続して発生しての発言ならばその主張の組み立て方の問題点について言及するはず)。

②この手の指摘をした場合、指摘者には「自分は論理的で賢い人間である」という前提が自動的かつ無根拠に成立するが、その上で「相手は論理的ではない」というレッテルを貼る事で「自分が相手の話を理解出来ないのは、相手の論理性に問題があるのであって、自分が馬鹿だからではない」と暗に言っている、という言語外の構造が出来上がるが、このことに気づいていない。

従い、この手の指摘をする人間を、私は「言葉以外のメタな構造を認知することが出来ない上、一見賢く見える浅薄な手段で無根拠に保身をはかった上に周囲に不要な不平と不満をまき散らすタチの悪いバカ」だと考えています。

あえて強くかつ露悪的な言葉を選んで表現しました。こういった類のバカが色んな人に対して要らんマウントをとりながら無自覚に生きていることがあまりにもアンフェアに感じているので、そういったバカでも理解できるような言葉を使い、そういったバカが妙に好む価値構造に沿った主張をしています。

一方、ここから先が本命の主張ですが、人間には感情があるし、制御が効かなくなることもあります。そういった状況で、「誰もが」思わずそういった類の言葉を浅はかにも選んでしまうことだってあるのです(というより、ほとんどの人がそこまでバカではないし、そのような構造を考慮しないままそういった指摘を繰り返すようなことはしないでしょう)。「誰もが」そうなる可能性がある、ということを自覚することが重要です。自覚することで、対策をとることが出来るようになります。そのことで、メタな構造を含めた自分自身の言動をより注意深く観察するようになりますので。

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