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貨幣数量説検証 「貨幣を発行するとインフレが起こる」は正しいのか?

こちらのグラフを見てほしい

お札の量と物価の推移(日本版)
お札の量と物価の推移(アメリカ合衆国版)

以上、「お札を刷っても物価が上がるだけで無意味」とする貨幣数量説は根拠なし。終わり。
アメリカだけ見れば、「生産量が増えて、生活必需品の項目が増えて、実質での経済が成長してるからインフレが抑えられてるんだ」って論が成り立つが、それなら日本は物価がこれだけ横ばいなのだから、実質経済成長が米国以上ということになってしまう。当然、そんなことはありえないので、「お金を刷れば経済成長」も「お金を刷ればインフレ」も現実の資料からは裏付けられないということになる。
ただ、これで説明を終えるのも味気ないので、もう少しだけ考察をしていこう。
以下では、歴史的に「貨幣数量説」=「貨幣量が増えたことによって物価が増えた」とされている事例を取り上げて具体的に検証していく。

①明治二年のインフレ

明治時代の日本は、明治初期と西南戦争時において、貨幣発行によって物価上昇を引き起こしたと信じられている。たとえば以下のような説明だ。

明治元年12月に発案者である由利公正が失脚した後は無統制な発行が続けられている。このように行政上の必要だけを念頭とした通貨発行が行われたため結果として急速なインフレーションが進むこととなった。
そしてその後、このインフレーションは明治10年の西南戦争の勃発により財政規模が拡大し、紙幣発行の増加による更に加速した。

【主張】税は財源だ!持続可能な税制を考える。

歴史学生(歴史学生って何?)を名乗る、ひでしゅう氏という方の説明である。しかし、これも詳しく分析すれば答えは明らかである。まずは、明治初期の物価を見てみよう。

作成にあたり以下の資料・研究を用いた
米価…江戸・深川の米問屋である山崎繁次郎が対象に出版した『米界資料
総合物価…朝日新聞社が作成してきた「物価大勢指数」         
生計費指数…一橋大学名誉教授斎藤修氏「幕末-明治の賃金変動再考」(1993)

実はグラフには載せていないが、明治元年は前年の慶應三年から物価が下がっている点にも触れておく。これは斎藤修氏の生計費指数と、三井家大坂両替店の記録「日記録」の記録から明らかである。つまり、明治元年には通貨発行を理由とした物価上昇は生じていないどころか、物価が下がっているのである。ちなみに明治政府による通貨発行は、慶應三年十二月から始まり、明治元年期には歳出の八割を通貨発行に依存している。

引用元:大森徹「明治初期の財政構造改革・累積債務処理とその影響

では、明治二年にこそ、明治元年の通貨発行を原因とした物価上昇かと言われるとそれも間違いである。

戦塵先づ伏見鳥羽に揚がり続きて錦旗東征と決したれば江戸の騒動一方ならず、人心恟々市民帰向する所を知らず…(中略)…米の価格も自然に下らざるを得ずして三円七十銭の売買を見たり。(中略)夏季に入り地方霖雨不作の声高かりし等にて後半期には漸次昂進して七円九十銭まで跳ね返したり。

(訳)紛争がまず京都の鳥羽伏見で始まって、そのまま新政府軍が東へ進軍すると決まったので江戸の騒ぎは甚だしく、庶民の心は戦々恐々としていた。米の価格も自然と下がることとなり、三円七十銭になった。夏になって地方は雨が続き米は不作になるという噂が立って、米の価格は年の後半になると次第に上がり、七円九十銭まで跳ね返した。

(『米界資料』明治元年)

去年の不作は供給の不足を来し七円四十銭を安値として十円以上に突発したり。南京米を輸入して米価緩和の策を取りたるも実に此の年を嚆矢とす。

(訳)去年(明治元年)の不作は米の供給不足をもたらし、米価格は七円四十銭を安値として十円以上にまで急に上がった。中国大陸南京から米を輸入して米の価格を抑制する政策を取り始めたのは、この年が始まりである。

(『米界資料』明治二年)

『米界資料』では、はっきりと明治元年の天候不順による米の不作が原因で翌明治二年に価格が急上昇したと書いてあるのである。つまり、通貨発行の翌年に物価が上がったのはただの偶然だった。

②西南戦争とインフレ

明治10年、西暦1877年の西南戦争時に明治政府は軍費を徴税によらない通貨発行で行ったとされている。それが原因でインフレが起きたと言われているのだ。たとえば次のような記述である。

西南戦争以後の日本経済は不換紙幣の増発のため急速なインフレが進行していた。
西南戦争の軍費のための不換紙幣の増発、1876(明治9)年の国立銀行条例改正以後の国立銀行券の増大などにより日本経済はインフレとなり、米価(玄米)は1881年には1877年の2倍となった。

実教出版 日本史検定教科書

当時から、世論で不換紙幣が原因でインフレが起きたというのは言われていたらしい。

金納改正以来米は農商の自由販売品と化し質の善悪に就て適当の管理者なきに至りしを以て自然粗製濫造に流れ此の点よりすれば自然価格低廉なるべきはずなるに同時に需要増加したるを以て質の善悪に拘らず価格を維持したるが、十年戦争の不換紙幣濫発は財界に夥しき悪影響を与へ、此の年に至り害毒愈々甚だしく産業萎靡して物価の平準を破り…明治以来の新高値を示したり。収穫は十二年来普通作を得たるが故に年の豊凶よりすれば斯の如き突飛の高値を示すべき謂れなし。全く不換紙幣の罪に帰せざるを得ず。(明治十三年)
(訳)金納改正(明治9年に納税を円貨で行う法律が制定された)以後、米は農家商人が自由に販売できる品物となって、質の善悪に関して適切に管理するものがいなくなったので、自ずと粗製濫造となってしまった。この(自由競争という)点から考えると価格は自然と低くなって当然のところ、同時に需要も増加したので質の善悪に関わらず価格は横ばいということになるのだが、西南戦争による不換紙幣の濫発は財界に大きな悪影響を及ぼし、明治13年にはその悪影響がますます激しくなって産業は衰退し、物価の基準がおかしくなって米は明治以来の最高値を更新した。収穫は明治12年に続いて例年通りの量だったので、米の供給量から考えればこのような突飛な高値になるような原因は見当たらない。これはどう考えても不換紙幣の乱発が悪いと言わざるを得ない。

『米界資料』明治十三年

しかし、この物価高騰は明治13年、明治14年のことである。これを明治10年の西南戦争による貨幣量増加を原因とするのは相当苦しい。通常インフレが起こるのに数年もの時間差があるのは考えがたいからである。それは欧米で起きているインフレを見ても明らかであるし、先程の明治元年の不作を原因とした明治二年の物価高を見ても明白であろう。先程のグラフを見てもらえば分かる通り、明治10年には物価は微増、朝日新聞の「物価大勢指数」に関しては物価が下がっているほどである。
また、先程掲げた財政収支の資料からも、明治11年以降は歳入のほうが多いくらいで財政赤字は見当たらない。
つまり、財政赤字が拡大し貨幣量が増加した明治10年には物価が大して上がらず、財政黒字で政府紙幣が償却され始めた明治11年から2,3年経た明治13、14年に物価が急上昇するという現象が起きているのである。明らかに貨幣数量説からは説明の付かないことが起きている。
この現象の解明については、興味深い論考を一つ紹介して終えたいと思う。岡山大学経済学部教授、一ノ瀬篤氏の研究である。

銀行券発行を基礎として,国立銀行がこの時期に,著しく貸出を拡大していることは確実である。これが,明治12-14年の激しい物価上昇をもたらした最大の要因であろう。(中略)
11年から14年にかけて,政府は財政収支の黒字化につとめ,政府紙幣の銷却を着々と実行した。この結果,上のような政府紙幣の縮小が実現したのである。したがって,この間,財政活動によるインフレはなかったといってよい。

一ノ瀬篤「明治9年の国立銀行条例改正と公債―公債による銀行資本金払い込みの意味するもの―」(1989)

この論考も、結論部分だけ読めば貨幣数量説とは齟齬しない言い方ではある。筆者はこの点については貨幣量の増加ではなく、貸出拡大による事業の活発化をインフレの原因と見ているが、それは今後の研究の課題としたい。少なくとも、明治10年の貨幣量増加が明治13,14年の物価高に繋がったのではないと示されているのであれば十分だからである。明治10年の貨幣量増加は物価高に繋がらないのであれば、仮に明治13,14年の物価高が、別の貸出拡大という貨幣量増加を原因としていたとしても、貨幣量と物価高の繋がりは常に起こるものではないので、「貨幣量増加は物価高を引き起こすだけで無意味」という論を崩せるからである。

③江戸時代の改鋳とインフレ

江戸時代には貨幣改鋳でインフレが起きた、というのも根強い人気を誇る言説である。以下のような主張だ。

江戸後期の金の含有割合はそのままに、小判を小さくして貨幣量を増やした場合の物価の推移は以下のようになっている。

江戸後期の貨幣改鋳と物価推移

また、他の物価推計を用いることになるが、金含有割合を減らした文政二年の改鋳と物価の関係は以下のようになっている。推計の根拠となっている資料は斎藤氏が江戸・東京のものであるのに対し、下記の資料は京阪の物価であるため、数値の上昇幅に差はある点はご了承願いたい。

飯田泰之『日本史に学ぶマネーの論理』より、筆者が貨幣改鋳期を付け加えた

いずれも、改鋳と物価上昇が連動しているのは天保期だけである。その天保の改鋳も、前年の1836年(天保七年)に物価が高騰しており、改鋳を原因としていないことは容易に推測ができるだろう。この物価上昇は、1833年(天保四年)と1836年(天保七年)に起きた飢饉が原因である。
しかも天保八年以降は物価が下落しており、改鋳以後、貨幣量が減ったわけではない以上、貨幣数量説では考えられない状況になっているということになる。しかし、これも飢饉が落ち着き、作物が安定的に供給されるようになったから、高騰していた物価がもとに戻っただけと解釈すれば何の疑問もない。

その他の物価急上昇を見せている1861年(文久元年)、1885年(慶應元年)、1886年(慶応二年)についても貨幣改鋳が直接的な原因とは言えない。
鹿野嘉昭氏は「幕末期,藩札は濫発されたのか : 藩札発行高推計に基づき,濫発論を再検討する」(2007年)の中で万延改鋳をインフレの原因としながらも、以下の二点をさらに加えている。
一つは銀の切り下げによる京阪地域の銀目の空位化である。江戸時代の京阪地域では、銀が主要な通貨として用いられていた。1859年(安政六年)の開国に伴い、金銀交換比率を海外に合わせるようになった。そうでなければ、金が流出してしまうからである。しかしその結果、銀の価値は下がり、決済通貨として使いにくくなってしまったのだ。突然銀が使えなくなった京阪地域の経済的混乱が物価高騰の原因の一つというわけである。
またもう一つの原因は、開国による需給の変化、輸出入による物品量の変化である。
鹿野氏は、さらに

万延二分金の場合,文久元(1861) 年から慶応 4(1868) 年の幕末に至るまで漸次市中に投入されたという事情もあって,実際に年率 2 割を超える物価の高騰が現出したのは元治元年 (1864) 以降のことであった.

「幕末期,藩札は濫発されたのか : 藩札発行高推計に基づき,濫発論を再検討する」より

と万延の改鋳(1860年)と物価高騰の時間差を説明するが、たとえば慶應元年(1865年)の米価格を三井家の「日記録」で確認してみると6月18日に2匁3分8厘であった加賀米一石が、翌日6月19日には3匁1分2厘に高騰しているケースも有り、単なる貨幣量の漸増では説明の付かない米価の乱高下が見られる。この米価の乱高下が物価不安定化の要因となっていたと筆者は考える。同じような乱高下は万延元年(1860年)以降頻繁に見られるようになる一方、開国と貨幣改鋳を行った当の安政六年(1859年)や前年安政五年の米価格は非常に落ち着いている。
この原因を解明するのは今後の課題としたいが、改鋳そのものを原因とする以上に、鹿野氏も挙げている貿易構造、グローバル経済に江戸経済が組み込まれていったことを考慮に入れる必要があるだろう。

④新大陸発見と価格革命

貨幣数量説とは、貨幣量の増加が物価の上昇の原因となっているという考え方である。貨幣数量説を当てはめて歴史的な物価上昇の原因を説明することが往々にして行われてきた。しかし、以上見てきたように
・文政の改鋳によって貨幣量が増加しても物価は上昇していない
・天保の物価上昇は改鋳ではなく飢饉が原因
・安政の改鋳、万延の改鋳も物価上昇を引き起こしておらず、開国にともなうマクロ経済の変化が原因であろう(今後の課題)
・明治二年の物価上昇は貨幣量増加ではなく不作が原因
・明治十四年の物価上昇は西南戦争による貨幣増加が原因ではなく銀行の貸出増加が原因(筆者はこのインフレも貨幣量増加ではなく、それに連動する投融資による活況が原因と考えるがいずれにせよ今後の課題)
と検討を加えてきた。
一部、貨幣量の増加が物価上昇の遠因となっていると言えるケースがあることは事実であるが、貨幣量増加が即座に物価上昇を引き起こしていたり、物価上昇が貨幣量に直接的に起因するケースはまず無いと断言できる。
では、貨幣量が価格を決めると考える貨幣数量説はどこからやってきたのかというと、西欧の価格革命である。
価格革命とは、16世紀の近世ヨーロッパで起きた物価の高騰である。一般的には、アメリカ大陸からの銀流入が原因とされているが、銀の増加が6~7倍であったのに対して物価上昇(銀下落)は3~4倍であり、そもそも増加量と物価上昇率が噛み合っていない。
また、ポトシ銀山の発見は1545年とされているが、西欧の物価上昇はそれよりも25年早い1520年からであったことが既に指摘されている。

The Monetary Origins of the ‘Price Revolution’ : South German Silver Mining, Merchant- Banking, and Venetian Commerce, 1470-1540'より

だとすれば、貨幣数量説の発端となった「西欧の価格革命の原因は、アメリカ大陸からの銀流入である」という認識そのものが最初から間違っているということになる。
貨幣数量説の発端となった出来事が、貨幣数量説で説明できないことが明らかになっている以上、こんな仮説は成り立たないと改めるのが科学的な態度ではないだろうか。

さらに、ポトシ銀山の銀増加と同じような金増加現象としてカリフォルニア・ゴールドラッシュがある。これは1848年から1855年にアメリカ大陸カリフォルニアで数百トンもの金が採掘されたと言われているものだが、ここに価格革命のような物価上昇を伴ったという一般的な説明は管見の限り見たことがない。検索すれば出てくるという程度で、価格革命や西南戦争のようなレベルで「ゴールドラッシュの金増加によって物価上昇した!」というような貨幣数量説的な説明の際にゴールドラッシュが持ち出されることはまずない。
アメリカ大陸ではなくイギリスを対象とした研究ではあるが、ゴールドラッシュの時期にカリフォルニア発の金が世界中にばらまかれたはずなのに、イギリスでは継続的な物価上昇が観察されない。金増加で好況に湧き、カリフォルニア移住者が増えたり投資が行われたりしたことでの物価上昇はあっただろうが、金の量に応じた物価上昇は観察されなかったのであろう。

金の量はゴールドラッシュ時に急激に増えた Our World in Dataより
イギリスの物価推移 Inflation over 300 years
Inflation hedging with commodities: A wavelet analysis of seven centuries worth of data

結論

貨幣数量説って根拠不十分じゃね?
貨幣を増やしたことで物価が上昇するなんていう単純な話は歴史を見る限り観察されない。貨幣量増加と物価の上昇が無関係とまでは言い切れないけど、貨幣量に応じて物価が上がるわけでもないし、貨幣量が増えても物価が増えてないケースも多々あるので、物価上昇の主要因としてはありえないということは断言できる。
したがって、物価上昇を恐れて貨幣量を調整すべきだという意見には全く賛成できない。

補足

本記事の趣旨は、「貨幣量が増加しても物価の上昇はありえない」ということではなく、「物価の上昇は貨幣量を原因としているわけではない」ということである。貨幣量と物価の上昇が相関している部分はあるだろうと思うが、関係はそう単純なものではないということだ。
物価の上昇を引き起こそうとも必要な財政支出というものも存在するわけであるから、「財政赤字は物価上昇で返すインフレ税だ」などという主張を認めるつもりは微塵もない。

(本記事は全文無料で公開されています。)

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