子どもに怒る自分に悩む。「怒りをコントロールできない子の理解と援助」を読んで。
良書の見分け方に「版を重ねている」というのがあります。初版で終わる本が多い中、この本は写真の通り、14年間に23回も増刷されていて、特定の人々に確実に役立ってきたことがわかります。立ち読みでこの奥付を見て、購入しました。
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怒りをコントロールできない子の理解と援助―教師と親のかかわり
作者:大河原 美以
出版社/メーカー: 金子書房
発売日: 2004/07/01
当時も今も僕は、自分の感情の有り様やその表出について、子どもや他者に怒りを表す自分について悩んでいます。関連書籍も、おそらく量は読んでいる方だと思いますが、理解や納得とはほど遠い。そんな時に同書に出会いました。
感情と言葉の関係や怒りについて、これほど腹落ちする説明をしてくれた本は初めてでした。同じような悩みを持つ人の一助になればと思うので、紹介します。副題が「教師と親のかかわり」となっていますが、書いてあることは普遍的です。エッセンスは、冒頭からの6ページに凝縮されているので、著者である大河原美以氏へのリスペクトも込めて、そのまま引用します。
第1章 ~感情の発達のプロセス~
1、感情とことば
私たち大人は子どもたちを「思いやりのある子」に育てたいと願っています。そして子どもには「思いやりをもちなさい」「困っている人がいたら助けてあげなさい」「電車ではお年寄りに席をゆずりましょう」「人をいじめてはいけません」と教えます。しかしながら現在、教えたとおりに子どもが育たないと感じている方は多いことでしょう。世の中では、最近の子どもたちにはこのようなことを教えていないのではないか、ということが心配されているようでもあります。だから、きちんと教えるべきだという考えや主張が生まれます。しかし、現実には「人をなぐってはいけない」「すぐに怒ってはいけない」「やさしくしてあげなければいけない」「みんなと仲良くしなければいけない」といった、多くの「べからず」が子どもたちにはシャワーのように毎日ふりそそいでいます。
一般的に私たち今の親世代は、子どもを「ことば」で育てる傾向が強いように思います。「思いやりをもちなさい」と伝えると「思いやりが育つ」と考えがちです。しかし「ことば」で伝えれば伝わるものだと思っていることは「錯覚」であるということに、まずこころを開く必要があるでしょう。
たとえば、子どもに「机を運びなさい」と言えば、ほとんどの子どもが何をすればよいのかを理解することができるでしょう。ところが「思いやりをもちなさい」と言う場合は、これとまったく異なる状況を生み出します。友だちにやさしくしてあげようと思う子もいれば、何をすればいいのかまったくわからない子どもや、先生が見ているところでだけ、どう振る舞えばいいのか理解している子どもなどもいて、その理解の状況は一律のものではないのです。
それはなぜでしょうか?「机」は具体的に実在する「物」です。「運ぶ」という動詞も、具体的な「行動」として現実に体験されています。つまり「机」「運ぶ」という「ことば」はともに「物」や「行動」と一対一対応で結びついています。ところが、「思いやり」は抽象的なことばですから、目に見えません。このように「感情」をあらわす「ことば」と性質が異なるわけです。
「机」「鉛筆」「黒板」「先生」など物の名前は、その名前の「ことば」を使うことによって、他の人と共有のイメージを持つことを可能にします。「机」と聞けば「机」を思い浮かべることができるわけです。「ことば」には、このようにイメージを共有することを可能にするという機能があります。そして、それによって、人は他者とつながりをもつことが可能になります。「うれしい」「かなしい」「腹がたつ」「うらやましい」などといった感情をあらわす「ことば」の場合も同様です。「うれしい」という「ことば」を使うことによって、他の人と共有のイメージをもつことができれば、「ことば」を通して感情を共有することができ、他者とのつながりをもつことが可能になります。このように「ことば」によって感情を他者と共有できるようになるプロセスを「感情の社会化」といいます。「思いやり」という高度な感情が社会化されている子どもたちの集団においては、「思いやりをもちなさい」という「ことば」による指示も有効でしょう。しかしながら、そうではない状態にある場合、その「ことば」は意味をなさないということになってしまうわけです。
私たち大人は、基本的な感情をあらわす「ことば」をあたかも、アプリオリに(先天的に)知っていたかのように感じてしまいがちです。ですから、「思いやり」ということばとその感情が結びつかないということが、どういうことなのかを理解することは困難であるかもしれません。しかし、パソコンやインターネットに関する「新しい抽象的なことば」を例にして考えてみると、「ことば」と「社会化」の関係を想像していただくことができるでしょう。たとえば「ダウンロード」といった「ことば」によってそれをイメージできない人は、IT社会の中では社会化されていないということになります。
子どもたちの中には、「思いやりをもちなさい」といわれても、この「ダウンロードしなさい」といわれているのと同じように、何のことやらわからない子どももいるというのが、今の子どもたちの現状なのです。そして、パソコンの苦手な人が、意味はわからないけれどただ「ENTERキーを押せばいい」とのみ学ぶように、大人の前でどう振る舞えばよいのかのみを要領よく学んで適応している子どもたちがたくさんいるというのが、子どもたちの感情の発達において起こっていることといえるかもしれません。
2、 感情はどのようにして社会化されるのか?
では、そもそも私たちはどのようにして、感情を獲得してきたのでしょうか?
どのように育てれば、「思いやり」は育つのでしょうか?ここでは、子どもの感情が親子のコミュニケーションを通して社会化されていくという視点から、説明していきます。「親子のコミュニケーション」と書きましたが、正確には「主たる養育者とのコミュニケーション」ということになります。そしてさらに保育士や幼稚園や学校の教師など、子どもを育てる役割にある大人とのコミュのケーションがさらに重要な影響を与えますが、ここでは「親子のコミュニケーション」ということで、これらを代表して説明していこうとおもいます。
赤ちゃんを思い浮かべてください。赤ちゃんは感情をどのように表現するのでしょうか? 赤ちゃんは、泣きます。おなかがすいたとき、暑いとき、寒いとき、おむつが汚れて不快なとき、泣きます。赤ちゃんの泣き方を見ていると、感情が身体を流れるエネルギーである、ということを実感できるでしょう。「火がついたように泣く」という表現がありますが、おなかがすいている赤ちゃんが泣くときの必死さには、生きようとするエネルギーが満ちています。私たちは、おっぱいやミルクを飲ませたり、おむつをきれいにしたり、ほどよくあたたかくしてやります。すると赤ちゃんはすやすやと眠ります。育児のはじまりはこのような毎日で過ぎていきます。子宮の外に出て、外界に放り出された赤ちゃんは「泣く」という動作によって、自分の身体が「不快」であることを親に伝えます。そしてその「不快」が「快」に変化することを通して、外界が安全なものであるということを、日々体験していきます。このとき、赤ちゃんは「安心感・安全感」という感情の基本となる基本的信頼感を得ています。外界は安全で、助けを求めれば助けてくれて、身体が安心だと感じることができるということです。この時期の発達課題である「基本的信頼の獲得」は、このような親子の相互作用の中で獲得されていくわけです。
このように、赤ちゃんが最初に獲得する感情は安心感・安全感であり、それは身体で感じているものなのです。この身体で体験している安心感や安全感が、感情が育っていくための重要な礎になります。育児において「スキンシップが大事」と言われてきたことはそういうことを意味してるわけですが、大事なのは、スキンシップによって「身体で体験している安心感・安全感」を獲得しているということなのです。
十ヶ月くらいのまるまるとした可愛い盛りの赤ちゃん、「いないいないばあ」をすると、大喜びでけらけらと大きな声で笑います。その喜ぶ様子がかわいくて、あやす大人も何度でも「いないいないばあ」を繰り返します。そんな光景を思い浮かべてください。私たちは、笑っている赤ちゃんが「大喜び」しているとどうしてわかるのでしょうか? 赤ちゃんは「大喜び」とことばで話すわけではありません。私たちは、赤ちゃんの示している表情や笑い声やしぐさから、赤ちゃんが「大喜び」していると判断しています。赤ちゃんの身体の中に、喜びのエネルギーが流れていることを感じ取っていると言うこともできるかもしれません。感情とは、身体の中を流れるエネルギーなのです。赤ちゃんが「いないいないばあ」が楽しくて、笑っているとき「楽しい」「喜び」といったエネルギーが流れているのを、私たちは感じ取り、それを「ことば」にします。「うれしかったのー、そうなの、たのしいねー」と。身体を流れるエネルギーであるアナログの(量として体験される)感情が、「うれしい」「たのしい」というデジタルな(記号としての)「ことば」で名づけられ、結びつけられるわけです。
二歳くらいの子どもが、仮面ライダーになりきって遊んでいるとしましょう。突然三歳の子どもがやってきて、変身グッズを奪い取ったとしたら、二歳の子どもはどんな反応を示すでしょう?ぎゃーと泣き叫び、じだんだふみ、顔を真っ赤にして、にぎりこぶしをふるわせるでしょう。この子の身体を流れているエネルギーは、非言語的に外に向かって表出されています。親や保育士など養育する大人が、その非言語的表出をくみとって、「くやしかったね」「怒っているんだね」と共感を示すとき、それは、身体を流れる感情を「ことば」で名づけるという子どもの感情を育てるかかわりかたをしていることになります。
物の名前をあらわす「ことば」は、現実に存在する「物」と「ものの名前」が一対一対応でつなげられることによって獲得されていきます。「感情」をあらわす「ことば」の場合、その「物」にあたるものは、自分の身体の中を流れるエネルギーとして体験されるものになります。つまり、「感情」と「感情をあらわすことば」が一致したものとして獲得されていくためには、子どもが感じている感情を、推測して「正しく」言い当ててくれる大人の存在が必要だということになります。喜びのエネルギーが流れているときには、「うれしかったんだね」と、悲しみのエネルギーが流れているときには「悲しかったんだね」と名づけてくれる大人がいなければ、感情は「ことば」とのつながりを獲得することができないということになります。
このように、身体を流れる混沌としたエネルギーとしての感情が、「ことば」とつながり、「うれしい」「たのしい」「かなしい」「くやしい」「怒っている」といった「ことば」を使って、自分の身体の中で起こっていることを他者と共有することができるようになることが、「感情の社会化」です。感情は「ことば」によって社会化されます。つまり感情の発達、すなわち社会化のプロセスにおいては、親や重要な養育者との相互作用、コミュニケーションがきわめて重要な役割を果たしていると考えられます。
私たちはふつう、これらのことをまったく意識せずに通過してきているので、「うれしい」ということばで感情を表現すれば、それを聞いた人にもその感情は同じように伝わると思い込んでしまいます。ところが、感情が社会化されるプロセスを経ていない場合には、それは自明のことではないのです。
(大河原美以「怒りをコントロールできない子の理解と援助」P2-7)
※下線は筆者
モノの名前は、簡単に教えられる。でも、思いやりという「目に見えない抽象語」は、簡単に教えられない。こんなシンプルな原則を、僕は同書で知るまで理解していませんでした。恥ずかしながら。
アナログな「感情」が、デジタルな記号としての「言葉」で名付けられ、機能する。これは中国の古典「老子」の冒頭、
「無名天地之始有名万物之母」
(名、無し、天地の始まり。名、有り、万物の母。
世界の始まりに名前(言葉)はなかった。名前(言葉)をつけることで世界が生み出された、という意味)
の「名、有り、万物の母」、そのものです。母親が、赤ちゃんの喜びのエネルギーに、「それは"うれしい"というものだよー、"たのしい”ってことだよー」と「名付け」(言葉がけ)をしていくことで、赤ちゃんの内面世界が作られていく。日本語の共同体なら日本語で、英語の共同体なら英語で。
「感情」と「感情をあらわすことば」が一致したものとして獲得されていくためには、子どもが感じている感情を、推測して「正しく」言い当ててくれる大人の存在が必要だということになります。(大河原美以「怒りをコントロールできない子の理解と援助」P7)
この「感情の社会化」のプロセスに、多くの大人が困難を抱えて生きていると思います。僕自身が、「大人の前でどう振る舞えばよいのかのみを要領よく学んで適応している子ども」でした。「悲しい」というのは高度な感情ですが、僕は30歳くらいのとき、「自分は”悲しい”という言葉は知っているし、社会的に問題なく使えるだろうけど、これを生きたことがあっただろうか」と感じた瞬間がありました。同時に、同じような人がいっぱいいるようにも感じました。おそらく「悲しい」という感情が、僕の中で少し社会化したのだと思います。
同書はこの後、「怒り」の感情について細かく事例検証していきます。「怒り」はネガティブな感情ですが、人が生きていく上で必要な何かを表しているのではという問いに、真摯に返してくれていると感じます。
子育てに困難が伴うのは、常にパラレルに自分がどう育てられたかという記憶がよみがえり、子どものときの自分自身の辛さが再現されてしまうからなのです。
(大河原美以「怒りをコントロールできない子の理解と援助」P19 )
子育てが大変なのは、親として子どもに働きかけるとき、自分が子どもだったときの親への感情を見ないわけにはいかないから。
確かに大変ですが、子どもがこれほど養育者の影響を受けるなら、見方を変えれば、チャンスではないでしょうか。理論的には、僕が親にしてほしかったことを、自分の子どもにしみてせれば、それは確実にポジティブな変化につながることになります。できるかどうかは別として。
できるかどうかは別として、想像はしてみます。やってみようとは思います。たとえば、僕らの世代にとっての大人、とくに大人の男性は、「命令する人」で、「話を聞いてくれる大人」ではありませんでした。ならば僕らは、「話を聞いてくれる大人」になってみてはどうかと。
子どもが、「話を聞いてくれる大人は普通にいる」と思って育てば、その子が大人になったとき、同じようにふるまう確率は高まります。子どもの権利条約第12条の「意見表明権」は、こういうことなのかなとも思います。
本に戻ると、「間主観性」や「解離」、ベイトソンのダブルバインド理論など、難しい概念についての理解も深まりました。「地味だけと確実に人々の役に立ってきた本」というのは、やはりありますねー。これを書いた著者、作った編集担当者に敬意を表します。よろしければ、読んでみてください。
※ http://kizunamail.hatenablog.com/entry/2020/02/13/082619 から転載
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