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いまこそ、茶道で「身体性」を取り戻そう。
リモートという働き方になってから5年が経ちました。いつでもどこでも、PCさえ開けば仕事ができる、これは本当にありがたい環境です。
働きやすいし快適ではあるのですが、この生活ばかり続いていると、どうも人間らしい感覚が薄れるような気がしてしまうんですよね。
たとえば、リモートワークを始めてからこんな変化がありました。
- 思考だけがうわすべりしているみたいな感覚をもつようになった
- 集中力が続かず、 浅い考えしか浮かんでこない
- すごいスピードで発想力や思考力が衰えていってる気がする
みなさんはそんなこと感じたことありませんか?(もしかしたら自分の場合は、リモートワークの前からこうだったかもしれませんが…笑)
これは、「頭だけ」を使う状況が人としてあまりにも不自然すぎる状況が、少なからず影響しているのではないかと思っています。身体という全体を使わずに、一部分だけを使うことで、ショートを起こしてるんじゃないかと。
さて、こんなとき、どうやったら身体性を取り戻せるのでしょうか。人によってはランニング、テニスなどのスポーツを選ぶのかもしれません。あるいは山登りや、畑いじりなど、自然とのふれあいがいい場合もありますね。
わたしの場合は、「茶道」で身体性を取り戻すことにしています。
「頭」で考えない、「身体」に染み込ませる
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なぜ茶道で身体性を取り戻すことができるのか。
一見しずかに見える茶道の動き、実はかなり緻密に設計されています。茶室の出入りの仕方、足の運び方、道具の扱い方…。合理的でかつ美しく見えるように、すべての動きが「型」として決まっています。
最初はとにかくこの「型」を身体で覚えることから始まりです。あまり言葉で説明されることはなく、「そこは右手、そこは左手」と言われるがままに、身体を動かして覚えていくのです。
理論から入らないのは、たぶん、言葉で説明することの限界があるからではないかと思ってます。もっとも重要なことは、自分が身体として獲得していかないと、身に付けることはできないのかもしれませんね。
能楽師の安田登さんの本には以下のようなことが書かれています。
師匠の身体とのつきあい方を弟子が身体で感じ、身体で真似る。師匠から何度もダメ出しをされ、何がダメなのかもまったくわからずに稽古を続けました。(中略)それは、片膝立ちの謡の姿勢のまま数時間ぶっ通しの稽古が続いていたときのことです。合理的な説明が一切ないまま、一見すると理不尽な境遇に追い込まれ、自分の感情が制御不能なほど昂ぶってきたそのとき、それまでとは異次元の「声が出」ました。
なんでもかんでも頭から考えようとしない。身体の動きに集中し、身体で覚える。今の時代には、逆に新しい考え方です。
なにをお客さんに伝え共有するのか
安田登さんの本には、こんなことも書かれています。
日本的な心というのは三層構造となっています。いちばん上、表層にあるのが、「こころ」で、その下に「こころ」を生む「おもひ」というものがあり、さらにその下、もっとも深い層に「心(しん)」が存在します。(中略)能というのは、この「おもひ」を圧縮した芸能で、そして能を演じるということは、その「おもひ」を解凍していく作業なのかもしれません。そこで解凍された「おもひ」は客席にあふれていき、それがまた観客ひとりひとりの「おもひ」と同期して、そこに何かを生み出す。
能楽師の方って、ほんとうにすごい存在感ですよね。静かでゆっくり出てきたときの「場を支配する雰囲気」は圧倒的です。謡の声は、直接自分のお腹に響いてくる感じがします。
その状態で、クライマックスを迎えると、まさに客席全体がひとつの生命にすっぽりと入ったような、不思議な一体感を覚えるときがあります。
茶道の場合はどうでしょうか。
やはり茶道も同じ。狭くて暗い茶室で亭主のお点前が始まると、その亭主の精神性のようなものが、ひしひしと空気とともに感じられることがあります。それはまさに能楽同様、「おもひ」が点前や茶によって解凍される作業と似ています。
解凍された「おもひ」が客に染み渡り、心が通いあい一体感を感じる、それがいわゆる一座建立という状態なのでしょう。
とはいえ、自分は初心者なので、亭主としてはおろか客としてだって、まったくうまく振る舞うことができません。ひたすら覚えることに必死な時期ですが、いずれは型を身に着け、さらに精神性も高めていきたい。
「うまくやろう」、こういうエゴも捨てること。まだまだ未熟ですが、そんなことを思いながら稽古をしています。
「きちんと楽しむ」という意義
それにしても、まぁ、とにかく茶道というものは、深めようとしたらキリがありません。でもこの終わりのなさが、楽しくてしょうがない。
贅沢するには、きちんとモノを享受し、楽しむことができるようにならなければならない。楽しむとは、何らかの過程を経て獲得される能力であり、こう言ってよければ、一種の技術なのである。たとえば文学的要素がなければ文学などつまらない。それを楽しむには訓練が必要だ。
こう考えてみると、楽しむという行為がもつ社会的な意義、もしかしたら革命的といってもよいかもしれないその意義が見えてくる。楽しむというのは確かに個人的なものである。しかし、もしも我々がきちんと楽しみ、楽しむための訓練を積むことができれば、おそらくこの社会は変わるのだ。
そう、きちんと楽しむというのは、案外奥が深いもの。
リモートワークで、頭でっかちになっていた自分。いまこそ茶道で身体性を取り戻し、きちんと楽しんでいきたい。それがふわふわした状態から抜け出す、解決策なのではないかと思ってます。
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