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わからないことに、どう対応したら良いのだろうか

先日、街を歩いている人に答えにくい質問を機械的に投げ続け、その反応を記録するという一風変わったドキュメンタリーを見ました。もともとは40年前に寺山修司が企画したドキュメンタリーで、今回見たものは、同じことを現代(2022年)でしたらどうなるだろうという番組。

そのドキュメンタリーの内容はさておき、驚いたのは、40年前と今と、インタビューされる人の反応があまりにも違うということ。

「日の丸」に関する突拍子もないインタビューを急にされても、40年前のほとんどの人はニコニコ笑みを浮かべながら答えており、現代の人たちは、同じ質問をされると、笑みを浮かべることもなく、むしろ同じように機械的に答えるか、若干反感を持って対応する人たちばかりだった。

もし説明もなくいきなり愛国心についてインタビューされたら、私だって「え、なんなんですか?」と身構えるだろう。少なくとも、昔の人のようににこやかに答えることはしないと思う。とはいえ、40年前の人々も答えている内容自体は困惑しているので、喜びの笑みではなさそう。

だとしたら、理解できない当惑すべき状況に対し、なんとかインタビュアーと関係を作ろうと対処する「笑み」なのだろうか。そもそも笑みには「服従」から生まれてきているという考えもあるので、敵意がないということを相手に積極的に示しているのかもしれない。

わからない状況に対し、面と向かって、敵意を示す現代人とはかなりの違い。こういった反応の違いはどうして生まれてきたのでしょう。

古代には、「畏怖」すべきことが多くあった

科学技術によってあらゆる現象が明らかにされていない時代、それこそ古代に遡れば、身の回りのことはわからないことだったはず。

私たちの祖先は、「わからないこと」に対して、どう対応していたのでしょうか。例えば台風や地震などの自然災害が起きた時、あるいは病気などの身体に起きる変化はどう考えていたのでしょう。

「日本の歴史をよみなおす」(網野善彦著)によると、そういった現象は「ケガレ」として対処していたようです。

ケガレとは、人間と自然のそれなりに均衡のとれた状態に欠損が生じたり、均衡が崩れたりしたとき、それによって人間社会の内部におこる畏れ、不安と結びついている、と考えることができるのではないかと思います。
たとえば人の死は欠損で、死穢しえ が生じますし、人の誕生は逆にまた、それまでの均衡を崩すことになり産穢さんえが発生する。人間によってどうにもならない力をもった火によっておこる火事は、社会のある部分の消滅によって焼亡穢を生み出します。

「日本の歴史をよみなおす」 網野善彦

自然現象・生死だけでなく、人に準じる存在としてみられていた牛や馬や犬についてもケガレが発生すると考えていたし、巨木や巨石を動かして自然に人為的変更を加えることもケガレと考えていました。

で、一旦穢れると、ある一定期間をそれに関わった人は忌み籠もりをして、清めなければいけないことになっています。古文書の記録を見ると、「ケガレ」と「キヨメ」という考えは、かなり古くからあったようです。これは、京都というひとつの都市に人口が集中してきたことで神経質な忌避感が肥大し、それが制度化されたと考えられている、と本には書かれていました。

で、大事なのは、ケガレに対する思いのところ。汚れを連想させるので、なんとなく汚らわしいものに聞こえますが、古代では決してそう捉えていたわけではないようです。

ケガレに対して、当時の人びとが畏れの感情を抱いていたのは、いったんケガレてしまうと、長い間家にこもって外に出られなくなるという実利的な問題もありますが、自然の力が人間の力をはるかにこえる恐るべき力を持っており、ケガレはそれにつながっていたからだと思うのです。
ですからケガレに対して人びとは、たんにそれを忌避し嫌悪するだけでなくて、畏怖の感情を持っていたのです。

「日本の歴史をよみなおす」 網野善彦

畏怖=おそれおののく。恐れるだけでなく、尊敬や崇拝の気持ちを同時に抱いていたのですね。畏怖といえば、西行法師の和歌を思い出します。

なにごとの  おわしますかは知らねども  かたじけなさに 涙こぼるる

伊勢神宮に参拝したときに、ただただそのありがたさに涙が出たという和歌。(※詠んだのは、西行ではないという説もあるようですが)

果たして現代に生きる自分も、畏怖感を感じたことがあるだろうか……。そういえば、山登りしたときは、圧倒的に大きなものに包まれているような、人ではない存在を感じたような、そんな感覚に陥ったことが何回かあります。海でも同じ。古代の人は、自然に、災害に、生死や動物に、そんな畏怖を感じていたのですね。

文明の発展とともに畏怖感が薄れる

けれど、こうした畏怖は発展とともに薄れてきたと言います。

十四世紀以前の「穢れ」は、前にもふれてきましたが、ある種の畏怖、畏れをともなっていたと思いますが、十四世紀のころ、人間と自然とのかかわり方に大きな変化があり、社会がいわばより「文明化」してくる、それとともに「穢れ」に対する畏怖感はうしろに退いて、むしろ「汚穢」、きたなく、よごれたもの、忌避すべきものとする、現在の常識的な穢れにちかい感覚に変わってくると思います。
動物に対しても同様で、人の力でたやすく統御できない力をもった生き物という感覚がうすれて、「畜生」「四つ足」といういい方すら、江戸時代には定着してくるようになります。

「日本の歴史をよみなおす」 網野善彦

わからないことが、わかってくると、畏怖感が薄れてくる。それだけでなく、忌み嫌うものとして避けるようになる。

ケガレに携わっていた役目(例えば生死に関わる職業)だった「非人」や、今でいうアーティスト「芸能者」に対して、中世以前は畏怖としての存在だったようですが、中世以降は畏怖感が薄れ、差別の対象となっていきました。

避ける、遠ざける、見ないようにする。ちょっとした違いや、バランスを崩すことを遠ざけていくことと、差別的な意識も生まれてしまう。なんだかこれが現代にも続いているようにも思います。

文明のなかでの、民謡の存在

一方で、現代に近い、たとえば昭和初期のころの人びとの生活においては、文明との関わりはどのようなものだったのでしょうか。

宮本常一さんの「忘れられた日本人」を読むと、歌や民謡が重要な役割を担っていたことがわかります。

谷がほそくなって、しかも道が二つに別れるところへ来ると、はたと、困る。道しるべも何もない。…
こういう山の中でまったく見通しもきかぬ道を、あるくということは容易でないという感慨をのべると、

「それには良い方法があるのだ。自分はいまここをあるいているぞと声をたてることだ」と一行の中の七十近い老人がいう。どういうように声をたてるのだときくと

歌をうたうのだ。歌をうたっておれば、同じ山の中にいる者ならその声をきく。同じ村の者なら、あれは誰だとわかる。相手も歌をうたう。歌の文句がわかるほどのところなら、おおいと声をかけておく。それだけで、相手がどの方向へ何をしに行きつつあるかぐらいはわかる。行方不明になるようなことがあっても誰かが歌声さえきいておれば、どの山の中でどうなったかは想像のつくものだ」とこたえてくれる。

「忘れられた日本人」 宮本常一

「七十近い年よりでありながら、声が実によくとおる。馬上で自らうたいほれつつ行く。」真っ暗な山道で、朗々と響く老人の歌声。民謡は山道を歩くときに必要だったのですね。

しかも、歌が上手な男性は、それだけで女性にも人気があったとか。だから民謡は村の人にとって重要だったのです。

それにしても、ただお互いの歌声で、距離をはかり、意図をはかる。なんと良い情景でしょうか。今だったらすぐに携帯を取り出し、ネットで検索するでしょう。歌をうたうということは思いつきもしません。

自然への畏怖から民謡まで、少し話が飛んでしまいましたが……。

わからないことには、歌をうたうぐらいでいいのではないかと思うのです。わからないことをわかろうとすると、自然にも・人にも・自分にも、何らかの区別をつけることになり、それが余計な感情を生んでしまうのではないかと。ケガレが汚れになってしまったように。

今ではなんでも「わかった気」になれます。わからないことがあれば検索をするか、ChatGPTで間違っていてもそれなりの答えも手に入れることができます。わからない状態は確かに気持ちが悪い。なんらかの答えをつけて、心の中に決着をつけたくなる。

けれど、あえて決着をつけず、ニコニコ笑ってそのままにしておいてても良いのではないか。歌をうたったり、絵にしてみたり、意味をつけない方法へと変えてみてもいいのではないか。

40年前にインタビューされていた、あの頃の日本人のように、すぐに怒らずにこやかな対応もできるのかもしれない。そんな余裕を現代でも持ち続けられるようにしたい、そんなふうに思いました。

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