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弱さも強さも両方もっていたよ

10年前の2月、私は33歳の誕生日を迎えた。その3日後、夫から「離婚」を告げられることとなる。


  絶句し、ひどく動揺したことを覚えている。いや、夫婦の仲は決してうまくいっていたわけではなかった。遅かれ早かれそういうこともあり得るかもしれない、でも子どもたちはまだ小さいし、なんとか歩み寄らないといけないよな、そう考えていたのだ。お互い努力もしていた。ショックを隠せない私に夫はこう言った。「子どもはまだ小さいから俺じゃ育てられない。頼みます。2月末までには家を出ていってほしい。実家に帰るなら養育費はだすけど、こっちに住むなら養育費はださない」と。


 当時の私といえば、資格取得のため子どもたちを保育園に預け、専門学校に通っていた。ちょうど国家試験が終わり、あとは実習を終えるのみという状況。もちろん仕事はしていない。


 ひと晩泣きに泣いた私の、翌日からの行動はこのような感じだ。

 専門学校に連絡し、状況を伝え実習を休ませてもらう了承を得る。不動産屋をまわり、今収入がなくても契約できる物件を探してまわる。役所と家庭裁判所に連絡し、離婚手続き、子どもの名字について確認。専門学校の先生は、仕事が決まり生活が落ち着くまで無償でいいからと、自宅近くの空き部屋提供を申し出てくれた。仕事と新しい保育園探しは急務だった。
結果、両親が助け舟をだしてくれ、子どもと3人いったん実家に戻ることとなるのだが。


 当時の自分の行動を振り返ると、なんて危なっかしく無知なのだろうと恥ずかしくなる。動く前に相談する場所はあったはずだ。夫の言うとおりに3週間で家を出る必要もなければ、住む場所がどこであろうと養育費の支払い有無を決められることもないのだ。

 それでも、経済力を持ち得ていなかった当時の自分は無力で、ただただ必死だった。


 あの日から10年経った今、穏やかな気持ちで思うことがある。絶望と喪失感、将来への不安と焦りに打ちひしがれた夜ははっきりと思い出すことができるし、「離婚」にかかるエネルギーはすさまじく、疲弊度合いも大きく長く続いた。


 それでも翌日から背筋を伸ばし冷静に動くことができたのは、子どもたちを守っていかなくてはという責任感からだった。母としての「底力」みたいなものに背中を押されていたように思う。


 現在、長男14歳、長女は11歳になった。母である私は相変わらずいたらなさ満載かつ課題もたくさんある。それでも、さまざまな人たちの温かい協力のもと、子どもたちは健やかに成長している。


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