見出し画像

家族と私「はたらくこと」のちがい

 誰かがいだく、固定観念や偏見からの縛りと窮屈さがやわらぎますように。多様性への理解がおだやかにひろがっていきますように。

 私はそんな想いを胸にソーシャルワーカーとして仕事をしている。

 その想いを体現できるツールが、たまたま今の仕事というだけなのだけど、きっと方法はひとつじゃないと思えてきたのは最近のこと。
 そして、この想いをしっかりと言語化できるようになったのもごく最近のことなのだ。

 働けば働くほど、さまざまな相談者に出会うたびに、ぼんやりしていた輪郭がしっかりと鮮明になってきたように思う。
 こうやって自分のはたらくを言語化するまでに、いったいどれだけの年月を過ごしてきたんだろうと思わずにいられず、そうしたらやっぱり子どもの頃のエピソードが思い出される。

-----

 さかのぼること小学生のころ。

 男の子と一緒に鬼ごっこやかん蹴りをして、真っ黒に日焼けするほど元気な女の子だったのだけど、家でひとり空想を楽しんでは詩や物語を書いたりするのも好きな子だった。

 そんな私が小学校6年生の卒業文集に書いたのは「新聞記者」。あまり悩まずにさらりと書いたことを、なんとなくだけどしっかりと覚えている。

 私の両親は、父が営業マン、母が公務員。そして母は「仕事をするなら公務員以外なし。正社員以外いけない。その他の仕事は水モノやから。安定とはほど遠い不安定な職業」が口ぐせみたいな人だった。

 もちろん幼少期から、母のそのフレーズは耳にタコができるくらい聞いてきた。それでも、その頃の私はそんなことお構いなく、ひたすら自分の好きなことをシンプルに楽しめる子どもだったのだ。

ーーーーー

 それが少しずつ崩れていったのは、高校生の頃だったように思う。

 母の価値観は娘への期待となり、その期待に全くもって応えられない私の考えや想いは否定されるいっぽうだった。いつしか、自分が抱く淡い夢やきらきらした想いを話す、ということをしなくなっていった。

 私の実家の近くに、おじ夫婦が住んでいた。高校からの帰り道、自宅に帰る前におじの家で過ごすつかのまの時間が、私はとても好きだった。

 おじ達には子どもがいなくて、私をとてもかわいがってくれた。かれらはふたりともが、自由で風通しのよい価値観を持っていて、私のはなしをいつも楽しそうに嬉しそうに聞いてくれた。「いいやんいいやん、好きなことを楽しんでしていったらいいんよ」と笑顔で答えてくれた。

 そんな大好きだったおばは、私が高校2年生の頃だっただろうか、若くして病気で亡くなってしまった。その10数年後、おじも亡くなった。

 その後私は、大学合格を目指してひたすら勉強した。理由はひとつ。母の価値観と実家から離れたい、ただそれだけだった。「長女なんだから家を守ってもらわないと困る、卒業後は必ず実家へ帰ってくるように」という約束を、軽く守るふうに答え、私は晴れてひとり暮らしをすることになった。

 実家をでてからは、母との距離は物理的にも精神的にもどんどんひろがった。

 はたらくことだけに限らず、私の考えかたや想いというものが、ことごとく母の価値観からはずれていたようで、理解しにくいどうしようもない子、ということになってしまっていった。

いろいろなはたらくがあっていい

 社会福祉士・精神保健福祉士として相談援助の仕事を始めて今年で10年目になる。この仕事をするようになったのは30代前半で、かなり遅咲きだったのにはいくつかの理由がある。

 ーーーーー

 大学卒業後、はたらくことについての想いを見失っていたように思う。好きな仕事に就いてもなぜか長くは続かなかった。

 公務員、安定、資格、正社員、肩書き。どの言葉も私にはピンとこず違和感がつのるのに、なぜだかいつも、母の価値観と自分が想う現実と理想のあいだにあるジレンマがぬぐえなかった。

 私は、仕事から逃げるようにいったん結婚という道を選ぶことになり、はたらくことについて考える日々から解放された、ように感じていた。

 ように感じていた、というのは、そこから今度は必死に、ごく当たり前の普通の家族、母親の役割を頑張った。そうすることが、はたらくことを考えない理由にできるような気がしていたのだと思う。

 もちろん、はたらきたい私のそんな生活は長く続くはずがなく、自分のなかの違和感に少しだけ丁寧に耳をかたむけると、そのあとの動きは早かった。社会福祉士の資格をとったちょうど10年前のことだ。

  ーーーーーー

 2020年の秋、働いていた組織を自分の意思で離れ、新たな場所に拠点をうつした。

 もちろん退職したことを母には言っていない、というより言えない。いつか、私がこれまで自分で選択してきた生きかた、はたらくことへの想いについて伝えることができるなら、理解はしてくれなくてもいい、どうか否定せずいったん受けとめてほしいなと思う。

 でもそういえば私は、職業人としての母をとても尊敬していた自分の子どもだけでなく、すべての子ども達を想う彼女の仕事にたいする姿勢は、もしかすると今の私の仕事の、どこかにつながるエッセンスやヒントをくれていたのかもしれない。

 不思議なんだけど、今そんなふうに思ってもいる。
 

------

 ソーシャルワーカーとしてこれまで相談を受けるなかで、たくさんの人との出会いがあった。そして、その人ひとりひとりのストーリーや背景に触れることとなる。私はその瞬間がどうしようもなく好きだ。

 生まれてこのかた生きているうちに、大なり小なりくっついてくる、固定観念からの縛りや窮屈さみたいなものを持っている人ってけっこう多いのかもしれないなと感じる。もれなく私はそうだった。

 でも、未来への可能性や選択肢は限りなくひろい。自分以外の誰かの価値観に縛られることなく、安心して自分の心の声を大切にしていってほしい。

誰かがいだく、固定観念からの縛りや偏見からの窮屈さがやわらぎますように。多様性への理解がおだやかにひろがっていきますように。

 このことが、はたらくってなんだろうと問われた時に溢れでてきた私の想い。自身の体験と現場で感じてきたリアルな体感、その両方があったから、こうやってやっと言語化することができたように思う。


#はたらくってなんだろう #ソーシャルワーカー

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?