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目指したい文章に出会った

noteである方のエッセイを読んで衝撃を受けた。

「衝撃」と安易に書いてしまったけれど、もっと正確に表すと「心がざわついた」とか、「狼狽」とか「羨望」のような。まあ言ってしまえば「賞賛」と「嫉妬」か。

初めて読んだときの気持ちを実況中継したなら「え、なにこれなにこれ。めっちゃ好き。えー、こんなの書いてみたい。いいな羨ましい」、こんな感じ。

引用して紹介・・・どころか、スキすら押せていない。決して100%がポジティブではないこの感情が漏れてしまいそうで、その結果気持ち悪く思われてしまいそうで。とりあえず非公開のマガジンを作って保存し、繰り返し読んでいる。

何が「めっちゃ好き」なのか。まず前提としてあるのが表現の豊かさ。偉そうに評価する立場にないのはわかっているが、少なくとも私からはどこをどうひねっても出てこないような言い回しをふんだんに使って心模様が綴られている。難解な語彙を使っているわけではないところに、なおさら引き出しの広さを感じる。

そして、その素晴らしい表現力を浪費するかのように、やり場のない心情を書き散らかしている。やけくその殴り書きのような言葉がいちいち心に刺さってくる。

書く対象への、執着とも言える想いの強さ。易々と感情移入して泣きそうになる。

自分が書くものとの違いを思って、別の意味でも泣きそうになる。


自分の書いた文章を読み返したとき、なんとなく「中身が薄いくせに小綺麗にまとめようとしている感じ」が漂っているように思えることがある。「中身が薄い」のはすぐには変えられない事実だから仕方ない。「小綺麗にまとめようとしている感じ」をどうにかしたくてならない。

下手だからこそ真摯にやろう、ベストを尽くそうと思いながら書いている。その努力が「小綺麗にまとめようとしている感じ」を作り出すことにしか繋がっていないのであればむなしい限りだ。それとも「中身が薄い」ことこそがすべてなのか。中身が伴わない以上、向上心は小手先のテクニックにしかならないのか。

目指すのは上手い文章でも綺麗な文章でもない。誰かの心になにかを残せる文章なのに。


もっとたくさん読もう。もっとたくさん書こう。

心が動くことから逃げずにいよう。

あの文章が私に与えたざわつきの何十分の一でいいから誰かに残せる文章を、いつか私も。

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