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「がんばったね」その優しい言葉に思うこと

次男が卒園した。


幼稚園と並行して療育センターに通っていた彼の、ふたつの卒園式。

式のあいだは静かだったものの、その我慢が退場後に爆発した幼稚園の卒園式。

開式直後から終始大荒れだった療育センターの卒園式。

・・・次に控えるのは小学校の入学式。今から覚悟している。


そんな息子に対し、多くの先生からかけてもらった言葉が「がんばったね」である。特に療育センターの卒園式では、声をかけてくれたすべての先生がこの言葉を言ってくださったのではと思うほど、たくさんの「がんばったね」をいただいた。

「がんばったね」って、とても優しい言葉だと思う。背中に手を当ててもらっているような温かみを感じる。一方で、この「がんばったね」を受け取りすぎてはいけない、とも思うのだ。


理由はふたつある。

ひとつめは、「がんばったね」の汎用性の高さだ。

卒園式ではさまざまな「がんばる」子どもたちの姿を見た。ただただ泣いている姿、照れくささからかふざける姿、そして、その場で起きていることのすべてを拒絶するかのように暴れる我が息子。それぞれに異なる心の揺らぎを見せているのに、そのすべてを「がんばったね」はカバーしてしまう。

「がんばったね」に癒やされ安心しきってしまうと、そこから先、見ることも考えることも放棄してしまいそうで、それが少し怖い。「がんばったね」の向こうにある心の状態を少しでも知りたい。そして、息子だけに当てはまる言葉を見つけてかけてあげたいのだ。


もうひとつの理由。これは私の解釈に問題があるのかもしれないが、「がんばったね」の前に(~けど)という、見えないカッコを感じることだ。

「(泣いちゃったけど)がんばったね」「(じっとしていられなかったけど)がんばったね」という見えないカッコ。「泣かずに座っていられる」「ちゃんと参加できる」のが目指すべき状態という前提があって、それは達成できなかったけれど「がんばった」からいいんだよ、という意味を含んでいるように聞こえるのだ。

意地悪な言い方をすると、目指すべき状態に少しでも近づけようと、大人の都合で美談にしている、というか。

集団行動にちゃんと参加できるようになる、というのは、もちろん目指さなければいけないことだ。きっと避けては通れない。ただ、これを唯一無二の正解と思ってしまうと、本人もサポートする家族も苦しくなるのでは、という気がしてならない。

集団行動への適応を目指す。それと同時に、集団行動できない、したくないという価値観も受容する。そんなふうにやっていけないだろうか。うまく言えないし、矛盾している気もするし、理想論かもしれないけれど。


言うまでもないことだが、「がんばったね」という言葉自体、また、「がんばったね」と言ってくれる人を否定する気はまったくない。弱い私がなんとか自分を保っていられるのは、こういう優しい言葉、優しい人たちのおかげだから。私自身もこの先「がんばったね」と声をかけることがあると思う。


「がんばったね」の優しさ、温かさに支えられながら。

「がんばったね」の向こうにあるものを見つめ続けたい。

「がんばったね」ではない言葉を探し続けたい。

「がんばったね」以外の価値観も持ち続けたい。

そんなことを考えた卒園式だった。



入学式、がんばってもがんばらなくてもいいよ。

どんな姿も受け止めるからね。

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