親になるという重責

子どもが生まれる前、親になることが怖くてたまらなかった。

自分とは別の意思を持つ人間の行動に責任を持ち、命を守る。この重責を背負い続けるなんて私にできるんだろうか、と思っていました。

子どもが生まれ、後戻りできない日々を慌ただしく過ごすうち、それが日常になり、いつの間にか重責と感じることは少なくなっていました。


先日、自宅マンションの窓から次男が転落したのではと思わせる出来事がありました。

私が風呂から出てくると、次男の気配がない。家族に聞くと、そこの部屋にいると思う、とのこと。言われた部屋のドアを開けると、部屋は無人で、窓が開いていて。

実際はどういう状況だったのか、なぜ次男は無事だったのか、詳細は割愛させてください。とにかく次男は無事で、私は出てきた次男を抱きしめながら、しばらく立ち上がることができませんでした。


小学生になり、さすがに幼児のころよりは危ない行動も減ってきた次男。私も以前ほどは彼の動きに神経質にならなくなっていました。

でも、成長するということは、前にはできなかったことができるということでもあります。よじ登ったり、乗り越えたり。以前には想定してなかった危険が生まれているかもしれないということ。


今回の出来事を無事でよかっただけで済ますにはあまりにも恐ろしくて。あれからずっと考えています。

行動範囲は広がっている。大人の目を離れる時間も今後増えていくのだろう。危ないことを危ないと何度も言い聞かせるのは当然だけど、発達に遅れのある彼に私の言葉はどこまで入るのか。それでも守らなければいけない。どうすればいいんだろう。


子どもが生まれる前、親になることが怖くてたまらなかった。

きっとそれは正しくて、大げさでも未知ゆえの恐怖でもなかったのだと思います。

子どもがいる日常に慣れ、重責を重責と感じることが減った今の方が、感覚が麻痺してしまっているのかもしれません。


今回の記事は、書籍『書く習慣』にある「1ヶ月チャレンジ」のDay 9「最近泣いたこと」をテーマに書きました。



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