子どもを亡くすという経験をしてどう変わった?それとも変わらなかった?~夫りょういち編~
そう、4年前の事、
僕たち夫婦は18トリソミーという染色体異常で生まれた息子を亡くしました。
名前は天太(てんた)
とっても可愛い顔の男の子でした。
で、今回はその経験で何か変わったか?それとも変わらなかったか?
という事ですが…
僕としては、「変わらなかった」かなぁ… 。
まぁ日々常々、色々な事は起こっているわけで、その積み重ねの上に「今」があるわけです。そう言う意味では息子「天太」の死も変化の1つで、多かれ少なかれ、必ず何かしら影響が今の僕にあるわけですし、「変わらなかった」とは言い切りません。
ただ、「この子が人の命の尊さを僕に教えてくれて~」とか「残された僕たちはこの子の分も精一杯生きていこう~」とか、そう言った、何かこの出来事をきっかけに「人生観変わりました」的なでっかい変化は特に無いです。
と言うか僕的には全く皆無です。
近親者の死をきっかけに人生観に変化が起きたりする人の話しを見聞きする事ってたまにありますよね。きっとこういう変化が起きるのって大抵は大きな「悲しみ」という感情があって初めて起こるんじゃないかと思うんです。
所が僕は天太の死で「悲しみ」を殆ど感じませんでした。20年位前に父親を亡くした時もそうでした。
なんか僕は人の「死」に対してあまり「悲しい」って感情が湧かないみたいなんです。
なんですかねぇ…
ここまで聞くと相当にドライで感情の無い冷徹人間みたいな印象を持たれてもしょうがないと思いますが…
まあ、「悲しい」と思うのが普通というか、一般的だろうと僕も思うんです。
確かに父親を亡くした頃はそれでも平然としていられる自分に「俺って相当冷たい人間なのかも…」とか思ったりしたんです。
でも、ニュースとかで「子供への虐待」とか「老人ホームでスタッフによるお年寄りへの虐め」とか見ると凄く辛くなるんです。そういったニュースは見るのも嫌だし、ゆっきぃが「聞いて!ニュースでさぁ~」とかそっち系の事を話し始めると「止めてくれー!聞きたくない!」って聞くのも気分が悪くなる。
小さい頃なんかはずっと両親の死を恐れていました。
僕の両親は一般的にみて、珍しい位高齢だったせいなのか、母親がずっと看護師をやっていたせいなのか、親の死や病気を小さい頃から割と意識してしまう所があったみたいで、「もしお父さんが死んだらどうしよう…」「お母さんがガンになったらどうしよう…」なんて気に病んでは重い気持ちになったりしていました。
今だってこのブログを書くにあたって、どう書けばいいかな~、とか迷いながらパソコンの動画で、久しぶりに天太や小さい空ちゃん(娘)を見ては「うわぁ~!!なんて可愛いいんだ!!」とか胸がキュンキュンなったり、何かとっても切なくなったり…
ね?そうしてみると決してそれほど冷徹人間って程ではないんじゃないかなぁ、と思うわけです。
で、ここからは自分なりの分析です。
何故僕は「死」に直面して「悲しみ」を感じないのか?
答え:きっとバカなんです
いやいや!もう少し柔らかめに表現させてもらって
答え:きっと想像力が弱いのです
どういう事かと言いますと、
さっきも述べたように「弱い者に対する虐め」とか「親が死んだらどうしよう…」に対しては悲しみや切なさを感じる。
僕的に言うとこういう事柄には「ストーリー性がある」わけです。
小さい子供が虐められて必死にガマンしているシーンが目に浮かんだり、親が死んだ後、残された自分の寂しい生活シーンが想像されたりするわけです。
すると悲しかったり、切ない気持ちになっちゃう。
それに比べ「死」の場面。
そこにある死体、なんかすげぇインパクト!
顔色なんか尋常じゃなかったりするし、ピターって止まってるし!
みたいな…
そして触ってみると
ふぉ~!なんか変な感触~、毎回慣れねぇ~わ~ ( ̄д ̄)!!
とかなっちゃっいましてねー (;一_一) ……
むろん顔や態度には出しませんよ、大人ですから。
でも、迫力にやられちゃうって言うか、やっぱり何だかんだでスゲェんすよ…
死体の持つリアリティーとか、
心電図がマジで止まったりするシーンとか…
うわぁ~すげぇ~
って
それは自分の子供の時でもそうでした。
気分悪くなる人いたらごめんなさいね。m(__)m
でもホントそうなんです。
なんか僕の想像力でそこに悲しいストーリーがくっ付くには、迫力あり過ぎ、インパクトあり過ぎなんです。
想像力不足でストーリーを持ってこれないんです。
じゃ、「死後しばらくたって落ち着いたら悲しくなるんじゃないの?」「1人減った日常生活には想像力が無くっても充分ストーリーがあるんじゃない?」ってなるかと思うんです。
それについても自分なりには分析があるんです。
あくまでも自分なりの分析ですよ。(←軽蔑されたくないので必死でがんばりまっせ(;^ω^))
天太は存命中、何度も入退院を繰り返していたんです。結局生きている時間の半分は病院で過ごした感じ。
で入院中は朝、車にゆっきぃを乗っけて面会を済ませ、それから職場に出勤する日々だったんです。で、いつ携帯が鳴って「亡くなりました」とか「至急来てください」とかあってもおかしくない状態なんです。
で病院に行く車の中、仲良し夫婦の僕らは普通に下らない会話とかしてゲラゲラ笑ったりしてるわけです。まだ携帯が鳴ってないだけで病院では天太が大変な事になってるかもしれないんですよ。
それどころか上のお姉ちゃんの空だって、今ホントに無事に保育園で生きてるかどうかは実は分からない。
でも車で笑っている2人。
多分いつも通り生きているだろう、というだけで、実は子ども2人は既に死んでるかもしれないんです。目の前に居ない時は何時だってその可能性はあるって事なんです。
車内では下らない会話だけでなく、天太の事、空の事も勿論会話に上がって、特に天太に関しては死んだ後の事も会話に出やすい。
でも、今実際に死んでるか生きてるか僕たちには分からない。
そんなある日、病院に早くついてしまって面会時間待ちの車中でにこんな会話をした事を覚えています。
「いま、天太がホントに生きてるかどうか分からないよね」
「そうだよねぇ、いつも僕らに与えられているのは目の前の現象だけだよね」
「そう、目の前の感じられる現象と感じられる思考のみだね」
もし、実際、近親者や友達が死んでいてもこの会話は成立するんです。知らないだけで死んでいるかもしれない。その人たちに対する記憶や印象を会話に持ち出して会話したり出来る。
「死って捕まえられないね」
「経験って掴めないよね」
経験は何時も目の前を通り過ぎる…
やって来ては瞬時に自分の感覚を通り過ぎて行く…
何時でも実際にあるのは感覚と思考だけ…
今だけ…
僕はゆっきぃと結婚して11年目です。
でも、僕の感じるゆっきぃは他の人が感じているゆっきぃとは違うんです。ゆっきぃに対するイメージは人それぞれ違うんです。でも僕は僕の感じるゆっきぃしか知らないし、僕の感じているゆっきぃに対するイメージはゆっきぃ本人も知らない人物なんです。
目の前に居る人の肌の色って、光が反射して目まで届いて初めて認識できる。つまり反射した色を認識してるんですよね。その物自体が見えてるわけではない。
僕はゆっきぃの実物を見れないんです。
つまり僕は11年間ゆっきぃのイメージと結婚しているんです。
そして今このパソコンを打っている部屋にゆっきぃは居ない。
もしかして、別の部屋で死んでいるかもしれません。
今の僕に経験出来るのは、目の前の現象を感覚する事とゆっきぃのイメージを思考する事だけなんです。仮に目の前でゆっきぃが死んでもイメージが無くなるわけじゃないんです。そもそも僕が結婚しているのはゆっきぃという僕の持つイメージなんです。僕が空ちゃんを思う時、それは僕の持つ空ちゃんのイメージなんです。
映画やドラマとかで恋人とかが亡くなってしまって残された方が「彼は死んでもずっと私の心の中で生きています」とか言うじゃないですか?
でも死ぬ前からずっと彼が生きているのはその人の心の中なんです。
僕が死をあまり悲しく感じない事に対する自分なりの分析、ちょっとは伝わりますでしょうか?
別に映画やドラマみたいに「天太は僕の心の中で今でも生きています!」とか言いたいわけでは無いんですが、天太が死ぬ前も、死んだ今も、僕にとっての天太はあまり変わらないんです。目の前に居る居ないにあまり関係無いんです。
ただ、現象として登場シーンが無くなったのでだんだん想い出す事も減ってきます。イメージも更新されません。それに対して登場シーンが今も凄く多い、ゆっきぃや空ちゃんのイメージは更新され続けています。それが大きな違いです。
それとだんだん想い出す事が減ってくる事に対しての寂しさもあまりないようです。
目の前の「今」は何時でも凄いリアリティーで刻々と変化を続けていて、僕にとってはそちらの方がインパクトが大きくて…勿論思い出も大切ですが、思い出すのも何時でも「今」、
「今」しか経験できない、そして過ぎ去る
「経験は掴めない」…
この間ゆっきぃのお父さん、つまり僕のお義父さんが亡くなりました。とっても家族に愛された方でした。葬儀ではお義母さんやお姉さん、親戚の方の涙するシーンがありました。でも、間々に笑顔も沢山ありました。ふざけるシーンや精進落としを頬張るシーン…
目の前の現象のみに生きている「今」と、思い出に涙している「今」
どちらの「今」も常に過ぎ去る
それがとっても良いな…と、僕は思います。
たまに自分の鏡に映った白髪やひび割れた踵を見てビックリします。
「いつの間にこんなになったんだろう!?」
そこには凄い新鮮さとリアリティーがあります。そこにビックリしている僕は歳をとらない無色透明な意識です。
人の細胞は30兆とも60兆とも言われます。その内100億が毎日入れ替わるそうです。
目の前の世界では常に「死」と「生」がダイナミックに展開しているのです。
経験とは「生」と「死」そのものだと思うのです。
藤山家嫁ゆっきぃ 最愛の旦那さん亮一さんと最愛の娘(7歳)空さん、義理母きみ子さんの4人&愛猫2匹でめっちゃ幸せに暮らしている。亮一さんと私、双方から1つのテーマについてやりとり形式のブログを書き綴っていきます。 夫婦のこと、SEXのこと、子育て…亮一さんの面白い視点に注目!