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『ただしさに殺されないために』

しばらく積んでいた本、御寺田圭氏こと白饅頭氏の『ただしさに殺されないために』をようやく読み終えましたので、そのまとめや感想、私が考えたことなどをここに記しておきます。

1. 御寺田氏のメッセージ

1-1.「ただしさ」に殺される未来

ツイッターやnoteではフェミニズムや左翼社会学者への批判を軽快な口調で展開する御寺田氏ですが、この書籍では冒頭から、ネットの媒体ではあまり語られていない「強い懸念」がフルスロットルで綴られていました。いわく、「ただしさ」の希求――すなわち昨今先進諸国で先鋭化する「人権思想」や「ポリティカルコレクトネス」の追求――は、自らの首を絞めつつあるのではないか。こうした思想を徹底すればするほど、社会の脆弱性は増し、持続可能性は低下していくのではないか。そしてこれらを標榜するいわゆる西側諸国の弱体化は、ついには世界の覇権を独裁国家やイスラム勢力に譲り渡すことにつながるのではないか。いや事実、今まさにそうなりつつある。さらに言えば「ただしさ」の縛りがあるがゆえに、西側諸国は他の好戦的な勢力に対する有効な防御策を練ることすらできなくなってきている。そういった懸念、氏がよく使う言葉でいえば「ダーク・テキスト」が切々と綴られていました。現状、世界では西側の民主主義国家の勢力が他の勢力と比べ明らかに優位・支配的であるからこそ、平和が保たれているという面は否定できません。このパワーバランスが崩れることは何を意味するのか。「トゥキディデスの罠」という言葉がありますが、既存の支配勢力の力が弱まり、新興勢力がそれに拮抗するようになった時、そこにはしばしば戦乱が生じます。そうなれば、多くの人々が死傷することは避けられないでしょう。「人権」や「ポリコレ」を追い求めることが、ひいてはそうした事態を招くのであれば、誇張でなく文字通り、私たちは「ただしさに殺される」ことになるでしょう。今の平和の存続を望むのならば、私たちはこの問題を真剣に考える必要があると思われます。

1-2.失われつつある「人のつながり」

スケールの大きい話から入りましたが、本書ではその他にも「ただしさ」が現代社会にもたらしている様々な歪みを分析しています。特に、「人間関係」に由来する不快感を最小化するよう動いてきたことで生じてきた問題を、具体例を挙げながら説明しています。「人のつながり」がもたらしてきた恩恵が失われつつあること、そして「不快」とされた者たちが疎外され「厄介者」として透明化されたり「こどおじ」などと嘲笑されたり、最悪の場合「やくざ者」「無敵の人」などとして人々に牙を剝いて襲い掛かること。こうした実情や、彼らに対する私たちの欺瞞的態度について、御寺田氏は疑問を呈するように訴えかけています。「ただしさ」は今、こうして個人を、社会を、そして国家を蝕みつつあると。

2.何が私たちを「ただしさ」に駆り立てるのか

では今、何が世界を、そして我々をそうした「ただしさ」へと駆り立てているのでしょうか。要因は色々あると思われますが、本書の内容をふまえて、少し整理してみることにします。

(1) 「快適」な社会の構築によるストレスへの脆弱化
(2) ネットの普及による個々人の言動・行動の可視化
(3)「物語」を求めるラディカリズムの台頭
(4) 西欧諸国におけるバックラッシュとしての「ただしさ」

2-1.「快適」な社会の構築によるストレスへの脆弱化

現代の世の中は、かつてと比べるとずっと暮らしやすくなりました。技術の進歩により生活水準は飛躍的に向上しましたし、治安の改善により犯罪や暴力沙汰はめっきり少なくなりました。そしてもう一つ、近年は「人間関係」によって生じるストレスが顕著に減少してきていると思われます。パワハラ、セクハラを筆頭に「他者に不快感を与える行為」は厳しく取り締まられるようになってきました。またその他にも、核家族化や飲みニケーションの減少など、色々な面で「わずらわしい人付き合い」を排除する動きがどんどん進んできていると思われます。こうして、私たちは人類史上かつてないほどの「快適な」社会を手に入れてきました。しかし、人間は「慣れる生き物」です。快適になったらなったで、残された少しの不快感が今まで以上に大きな問題となって見えてきます。そうして、わずかな不快感すら許容すべきでないという風潮が、最近は急激に高まってきました。これは人々の「精強さ」の低下をもたらしていると思われますが、社会の維持継続という観点で言えば、特に問題なのは「子供を産み、育てる」という行為のハードルが劇的に上がってしまったことだと思われます。まず「出産」に伴う物理的な痛み、思い通りにならない乳幼児期の子供の世話、あるいはその役割の分担。こうした行為は、不快感や人間関係を最小化した現代では、相対的にとてつもなく大きいストレスとして立ちはだかるようになってしまった。そして「生まれてきた子供に与えるべき環境」のハードルも上がっている。安全や衛生はもちろん、教育の要求水準も高まっており「雑に育てる」ことが許されなくなってきている。これらは現代の先進国で進む少子化の大きな要因であると考えられます。逆に発展途上国で出生率が高いのは、語弊を恐れずに言えば、親も子も常に一定の強度の危険や不快感にさらされるのが当たり前という状況になっていることが関係していると考えられます。

2-2.ネットの普及による個々人の言動・行動の可視化

ネットやSNSの普及により、昨今は世界全体が「監視社会」となってきているように思われます。最近では「スシローペロペロ事件」などが記憶に新しいですが、何か不適切な発言や行為をして、それが写真や動画としてSNSに投稿されたが最後、それは瞬く間に全世界を駆け巡り、当人は社会の多方面から制裁を受け続けることになってしまう。ネットの海に放たれたデータは、もはや消すこともかなわず、デジタルタトゥーとして半永久的に残り続けてしまう。こうした社会では、他者から後ろ指を指されないように行動し続けることが最適解となるでしょう。問題なのは「不適切な発言や行為」の基準が時と共に移ろいゆくという点です。セクハラやパワハラの基準が徐々に厳しくなってきたり、LGBTへの嫌悪感の表明等が近年急激に問題視されるようになってきたりと「数年前であれば特に問題にならなかったこと」が今は問題とされる、ということが非常に多い。こうした社会では、少しでも批判される確率を低くするため、時代の状況を見つつ「よりただしい」姿を保ち続けることが望ましいと言えます。しかし、社会の大多数がそう考えるようになった結果「ただしさ競争」とでも言うべき現象が世の中を席巻するようになってしまった。人も、組織も、先を争って己の「ただしさ」を追い求めるようになってしまった。「これはおかしいんじゃないか?」そう思ったとしても、もはや口には出せない。迂闊にこぼした一言は、切り取られ、拡散され、自分の社会生命を奪う災厄となりかねないからです。そうして、重要な立場にある人であればあるほど、本音は胸の奥に隠すようになってきている。

2-3.「物語」を求めるラディカリズムの台頭

世の中にはフェミニズム、反原発、ヴィーガン、反ワクチンなど、様々なラディカルな主張を展開する集団があります。御寺田氏はこれらのラディカリズムに共通する性質を指摘しています。それが「責任の外部化」と「生きづらさの物語化」です。何らかの生きづらさを抱えている人にとって「あなたの生きづらさはあなた自身の責任ではない。全ては〇〇(男社会など)が悪いのです」という言葉は非常に魅力的に響いてしまう。単純化されたその物語をすっぽり受け入れてしまえば、もはや自責感情や自己嫌悪にも悩まされず、世の中の複雑さに頭を悩まされる必要もない。全ては〇〇が悪い。〇〇さえ打ち倒せばみんな幸せになれる――そうした思考に身を任せ、鬱屈した感情を攻撃衝動に変換して〇〇へとぶつけることで、日々の苦痛を紛らわせていく。現代社会において「ただしさ」の急先鋒となっている人々の中には、この手の人々が少なからず含まれていると思われます。以前私はフェミニズムを「(新興)宗教」のようだと述べましたが、それはこの手のラディカリズム全般に当てはまる特徴だと言えるでしょう。このラディカリズムの台頭には、先に述べた2項目の要素も関係していると思われます。SNSで遠くの人と簡単につながれるようになったことで、ラディカリズムを信奉する人々同士が出会い、共鳴しやすくなってしまった。また、人間関係が希薄になったことで、孤独に耐えかねてラディカリズムに傾倒する人が増えてきてしまったのではないかと思われます。

2-4.西欧諸国におけるバックラッシュとしての「ただしさ」

最近の欧米諸国は人種やLGBTへの差別解消、環境保全やヴィーガニズムなど数多くの「ただしさ」を推進しているようですが、これは「これまでの行いへの反省」というか、ある種のバックラッシュとしての現象でもあると思われます。これらの国々では、かつては日本などよりはるかに人種差別がひどかったわけですし、日本で「衆道」などがあった一方、カトリックの伝統的価値観では同性愛は「罪深い行為」とされていた。産業革命以後は、好き勝手に環境汚染をしてきたわけですし、肉食だって日本よりずっと活発にやってきていた。何なら近世までの日本よりはるかに「野蛮」で「遅れた」状態であったわけです。そうした過去への反省から、バックラッシュのように「ただしさ」の追求が行われている、という面もあると考えられます。無論、自国でそうした運動を行って頂く分には何も問題ないのですが、最近ではそれを「世界の人々が共通して守るべき規範」のように他国にも振りかざし始めてしまった。カタールで開催されたワールドカップにおいて、LGBTへの差別や人権侵害があるとして、ドイツのチームが抗議のパフォーマンスを行ったことは記憶に新しいところです。自分たちはさんざんひどいことをやってきておいて、いざ「価値観をアップデート」したら、他国にそれを合わせるよう強要するとは傲慢も甚だしいですが、情けないのは「これぞ正義」とばかりに追従する他国であると思われます。日本でもよく出羽守が北欧などを引き合いに日本が「遅れて」いると述べたてますが、なかなか香ばしい光景ではあります。

3.我々はこれからどうすべきか

それでは、これら「ただしさ」のうねりに、私たちはどう向き合っていけば良いのでしょうか?ネットで本書籍への反応を見ると「白饅頭は問題ばかりを示してろくに生産的な意見を出していない」という声が散見されるようです。確かに、御寺田氏は「これが理想的な解決法だ」とは示していないように思われます。というか、そもそも「簡単な解決方法などない」というのが本書の主要なメッセージのひとつですので、明快な答えが示されないのはある意味必然的ではあります。しかしそれでも、個々人が考えてみることはできるでしょう。ここでは、私の考えを書いてみたいと思います。

まず、先に述べた「ただしさ」を後押ししている4つの要素をもう一度考えてみましょう。
(1) 「快適」な社会の構築によるストレスへの脆弱化
(2) ネットの普及による個々人の言動・行動の可視化
(3)「物語」を求めるラディカリズムの台頭
(4) 西欧諸国におけるバックラッシュとしての「ただしさ」と他国の追従

(1)(2)については、致し方ない部分も大きいとは思います。文明や治安の水準を後退させるわけにはいきませんし、ネットがなかった時代に今から戻ることも不可能です。しかしながら、表面的な「快適さ」の誘惑に抗っていくことは可能ではないかと思います。そして(3)(4)については、私たちの心持ち次第で、より積極的に抗っていけるのではないかと思っています。

3-1. 国際社会への対応

世界には様々な国や民族があり、その分だけ様々な価値観が存在しています。本来、そこには貴賤や優劣はないはずです(し、それこそが「多様性」ということでもあります)。さらに言えば、同じ国や地域においても、価値観というものは時代とともに移り変わります。その意味で、現代の欧米諸国の価値観こそが唯一絶対の「善」である、とでもいうような考えは、そもそもの始まりから疑問があるわけです。それでも、日本が明治維新・文明開化を通して国際社会における高い地位を確立したように、西欧諸国がゆるぎない絶対強者の地位を確立していた時代であれば、その価値観にならう戦略的メリットは大きかったと思われますが、西欧諸国がポリコレの縄で自縄自縛に陥り、その覇権に陰りが見え始めた今、沈みゆく船に盲目的に同乗することはないのではないでしょうか。誤解のないように付け加えると、西欧諸国から離反したり、彼らと対立すべきだと言っているわけではありません。そうした国々とできる限り良好な関係を保つことは無論重要でが、文化や価値観まで追従的に共有する必要はないのではないか、ということです。さらに言えば、それらを形だけ輸入したとして、日本という特殊な環境に馴染むかという疑問もあります。政治家の女性比率や同性婚など、彼らが振りかざす「ただしさ」を、私たちは慎重に、そして批判的に判断していく必要があると思います。

3-2.ラディカリズムへの対応

前述の通り、昨今「ただしさ」を先導しているラディカリズムの人々のうち、少なくない数の人は、政治的・社会的な改革を「建前」としていつつも、その実「自分の生きづらさ」を紛らすことが「本音」としての目的になっていると考えられます。まず、こうした人々の「要求」には決して屈してはならないと言えるでしょう。彼ら彼女らの要求には際限がないからです。自分の生きづらさを攻撃衝動として発散することを目的とする人は、仮にひとつの要求が受け入れられても、次の攻撃対象を見つけて活動を継続すると考えられます。むしろ要求を受け入れさせるという「成功体験」を積むことで、「ただしさ」への自信を深めた彼ら彼女らは、ますます過激にラディカリズムへとのめり込んでいくことでしょう。コンビニから成人誌が撤去されたら、次はアダルトに該当しない水着グラビアのようなものまで「エロ本」としてやり玉に上がっているのも、まさにこの好例だと思います。仮に水着グラビアなどを撤去すれば、次は女性キャラが出てくる漫画雑誌が標的になることは想像に難くありません。
ラディカリズムの要求には一切譲歩すべきではない。しかし一方で、こうした「人々の生きづらさ」を生み出す要因については、別途対応していくことが必要だと思われます。理想論と言われるかもしれませんが、生きづらさを抱える個々人が何らかの形で包摂される世の中を作っていくことが重要だと思われます。例えばアンチフェミニズム論者の小山晃弘氏は、過激な男性嫌悪を示すフェミニスト女性は、しかるべき男性のパートナーに出会い、関係を築いていくことでその攻撃性や他責性を鎮静化させることができる、といったことを、提唱しています。彼はあまり上品でない言葉でそれを表現しているので引用は差し控えますが、内容は私も同感するところではあります。同様に、他のラディカリズムについても、しかるべきコミュニティに包摂されることで、本人の生きづらさを攻撃性に変換することを防ぐことができるのではないかと思っています。

3-3.失われた「人のつながり」を取り戻す

いま述べたこととも関連しますが、私たちは「人のつながり」というものの重要性を、あらためて認識すべきではないかと思います。本来、群れを作って行動することは、社会的生物である人間にとって大きな強みであったと思います。しかし昨今は、目先の快適さを追い求めるばかりに、人のつながりが希薄化している。これにより、様々な不具合が生じているのではと思います。また「不快なつながり」を排除することで、特に「持たざる者」すなわち容姿・知能・コミュニケーション能力などに乏しい人々に大きなしわ寄せをもたらしていると思います。不快だ、面倒だと認識さて、健全な人のつながりから放逐された人々は、ラディカリズムに走ったり「やくざ者」としての生き方を余儀なくされたりしてしまうのではないかと思います。面倒な他人を都合よく切り離し、透明化するのではなく、できるだけ人間関係の輪に包摂していくのとが望ましいと思います。
ただもちろん、それは言う程簡単なことではないと思います。特に「厄介な人」といきなり関わるなどハードルが高すぎる。私はまず、身近な人間関係から再評価していくのが良いのではと思います。友人同士、同僚同士、恋人に夫婦、親と子、兄弟姉妹、親戚、先輩と後輩、上司と部下、ご近所の人たち…。こうして書いているだけで、私も面倒くさい記憶がいくつも去来して若干うんざりする部分はありますが、そうした面倒くささや不快感も、人間として生きていく上での必要経費ととらえ、積極的に関わりを持っていくのが良いと思っています。社会とはそういうものだと、認識を共有していければと思っています。

4.おわりに

4-1.臨界点を越えつつあるポリコレ

本書のような「ポリコレに対する疑問」については、2, 3年前までは話題にすることすら憚られるような状況だったのではと思います。うかつに公の場で口走ってしまおうものなら、たちまち「差別主義者」「ミソジニスト」などのレッテルを張られ、「炎上」させられ、挙句「キャンセル」されてしまうわけですから。それで誰もが、内心は釈然としない思いを抱えながらも、ええそうですね、と、消極的に賛同の意を示していた。かくいう私も、そうした人間の一人でした。御寺田氏は本書で、そうしたポリコレの「裸の王様」を、正面きって裸であると喝破したと言えるでしょう。折しもここ最近は、ポリコレを推進する人達も、表立って反対する人がいないのをいいことにやりすぎてしまい、ある種の臨界点を越えつつあるように思います。最近では「実はポリコレやフェミニズムはおかしかったんじゃないか?」と疑問を持つ人が増えてきているように思います。はじめはネットの片隅からでしたが、今や実社会でもそうした意見はちらほらと出始めている。「正義の恫喝」で人の口をふさぐのは、もはや不可能になりつつあると思われます。

4-2.「白饅頭日誌」について

冒頭でも少し述べましたが、御寺田氏こと白饅頭氏は、noteで「白饅頭日誌」という有料マガジンを現在進行形で執筆されています。
白饅頭日誌(月額課金マガジン)|白饅頭|note
本書の内容はほとんどがそのマガジンとオーバーラップしています。マガジンの方がエンターテインメント性が高く、また時事ネタを頻繁に拾っていますので、本書を未読の方は、まずそちらを見てみるのも良いかと思います。一方本書では、マガジンの方であまり触れられていない、国際社会においてポリコレが及ぼす影響の懸念などが詳細に述べられていますので、そちらが気になる方は、本書を読まれることをおすすめします。

4-3.その他

以上、一通り感想や考察を書いてはみましたが、どうも自分の思ったことが上手く文章にできていないようにも思われます。また何かあれば別途記事を書こうと思いますが、もしご質問等ありましたら以下にコメントをお寄せ頂ければと思います。それでは失敬。

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