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すべてほのかに

 9月下旬、昇進の報せを受けた。

 それを少し嬉しく感じたことが、自分でも意外だった。

 社会に出るということはつまり身を堕とすということであって、いかなる喜びも「働いている」という現実の惨めさに勝ることはない。そのような考えにあって、がんじがらめの世界に身を堕とした悔しさのみで働いている自分がなぜ昇進を僅かながらでも嬉しく感じたのか? 昇進とはある意味で、会社という機構に自身の肉をさらに埋め込むということなのだ。

 某番組で「"社会人" ではなく、いつまでも "社会人気取り" のスタンスで働いている人間がいて、そういうやつらはしょうもない」というようなことをある人が言っていたが、その "しょうもないやつ" が僕である。しかし講釈を垂れていたその人も痴情を露わにして表舞台から消えたので、誰が "社会人気取り" でないのかは分からないものだけれど、それはともかく、働いていて時折思い返すのは大学時代の友人のアルバイトの話。

 弁当屋で働くことになった彼は、客が自分の握ったおにぎりを買っていくのを面白く感じた、という。

 これは別に彼がおにぎりに細工をしたとかそういう低レベルの話ではなく、マニュアル通りにやれば、彼の人間性を介さずに、商品として提供できるものが出来上がってしまうという可笑しさだ。きちんと手順を踏めば、彼のぐうたらな性格は問題視されない。ここには企業による個人の“透明化“が行われている。その透明具合が面白い、というわけだ。

 社内や客先で二、三十歳上の相手と話した後、この話を思い出す。相手の前では "しょうもないやつ" である僕の存在は消えて、営業マンとしての僕が浮き上がる。言うなれば、相手は俺の握ったおにぎりを食っているのである。

 次の『フレンズ』のレイチェルの台詞も働いていて思い返すもののひとつ。

Rachel: Okay, fine. Gunther, y'know what, I am a terrible waitress, do you know why I’m a terrible waitress? Because, I don’t care. I don’t care. I don’t care which pot is regular and which pot is decaf, I don’t care where the tray spot is, I just don’t care, this is not what I want to do. So I don’t think I should do it anymore. I’m gonna give you my weeks notice.
Gunther: What?!
Rachel: Gunther, I quit.
(引用元:http://www.livesinabox.com/friends/season3/310rquit.htm)

 レイチェルはウェイトレスとしてコーヒー・ハウスで働き始めたものの、注文を間違えることが多くいつまで経ってもミスが絶えない。そこで支配人のガンターは、コーヒーを提供する前には必ず自分にどのポットがレギュラーかデカフェかと確認を取れ、と注意をする。するとレイチェルは「仕事を辞める」と言い始める。たしかに自分はひどいウェイトレスだ、なんで私がひどいウェイトレスなのか分かるか? それは、どうでもいいから。どのポットがレギュラーで、どのポットがデカフェだかなんて、どうでもいいから。どこがトレーの置き場所かなんてそんなことは知ったことじゃない。どうでもいい。なぜならこれは私のしたい仕事じゃないから。だからもうしないほうがいいのかもしれない。今日でこの仕事を辞めます。

 こうした気持ちは僕の身体の奥底にも煮えたぎっていて、普段はそれを押し殺して働いている。すべてがどうでもいい。しかし、ここが自分のねじれているところだと思うのだが、僕はどうでもいいと感じながらも、やる以上は真面目に頑張ってしまうのだ。適当にこなせばいいやの精神ではなくて、やるからにはちゃんとやらねばと義務感が芽生えてしっかり働いてしまう。機械的に処理するのではなく、相手が人であるということを忘れず、電話でも冷たい対応にならないように気持ちを添えて、事務的なやりとりにならないように気をつけている。相手の負担が減っているか分からないけれど、仕事仲間がどうすれば楽になるかな、と考えて動いているつもりでもある。昔は他人から真面目だと言われてなんだか不服だったが、どうやら俺はだいぶ真面目な人間だったらしい。

 そしてこの一年というのは真面目に働くのは損だな、と思い知らされ続ける日々だった。入社してから毎年「今年が一番つらい」と思っているけど、特にこの一年というのはつらいものがあった。本来はチーム制で取り組む案件を結局ひとりでこなすことになり、その果てに俺ははっきり言えば滅気ていた。そこに昇進の話があったのだ。

 思えば、俺は頑張って人から評価されたことがなかったのだった。別の分野で生きていきたいと思っているけれど、そちらではまったく相手にされておらず、たぶんもう駄目だろうという予感は年々強まっている。しかし、力を入れていない(が性格的に力を入れてしまう)仕事では評価を得ることができた。この note もそうだけど、自分がやることなすことすべて虚空に石を投げているような感覚があるのだ。だから反応があることは嬉しい。昇進の報せを受けたとき、ああ、このまま行けば、懐を考慮せずに好きな音楽を聴いて気になった映画を観に行けるこの生活を死ぬまで送ることができるんだな、と考えた。考えてしまった。

彼は月給を貰うとき、同時にクビの宣告を受けはしないかとビクビクし、月給袋を受取ると一月延びた命のために呆れるぐらい幸福感を味うのだが、その卑小さを顧みていつも泣きたくなるのであった。彼は芸術を夢みていた。その芸術の前ではただ一粒の塵埃でしかないような二百円の給料が、どうして骨身にからみつき、生存の根底をゆさぶるような大きな苦悶になるのであろうか。生活の外形のみのことではなくその精神も魂も二百円に限定され、その卑小さを凝視して気も違わずに平然としていることが尚更なさけなくなるばかりであった。
— 坂口安吾『桜の森の満開の下・白痴 他十二篇』白痴(岩波文庫 p. 71)

 青さも反抗心もなくなってきた。不安定な気持ちと揺らぐ心はまだある。本当になくなってほしいのはこっちなのに。

 そんな思いも少しずつなくなっていく。それが寂しいような、でも解放されていくのが嬉しいような。

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