中毒(小説を書く人のエッセイ Advent Calendar 2024)
読書とは猛毒を飲み下す行為だ。
始まりは物心つく前に読んだ絵本だった。
内容は覚えていない。金魚が冒険する話だったかもしれないし、青虫がお腹を壊す話だったかもしれない。美味しそうなパンがたくさん描かれたものだったかもしれないし、色んな絵の具をぶちまけただけのものだったかもしれない。
家で見たのかも保育園で見たのかも定かではないが、その絵本を見た瞬間、自分の中に鮮やかな世界が広がったことを今でも覚えている。
僕は手に届く範囲の絵本を掴んで、夢中になって読み耽った。
どうしてこんなに本に惹かれたんだろう。少し年の離れた姉がいたことが原因かもしれない。姉はとにかく僕のことを可愛がり、リボンをつけたり髪を結ったり自分の古着を着せたりした。そうしてたっぷりおめかしをした後、友達の家に連れて行って、自分だけの着せ替え人形を披露するのだ。
僕はこの行事が好きだった。年上の女の子たちに囲まれて猫可愛がりされるのは、子供心に気分がよかった。
だが問題があった。自分の時間がないのだ。
幼児は常に誰かの視界の中にいる。大人、兄弟、友達。それ自体は仕方がない。幼い子供が一人でいる事の方が問題だ。同じ空間に人がいるのは気にならない。近くに誰がいようと、自由な時間があるのなら問題ない。
しかし、一緒にいる相手が一方的なコミュニケーションを求めてくる状況は辛い。起きている間はそれがほぼ常に続いていたのだ。
だから僕は他人と言葉を交わすことを避け、自分だけの時間である読書に没頭した。
これが一度目の服毒だ。
結果として僕は、口数の異様に少ない子供として大人たちに認識されていた。
二度目は小学生の頃だった。
僕は学校で孤立気味だった。始めは周りの同級生と遊ぶこともあったが、コミュニケーション能力に難のあった僕は次第に子供の輪から外れ始めた。
その事が僕をより読書に傾倒させた。
だからといって勉強ができたわけではない。僕は知識を得るのが好きなわけでも、賢くあろうとしていたわけでもない。ただ他人に干渉されない逃げ道としての本が好きで、活字に触れている時の安心感が好きで、本を読んでいる自分が好きな、ただそれだけの子供だった。
興味のないことに関心の持てない僕は、学校の授業から早々に置いて行かれた。面白くない知識、理解のできない内容、つまらない時間。学校は苦痛に満ちた牢獄だった。
それでも図書室は好きだった。
見たことのない本が、触れたことのないような本が、壁に収まり切らない程にずらりと並んでいた。この息が詰まりそうな檻の中で、ここだけが楽園に見えた。
事実、そこは楽園だった。読み切れないのではないかと思える本に囲まれて、それらを好きに読むことが出来る。これを楽園と呼ばずになんと呼ぶのだろう。
そして僕は楽園で天使に出会った。
二つ年上の彼女は、僕と同じで本好きな少女だった。その上勉強ができて、運動も得意で、そしてとても横柄だった。
図書室だけでなく通学路でも顔を合わせるたび、彼女は偉そうに年上面して僕にあれこれとちょっかいを出してくる。もちろん最初はそれに反発した。なんとかぎゃふんと言わせてやりたいと、あらゆる方法で立ち向かった。しかし彼女はそれら全てを難なくいなして見せた。
そういう日々が繰り返される内に、僕は自分が恋をしていることに気が付いた。
認めたくなかった。あんな腹の立つ女なんか好きなはずがない。そう思おうとしても胸の内に響く鼓動は鳴り止まなかった。
結局、僕が彼女に想いを伝えることはないのだが、恋という感情を明確に理解したのは間違いなくあの時だった。その感情に誘われるまま、僕は彼女と行動し、彼女が勧めてくれた本を読み、いつも彼女と一緒の時間を過ごした。
毒のように甘い日々だった。
そして年上の彼女は、先に学校を卒業していった。
彼女がいなくなった後の学校はひどくつまらなかった。生活から色が消え去り、無味乾燥な毎日を送っていた。
そこからは逃げるように図書室に入り浸った。学校の空き時間のほとんどを図書室で過ごすようになり、同級生と育むべき人間関係を放棄して、ただひたすらに読書に耽溺した。そして休日は彼女の家に行き、お互いに本の話をして過ごすのだ。
今にして思えば健全な精神状態ではなかった。だがあの時の僕が自分の心を守るには、毒杯を煽り続けるほかなかったのだ。
最終的にその生活は僕が小学校を卒業するまで続き、その頃には既に図書室にある本を全て読み終えていた。
この時期に蓄えた毒は、今も僕の心を溶かし続けている。
最後は二十代後半だ。
この頃の僕は本が読めなくなっていた。
うつ病による脳萎縮が原因だ。活字が目を滑り、集中が続かず、読書という行為そのものに興味が持てなくなっていた。
苦痛だった。
読書とは、僕が営々と継続してきた趣味であり、心を満たす娯楽であり、僕という個人を構成する要素そのものなのだ。それが失われてしまったことがひたすらに悲しく、そして虚しかった。
来た、禁断症状だ。蓄積された毒が僕を苛む。本が読みたい。活字に目を通せ。
僕は震える手でページをめくる。意味の理解できない文字列から放たれた情報が脳の表面を通過する。散らばった単語が集中力を削り取る。
耐えられない!
悲鳴のように本を投げ捨てて、その場にうずくまる。
苦しい、読めない、助けてくれ。
それでも本に触れると安心した。たとえ読んでいなくとも、紙の手触りとインクの香りに、じわりと心が安らいだ。
しばらくは本を買うだけになった。買って積む。ただ買って積み上げる。リハビリがてらに本を手に取る。調子のいい日にページをめくる。そういう期間がしばらく続いた。
そうして、いつしか本を読めるようになった時、何かに許されたような気がした。誰かに罰せられていたわけではないが、とにかく許されたのだ。
夢中になって本を読んだ。一気には読めない。まだ本調子ではないのだから。ライトノベルでも一ヶ月かかった。それでも読んだ。読める日に読める本を読めるだけ読んだ。
嬉しかった。また本を読むことができることが堪らなく嬉しかった。
そうして再び読書を楽しんでいた僕はふと気が付いた。
今まで自分で文章を書いたことってないな。
その時の僕は古いゲームに熱中していた。二〇〇〇年代初頭に流行ったRPGだ。クリア後に二次創作を探したのだが、このゲームで二次創作がなされていたのは個人サイトの時代らしく、残っていた作品はごく少ないものだった。案の定すぐに全部読み切ってしまった。
どうにか読む方法がないかと頭を悩ませていた時、自分で書くという選択肢を友人に提示された。それまで僕は文章を書いたり物語を作ることは、自分には関係のない、どこか遠くの世界の出来事だと思っていた。だから自分で作ろうという発想そのものがなかったのだ。
書いてみようかな。そう意識した時、途轍もない衝撃が走り抜けた。思い立ったがすぐ行動と手を付けてみるが、どう文章を作ればいいのか分からない。そもそも何を書けばいいのかすら分からなかった。
それでもなんとかひとつ書き上げた。三千字にも満たない短い作品だった。
文章も滅茶苦茶で文法もまるきり無視。段落だって降りてない。何が起こっているのか、誰が話しているのかさえはっきりとしない。小説と呼ぶのも烏滸がましい作品だった。
感動した。
陳腐に聞こえるかもしれないが、あの時の僕は心から感動していた。
文章を作ることが出来る。小説を書くことが出来る。本が読むだけのものではないということを、僕はこの時初めて知ったのだった。
それからは思いつく限りを書いた。自分が読んでみたい話を書いた。書いてみたい話を書いた。内容が浅くてもとにかく書いた。書いている内に文章で歩く方法が分かってきて、文法の交通ルールも少しずつ見えてきた。小説らしい小説が段々と書けるようになった。
あれから三年が経った。特にここ一年は中~長編程度の作品も書くようになり、それを完成させるのは堪らなく楽しかった。
これが活字中毒の僕が今いる場所だ。
学生の時分から創作をしていた人にとっては既に通り過ぎた場所に過ぎないだろうが、今からでも同じ道を歩めることを心から嬉しく思う。これまでの読書経験を触媒に想像の世界に足を踏み入れることはきっと、僕が感じている以上の幸せなのだろう。
今回、このような形で自分を振り返って見たが、改めて本が好きだと気付けてよかった。
この気持ちを忘れずにこれからも読書をし、自身の内から溢れるものを形にしていきたいと思う。
<終>