鬼滅の刃ブームで感じた『社会の理論疲れ』

こんばんは、うっかり鬼滅の刃の映画でほろりと来た私です。

鬼滅の刃は、原作からのファンも多いと思いますが、
それと同じく、ジャンプ連載時にはそこまですごい漫画とは思っていなかったが「動いてみたら(アニメになったら)すごかった」という感想を持った人は多いのではないでしょうか。

そこには「映像美」もあるし「LiSAの歌声」もあるし、映画に関しては「コロナ対策での人々の鬱憤」もあるだろうし、「単純に話がいい」というのもあるのでしょう。

私がこの作品の特徴で勝因だとおもっているのは、
「シンプル」だということ。

近年、ブームになった記憶の新しい進撃の巨人や、来年1月に新作映画を控えたエヴァンゲリオン、日本を代表する漫画となっているONE PIECEなどの『考察が楽しい』『伏線回収がすごい』アニメ・漫画って今すごく多いですよね。
作者が練りに練って回収していく伏線や、複雑怪奇な設定を読み解くという楽しみ方。娯楽だと思って侮ることなかれ、「深い……」という価値観が日本のサブカルチャーのすごいところでもあると思うのです。

しかし、そんな中、鬼滅の刃の物語はいたってシンプルです。
家族を殺され、妹を鬼にされた主人公が、敵のボスを倒そうと旅に出るはなし。こう書くと、ぜんぜんすごくない。よくありそう。

敵はだれだ、裏切り者はどいつだ。そんな謎もありません。
悪役が鬼舞辻無惨ということはすぐに判明しますし、物語序盤でさっさと対面します。さらなる黒幕が……みたいな、そんなどんでん返しもないのです。

鬼舞辻無惨は作中において、絶対悪という立場から揺らぎません。
それを強固なものにしたのが、所謂無惨様のパワハラ会議こと「下弦の月を不機嫌という理由でどんどん殺していくシーン」。その少し前に主人公らが苦戦した下弦の月の他メンバーを、自分の価値観だけで難癖をつけて殺していくというシーンです。「私が正しい」という考えのもと、他者の意見は受け入れず、切り捨てていく。そこに情状酌量の余地はなく、むしろ鬼の中には悲しい過去を持っているキャラクターがいるからこそ無惨の身勝手さが目立つエピソードです。

こうのように、無惨が堂々と悪役でいてくれるおかげで、よくある「悪役など居らず正義と正義のぶつかり合い」的なこともないので、「主人公と適役による互いの正論合戦」は起こらないのです。

そのため1つ1つのエピソードがサクサク進みます。過去の回想も、最低限に絞られていて、長ったらしい語りはありません。

シンプルだからこそ読者に届く


鬼滅の刃では、戦闘中や、敵味方の言い争いのシーンでも、熱のこもったセリフをスパーン!!!と最低限発する以外は、余計な語りや解説・キャラクターの想いを長々とは説明していないので、キャラクターに勢いがあり、強固な覚悟があるように感じるのではないかと思うのです。

とくに、漫画よりもアニメはそれが顕著に感じます。
(日常シーンはさておき)戦闘シーンでは動きに重きを置きつつ、キャスト陣の熱のこもった演技で、シンプルなセリフをパーン!と発する。適役が理屈をごねて、主人公側が、その適役理論を否定するために長ゼリフを吐くようなことはほぼありません。長いセリフがあったとしても、それは、現状を説明するセリフくらいです。

恋愛要素や主要者ラクターの過去も本当に最小限なので、「こんな感じ・気持ちなのだろう」と見ている人自身のこれまでの人生経験から解釈をすることもできます。
キャラクターの背景の説明は最小限なのに、読者に想像の余地を残して感情移入がしやすく、「この考えは理解できない」「意味がわからない」ということを回避しているようにも思うのです。


これが1から100までを作者が丁寧に説明すればするほど、読者に好みが生まれるため、ピンとこない価値観(シーン)や、人ごとに感じる価値観(シーン)が発生してしまい、さらには、その作品の価値観を受け入れ難い人もいると思うのです。これが1から100までを作者が丁寧に説明すればするほど、読者に好みが生まれるため、ピンとこない価値観(シーン)や、人ごとに感じる価値観(シーン)が発生してしまい、さらには、その作品の価値観を受け入れ難い人もいると思うのです。

鬼滅の刃(特にアニメ)では、シンプルが故に、閲覧者それぞれに理由を解釈しやすく、そんな「感情移入しやすいキャラクター」が「美しい映像で」「絶対悪を倒す」なんて爽快感以外の何物でもありません。悲しいエピソードによっては純粋に泣くこともできるのだと思います。

私たちは正論疲れを起こしているのではないか

鬼滅の刃は、コロナ禍においてこそのヒット。という方もいます。コロナの自粛期間がなければここまではやらなかったという考え方です。たしかに、コロナの自粛が追い風になったところもあるのでしょうが、そもそも、人々は慢性的な議論疲れ、正論疲れをしていたのではないかなと私は思っています。

ネットが普及し、便利になった一方で、全てにおいて理屈・正論・思想や価値観のぶつかり合うシーンをSNSやネット、サブカル上で多々みかけるようになりました。自分のことを伝えやすくなったからこそ、自分のことを正当に見せるために、私たちは、言葉で自分を武装する必要も出てきました。論理的に言葉をぶつけることが正義のような場面が増えているこの世の中だからこそ、シンプルな鬼滅の刃が娯楽として大衆に受け入れられたのではないかと思うのです。


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