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LoveHotel

仕事でよく訪問する事務所がラブホテル街の中にある。ほぼ毎週のように車で向かう。そして、ほぼ毎回、ホテルから出てくる車とすれちがう。

いろんなホテルがあるけれど、いろんな人が利用してるんだな。車で入れるモーテルタイプの中をのぞいてみると、車がたくさん停まっているではないか。

そして、車の運転が乱暴でも恥ずかしげでもなく、ふつうに人の出入りがあるということも小さな驚きだった。道路が片側工事中だったら、こちらが通りすぎるまで待っててくれるし。

平日の昼間のラブホは意外にも年齢の高いカップルが多い。50台前後? 車の中に見えるカップルをチラ見して、そうか、そうなんだなと納得する。

わたしは、10年以上前のライブハウスの夜のことを思い出していた。

その夜、彼の住む町の小さな店で音楽ライブを聞いた。ギターとバイオリンのアンサンブル。スピーディな演奏に心が気持ちよく踊った。

隣の席にいたのは、わたしたちよりも10歳〜20歳は年上の中年の男女。とても頃合いよくこちらに話しかけてくれる。「飲み物、注文した?」とか「あ、もうすぐ始まるよね」とか「すごいね、いい曲ね!」とか。小さな店内に似合うフラットな雰囲気が心地よく広がり、ライブの最中もわたしたちはお互いに演奏の心地よさを喜びあったり歓声をあげたりして一緒に過ごした。

ところが、この2人はアンコールに入るタイミングで時計を見てそそくさと店内を出ていった。「またね」スマートにそう言いながらも時間を急ぐ。マダムというわけではないがこぎれいな「働く奥さん」的な女性と、やはり高級はないもののこぎれいなスーツの男性。終電にはまだずいぶん早い。

「これからラブホに行って、それからお互いの家に帰るんだな」なんとなくだけどわたしはそう思った。

ライブのアンコールまで聞いて、わたしと彼は遅い電車に乗った。かなりの雨が降った夜だった。雨粒の滴ったビニル傘が彼とわたしの膝がくっつくのを邪魔していた。

わたしたちはあと10年たっても、あの2人のように恋人でいられるだろうか? ライブのアンコールを省いて、時間を気にしながらもセックスに夢中になれるだろうか? そうなれればいい。この人とそういうふうになれたらいい。わたしは電車の中の振動で身体をくっつけながらそういうふうに思っていた。そのときわたしはそれくらいに彼のことが好きだったのだ。

10年後のわたしたちはそうはならなかった。

決定的な何かがあったわけでじゃないし、まったく連絡の取れない場所にいるわけではなく、ただただ疎遠になっていった。いや、自分が意識的に疎遠にしていったという自覚はある。もう、話さなくていい、会わなくていい、電話で話す必要もない。

誰が悪いわけではない。わたしの中のいろんなものが抜け落ちていったのだ。

愛情だけではない。身体の中から湧き上がるものとか、受け入れるものとか、そういうものがすべてストンとなくなってしまったのだ。「容れ物」それ自体がなくなってしまって、もうそこに「彼」の入る場所がなくなってしまった。

自分でも驚きだった。もう、愕然とするほど、自分のコンテンツがなくなってしまったことを「彼」によってわたしは知った。

時間がたつとはこういうことだ。年齢を重ねるということはそういうことだ。わたしはこれからこういうふうに「容れ物のない自分」を生きていくのだ。そう実感した。

それは自分にとってはすごく衝撃的な出来事あったけれど、今になっては「それも悪いことじゃないな」とは思っている。「自分の容れ物がない」ということは「人を自分の中に入れなくてもいい」ということである。それによって受け取る「甘美」もないが、受けとる「傷」もないのだ。

最近、わたしは「人を憎むことが少なくなってきた」ような気がしている。




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