冷凍マウスが可哀想に見える理由〜カラーマウスは可哀想?〜

キャットフードやハムスターフードなどのペレットは一見ただの「エサ」に見えるが、原材料は牛・豚などの動物や、穀類・野菜などの植物である。
ペレットの原材料となった牛や豚にも、1匹ずつ感情があり、人生があり、それはかけがえのないものだ。植物も同じである。
それらが殺され、原型を留めない姿になり、ペレットになる。
このペレット1粒のためにどれだけの命が犠牲になっただろう?
一食分では?一年分は?
飼育個体が生まれてから死ぬまででは、数えられないほどの絶望的な頭数になるだろう。
そしてその命ひとつひとつに頭数では推し測れない感情や人生があったのだ。
姿そのままの餌を見ると、そのことを簡単に思い起こすことが出来る。
そしてその姿は現代ではあまり見ない“ご遺体・死体”である。
見る機会があるのは、近しい人間が亡くなってしまった時と、家族だったペットが亡くなってしまった時くらいだろう。
人間でもペットでも、ご遺体に対して抱くイメージは、恐らくこの世界で一番マイナスなものだろう。悲しい、辛い、寂しい…言葉では表せない絶望的な感情だ。
個人的な見解だが、ただ死体を見たというショックに加え、そういった感情を思い出すこと、ご遺体を丁重に扱う文化であるが故に、好き好んで死体を冷凍・解凍してペットにあげる人がいるということに拒絶反応を起こす人が多いのだろうと感じる。
人工飼料と冷凍マウスの違いは?
冷凍アルビノマウスと冷凍カラーマウスの違いは?
私の答えは「見た目と罪悪感」である。
これを読んでいるあなたはなんと答えるだろうか。

・多様性とは、正解がないことを認めるということ

スーパーで陳列されている精肉を買って食べる時に、その肉となった動物の姿を思い浮かべながら食べることはあるだろうか。
生まれたての可愛い子牛を母親が優しく舐め、育った子牛が野原を駆け回り、いろんな喜びを感じ、そして最後は人間に殺される。
悲痛な叫び、冷たくなった身体、輝きを失った瞳…
目の前で煮えるすき焼きが、炭火で焼かれるカルビが、その子牛だと意識しながら平静を保って食べられる人がどれくらいいるだろうか?
逆に言うと、肉を食べる時にその原料となった生き物の姿を想像する人がどれくらいいるだろうか?
(日本の畜産が幸せに生活できる環境でないことは把握しているのでそこに関して動物愛護や菜食主義の話を聞く気は無い。各々自分のページで発信してくれ。私もそうする。)
私が言いたいのは、食事の時に想像しろ、ということではない。
排泄は生物として自然で恥ずかしいものではないから食事中に排泄物の話をするのを理不尽に止める権利は無い!と言われても、私は食事中に排泄物の話を聞きたくない。
それと同じで、何人たりとも他人の衣・食・住の権利を侵害することは許されない。
家畜のことを考えて食欲が失せる人の食事中に家畜の話をしてはいけない。
逆に言うと菜食主義者が主張することを邪魔したり、菜食主義者が集まるイベントに肉を持ち込んだりするのは、言語道断である。決して許されることではない。
それぞれが自分の価値観を当たり前に主張出来る。干渉しない。それが真の多様性というものだと私は考える。

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