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弱さを認めても何も見えてこない

 今日は久々に人に会った。荷物を受け取る必要があったのだ。それは事務的な対面だ。私はサインをした。日付と、名前を書く欄があった。日付がわからなかった。私は受付の女性に今日は何日か吃りながら聞いた。彼女はそれに答えた。私は答えを聞き、素早く紙にサインを書いた。そして、逃げるように彼女の元を後にした。
 その後、喫茶店のトイレで泣きながら吐いた。私は病んでいる、そう思った。 
 ここ数年、胸にある異物感が取れない。それは、増長したり、縮小したりする。しかしそれは、常に私の心に付き纏う。
 そのしこりはおそらく絶望だ、私の心を蝕む存在だ。しかし彼は、私を貪り尽くすことはできない、どんなに異物感が大きくなり、どんなに息苦しくなっても、私は私を忘れられない。この苦しみから、この恐れから、この不安から逃れられるならと、私は今までの人生で何度も死を希った。それは、肉体的な死である。しかし絶望は、私を肉体的な死へと誘うこともできなかった。それ故に、なんとなく辛い日々が今日まで続いている。
 せっかくなら、私の心の全てを絶望が覆い尽くしてくれたらと思う、そうすれば、おそらく苦しみからは解放される。私に精神的な死が訪れようが、私の抱えるこの憂愁は、無力感は、不安感は失われる。だが願わくば、私の心から完全に無くなってくれればと思う。異物感が完全に無くなった時、初めて私は普通の生活を送れるだろうから。

 街行く人が羨ましい、同級生には劣等感しかない。彼らは何も失わずに、普通の生活を享受できている。それに対して私は、何も得ずに、普通の生活を失った。

 常に自殺願望と共に人生を歩むことは異常だ。常に絶望が心を支配している状況は異常だ。故に、私は異常だ。人を人たらしめる条件に精神性がある以上、精神が異常な人間は、疑いなく異常な人間だ。そんな病人を、それも、精神的な不具者を、一体誰がまともに取り扱ってくれよう?
 ある人はこれを弱さだと言った。ある人はこれを甘えだと言った。ある人はこれを無能さの証明だと言った。
 結局この世の中は、弱者に厳しい、適応できないものは死んでいくのみだ。それ故、彼らの言うことは全く正しい。私は弱者だから、淘汰されていくしかない。
 しかし絶望は私を殺してくれない、苦しめるだけで、肉体的にも、精神的にも、私を死に追いやってくれない。鬱病患者は意外と自殺しない、その故は、ここにあるのだ。

 私はこれからの人生、一体どう生き抜けばいいのだろう?

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